アートとしての人生

身体をゆるす 「奇跡のコース」の身体観

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『奇跡のコース』の身体についての考え方を、簡単に伝えてくれる映画がある。

ある男性が、パソコンを使い、非常に精巧なヴァーチャルキャラクターの女の子を作った。彼は自分がつくった彼女のイメージに完全に魅了されてしまい、自慢しようとメディアのへ送り出した。ただし、彼女がヴァーチャルな存在であることは誰にも秘密。みんな彼女を実在の女の子だと思っている。すると彼女はたちまちとても人気者になり、テレビ出演、映画出演依頼がきたり、オスカー候補にあげられるほどになった。そうやって彼女の人気が収集つかなくなるにつれ、彼女が本当は実在しないことを隠しながら、その壮大なイメージをキープする彼のつじつま合わせの努力は、当然、膨大なものになる。最初は自慢に酔いしれた彼も、次第に、彼女の人気に嫉妬するようになった。彼女は大変な人気者なのに、彼は無名なまま。みんな彼女に夢中になっているけれど、誰も彼の努力をねぎらってくれない。あるとき、彼女のインタビュー番組が組まれ、彼はホスト役で質問者の役をしていたが、最後に彼女に自分に向かって「ありがとう」と言わせるのを忘れてしまった。それに彼は痛く傷つく。彼の彼女に対する愛憎は積もり積もって、それこそ収集がつかなくなる。また彼女を現実の存在のように見せかける彼の努力も、限界に達し、息切れしてきた。ある日、彼の小さな子供が、彼のこの「嘘の」一部始終に気づいてしまう。そして、「おとうさん、そうやっていくら遊んでもいいと思うけど、嘘つくのは良くないわ。正直にすべてをみんなにうちあけなさい」。

例によって、ディヴィッド・ホーフマイスターのレクチャーで聞いた話だ。なぜ最近、私のブログに、彼の名前がたくさん登場するかと言うと、ここのところ、彼の30日間続くオンラインセミナーをずっと受けていて、今終わったばかりのところだから。1日何時間も彼のレクチャービデオを見る羽目になったせい。でもとても面白くて、抽象的なコースの内容を、手に取るようにわかりやすく伝えてくれる。自分だけのものにしておくのは惜しいので、シェアしているというわけ。

ディヴィッドによると、この映画(『シモーヌ』というタイトル。詳細は不明)の最後のところに登場する彼の小さな娘は、スピリット。一部始終を見とどけ、ゆるす存在(そうやっていくら遊んでもいいわ)。ただ、自分がつくった幻想の世界を防衛するために膨大なエネルギーを費やし戦い続けるのはやめなさい。ありのままをさらし、ひらききってしまいなさいと言うわけだから。

そこまで聞くと、彼は「エゴ」、彼がつくったヴァーチャルキャラクターは、かれの「ボディ・イメージ」だってことも見えてくる。

別にCGキャラクターまで作らなくても、身体をつかって私たちが日々演じるセルフ・イメージは、虚構のもの。エゴを満足させるために、美しく、若々しく、痩せて、健やかで、力強く、エネルギッシュで活動的な自分を演じようとする。私たちの世界は、そう見せかけるためのあらゆるサポートシステムには事欠かない。化粧、衣装、サプリメント、健康法、自慢できる持ち物など、小道具やセッティングに事欠かない。それらをすべて上手く制御し使いこなして、「まあ素敵!」と感嘆されることが、エゴのよろこび。ヴァーチャルキャラクターがひとり立ちして人気者になっていくプロセスだ。

ただそれがうまくいけばいくほど、だんだん無理がたまってくる。拒食症など極端な場合までいかなくても、自分が作り出したセルフ・イメージを守るために、私たちが日々身体に加える暴力は、相当なものだ。たとえば私の母親は、いつも一サイズ下の、きつすぎる服を買う癖があった。その服のために投資していればいるほど、着れるようになるために努力しなければならなくなり、確実に痩せれるというわけだ。

あるいは、優秀でバリバリ活躍するイメージを維持するために、今日も栄養ドリンクを飲みながら、疲れた体を引きずって職場に向かう・・・などなど。

それに老化も容赦なく進行し、それを取り繕い、幸せそうな笑顔を維持するための苦労は輪をかけて増すばかり。

映画の中の彼が、自分が作り出したヴァーチャルキャラクターへの憎しみをだんだん、つのらせていくプロセスだ。「素敵」で「優秀」な自分を演じるその仮面の下で、悲鳴をあげるものがある。

病気の原因の多くは、そうした肥大したボディ・イメージを維持しようと、私たちは身体に過大な期待をかけてしまうこと。それだけでも大変な暴力なのに、なかなかその期待に体が答えようとしない(痩せない、力が出ない・・・)のを、また身体のせいにして、絶えず責め続け、とがめ続け、攻撃し続けるから。そんなことさえしなければ、私たちはずっと健康にいられるのにと、『奇跡のコース』では言っている。

映画の中に出てくるヴァーチャルキャラクターに対する愛憎や、魅惑されながらも、それを守るための重労働に疲弊したり、生身の自分は全然報われていないという徒労感にさいなまれたり・・・その一切合切は、私たちの場合、病としてあらわれる。

でも、そうやってどんなに紛糾を極めても、治療法はシンプルだ。「そうやっていくら遊んでてもいいけれど、嘘をつくのはやめなさい」という子供の声をきくこと。そしてその子供と一緒に、責めもせず、いたわりながら、自分がでっち上げた芝居をありのままにながめること。そのあと、芝居を続けてもいいけれど、芝居は芝居。それを現実だと自分や人に思いこませるのはやめること。

そうやって、ちっちゃな子供、スピリットと一緒に、芝居の一部始終を、ただただ、じっとながめる。すると、スピリットとともにいるとき特有のやさしさ、一体感、安心感がじんわりとかんじられてくる。そしてこの大掛かりな芝居をつくりあげた心の原初的な傷、「ちっちゃくて、弱くて、コンプレックスだらけの自分を、なんとか強く、大きく見せたい・・・」と思う気持ちも、だんだん、癒され溶けていく。何にもしなくても、無条件に、こんなにも愛されていると言う気持ちが、押し寄せてくるから。つまりこんなお芝居、別にでっちあげなくてもよかったってことに気づくから。と同時に、自分自身がつくりあげたお芝居の一切合切をおもしろがって、大笑いすることになるかもしれない。

笑えるようになるために必要なこの余裕、距離感が癒し。そのときにスピリットとともにすべてを見つめるまなざしが、ゆるし。その後、芝居を続けても別に構わないのだけど、自分のつけた仮面と自分の間に、隙間ができ、自由に着脱できるあそびの余地ができてる。だから、その筋立てはこれから少しずつ、変わっていくはず。「降りていく」と言われてる生き方になる。

だから『奇跡のコース』では、癒しの手段として、特別の健康法やダイエット、ライフスタイルなどを勧めたりなどは、一切していない。不安にさいなまれたお芝居の中での小道具であり、演技の一部にすぎないってみなす。この映画の例で言えば、パソコン内のイメージ操作ではなく、すべてをでっちあげた制作者に働きかけて、そこを癒さないとはじまらないって考えるわけだ。

ただ、それがあまりに不安に苛まれている時、なんでも効果があると自分が信じるものをやることは勧めている。それで安心できれば、その安心感が、対処療法的に働くから。

「このままじゃ大変なことになる!」という漠とした不安、「頑張ってうーんと特別な存在になれないと、ちっぽけで弱い私を守れない」という何か欠けた感じこそ、虚構のボディイメージ制作のエネルギー源。これが高まると、イメージと身体のズレ、葛藤から、身体への攻撃も高まる。たとえば、「これきしのことで、また寝込んでしまった、弱い自分の身体をゆるせない」というふうに。この手の攻撃を続けるくらいなら、「これをすれば安心」と自分が信じている方法に、ともかく安心感を味わった方がずっといい。

一時は健康オタクだった私も、今は何にも特別なことはしなくなってしまった。食事も、健康にいいからというより、自然に食べたくなったもの、あるいは、たまたまそこにあるものを食べてる。けれど、今のところ、問題は何にも感じていない。そんなんで大丈夫なの?と言われそうだけど、スピリットに身体をまかせて、ただただ、ありのままでいることって、とても楽、気持ちいいし、多分、健康にも一番いいことではないかな? 好みもあると思うけど、美容法でもあると思う。

ただ、ありのままでいるというと、オシャレもしない、無味乾燥な人生が始まりそうだけど、必ずしも、そういうわけでもない。インスピレーションとして内側からつきあげてくる表現衝動にしたがって、自由に、自分自身や、生活や、仕事をつくっていく、結構充実した日々が待っている。

ただ楽しくてやっているだけなので、自分が忙しくなったと感じることはない。けれど、やったことを振り返ると、ずいぶん生産性が上がってるのにびっくりすると言う具合。

「忙し」かった日々との一番大きな違いは、動機。以前とそんなに変わらない、同じことをやるにしても、不安にさいなまれて、自分を守るためにやっているのではないってこと。結果がどうなろうと、気にならないこと。それでますます自由になり、バカなこともできて、それをまた大笑いできる。そんな感じだ。ゆるしのまなざしの下では、すべてかろやかで、やさしいものになる。

といっても、油断をするといつもエゴが一人歩きし始めて、結果に一喜一憂し始めたり、頑張りすぎてしまうのだけど。それに気づけばまた、ゆるせばいいだけだ。

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