アートとしての人生

与えることで保たれる・保つことで失われる 本当のギフトとは? 

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アメリカのユタ州を拠点にして活躍する『奇跡のコース』の教師、ディビッド・ホームマイスターのデンマークでのセミナーを記録したヴィデオを見ていると、彼と一緒に教師として活躍中の中国出身の女性、フランシス・シューが、ギフトについて、ビジネスについて、面白い話をしていたのでシェアすることにしよう。

フランシスによると、名前は出さなかったけれど、今中国でトップの起業家が、あるインタビューで、「これだけの資産を持っているわけだから、ビル・ゲイツのようにたくさんチャリティのために寄付したらどうですか?」とたずねられたのだという。その時の彼の答えは、だいたい、次の通り。

私のすべての資産、すべての能力、すべての時間、エネルギーは、会社全体、世のため、人のために、最大に活かせるように管理してる。うまく管理できれば、ますますたくさんのお金が流れこんでくる。するとまたそのすべてを、一銭も残さず、また全体のために一番役立つように投資する。するとますます流れ込んでくる。その繰り返しがあるだけ。

ただ一瞬でも、このお金のほんの一部でも、「自分のものだ」って思うとき、流れは止まってしまう。

その様子はまるで一輪車の車輪を回転し続けてる限り、バランスをとって、どんどん先に進める一方、「この車輪は私のもの!」なんて思って、たとえば手に取ろうとすると、ひっくり返ってしまうのに似てる。

その意味で、すでにもうみんな手放してるんだ、ある意味、私はいつも全体のために、全資産をささげている。一銭も自分のものだって思っていない。だから寄付できるものなんてないんだ、とのこと。

これも一種のギフト。だけど、「十分儲けたから、自分が痛くない程度に、余剰分を寄付する」といったビル・ゲイツ型のチャリティとは、まったく異なるレベルのものだ。

まずエゴからスピリットへ、自分の持ち物、自分の力の全てをゆだね続けるという、とっても根本的な意味でのギフトの流れがある。このギフトがいつも進行中なので、個人としての彼、エゴとしての彼は、実際、ある意味、本当に何にも持っていない。

つまり資産をいつも手にして、管理してるのは、全体を見据えて、全体を祝福することに専念してるスピリットとしての彼。

おかげで彼はいつもスピリットからのインスピレーションに従いながら、確信に満ちた「強気」姿勢で、全体のために役立てようと、持てるもの全てを投資することができる。エゴとしての彼には関わらないので、失うものなんて何にもないもの。

スピリット特有の「全て」を気前よく贈りつづけるこの姿勢も、「余ったからちょっとあげようか」といった慈善のギフトとは、全然質を異にするするものだ。もしものときのために、すこしぐらいは取っておこう、安全弁も用意しておこうといったエゴ特有の守りの姿勢からも解放されているので、大胆無敵。語弊があるかもしれないけれど、心底、ギャンブラーにもなれるのだろう。

フランシスにこの話を聞いたディヴィッドは、すぐに「教師のためのマニュアル」を取り出して、「神の教師の特性」の中の「寛大さ」の章を読み始めた。たとえば以下のくだり。

この世界にとって、寛大さとはふつう「諦める」という意味で「手放す」ことを意味します。

しかし神の教師にとって寛大であるとは、与えることによって持ち続けることを意味します。

神の教師が寛大なのは、「大いなる自己」Selfの利益のためなのです。ここでいう自己とは、この世界で用いられるこの語の意味する「小さな自己」selfを意味するのでは決してありません。

神の教師は、自分が他者に分け与えることができないようなものは、何も持ちたいとは思いません。与えることができないものには何の価値もないからです。「何のために」それを望むのでしょうか?誰にも与えられないものは、ただ失われるだけだからです。

ここでいう「大きな自己」Selfと「小さな自己」selfは、先ほどの「スピリット」と「エゴ」と言い換えてもいい。

実業界での経験が皆無の私は、このアナロジーがどこまでなりたつかは、全く分からない。成功哲学を語れる立場にもない。

ただ、ここで問題になってるのは、量ではないこと。自分が持つ「全て」を「全て」に与え続けることなんだって考えれば、「自分にもできるかも!」って思うだけ。

たとえばお金はないし、それを皆のために生かすスキルもセンスもないけれど、別のジャンル、たとえば知識や経験だったらできるかも。

あるいは札幌の私の拠点、「森のひろば」の公共スペースを増やし、もっといろんな人にオープンにして、みんなにつかってもらうなんてこともできるかも。、そうやって、わずかなものでも、自分の持ち物、能力をすべてスピリットにゆだねて、全体のために使ってもらうこの「根本的なギフト」を贈り続けること。自分のものとして、何一つ死蔵しないことは、いつでもどこでも、誰にだってできる。

それをやってれば、「諦める」意味での「手放す」ギフト、余剰分を痛くない程度に与えるギフトが大してできない自分を責める必要も、なくなる! つまり気も楽になるというおまけつき。

ガンディーの次のような言葉も思い出す。

人々からこう質問されることがある。
「あなたは所有は暴力だ、悪だという。では、すでに豊かなわたしたちはどうすればいいのか」と。
もしあなたがビジネスマンであれば、私はその仕事をお続けなさいと答える。あなたが正しい手段で手にした資産を、決して捨てろとは言わない。しかしその資産は、決してあなた自身のものではない。
それは人々のために役立てることができるように、あなたに一時的に預けられているものだ。そのことをわすれてはならない。
わたしが富める人々に対して言えることは、富を捨てることによって富を享受せよ、ということだ。
あなたたちは、あらゆる方法によって富をえよ。
しかしその富はあなたのものではないことを知れ。それは人々のものである。
あなたが生きていくために、あなたの仕事を続けるのに必要なだけを取り、残れるものは社会のために使え。
(『ガンディー 魂の言葉』)

中国一の富豪の話などを理想化して持ち出すと、あなたは不平等主義者なのですかと問われそうだ。私の立場を明らかにして置くと、私は、お金や生産手段は、やはりそれを管理し、活かす力のある人の下にあるのが一番だって思っている。ジョン・ラスキンは、富とは、資産の量ではなく、それを活かす力と資産が出会ったところにはじめて生まれると説いた。お金を持っていても活かす力がない、たとえば私のような人間の下にいくらあっても、実質的な富はそこからは生まれない。(大学教員時代、私は壮大なプランを作ったりするのは大好きなので、研究費を当てるのは得意。だけど、お金を使うのが下手で、上手く活かせないギャップに悩まされ、いつもプレッシャーとストレスを抱えていたものだった)

同様に、たとえば、今、誰かのところにお金が集中しているとすれば–−不当に横領されたものである可能性もあるし、私利私欲のために使われていることも多いけれど––それも理由あってのこと、その人の元にあることで、それも活きてくるから・・・という場合も多いんじゃないだろうか?

ようするに、問題は、集中ー分配というより、所有概念がそこに介在しているか。また動機や目的が全体の方を向いているかにあるって思ってる。

ただ、生きていくのに最小限必要な富は、人権の管轄内にあるので、別の話。分配したほうがいい。

 

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