非二元のエッセンス

葬式の日のときのように、親とつきあえば、家族円満

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ここ2週間の予定で、実家に戻ってる。こんなに長く実家にいるのは30余年ぶり。

水と油のように、口をひらけば正反対のことを言う母親と私。平和のうちに一緒にいられるのは、せいぜい3日だと思ってた。1週間の予定できてもどうしても一緒にいられなくなって、飛行機のチケットを買い直し3日で戻ったこともある。

それが、今回はなぜ、2週間の予定で来るなんて暴挙に出たのか。

両親ともに80代にさしかかっていて、仲直りするのは、もう待ったなし、今しかないかもって、思ったから。

いつも通り、何十年もたまった小言の集中砲火が母親の方からはじまった。とても期待していて、たくさん投資したのに、ちっとも期待通りの人生を送ってくれない。どうしていつもバカな決断ばかりするのか・・・などなど。最初はいちいち自己弁護。「だってね、私の価値観からすると・・・」いつのまにか、ついつい、大学教員時代のようにレクチャーがはじまったりする。

でも、はたと思ったのは、私が今、ここに来てるのは、自分が正しいことを証明することかしら? 自己弁護することかしら?

母には母の理屈もあるし。人の数だけ理屈はある。どれだけ鍛え抜かれていて、膨大な情報が背後にあって、洗練されてるか、おかげでどれだけ思い上がってるか(!)その違いはあるかもしれないけれど。理屈は理屈。人間関係が問題になるところでは、役に立たない。

いくら理屈をこねくりまわして、どっちが「正しい」か、決着をつけようとしても、人間関係、とくに家族関係の修復にはつながらない。

逆にそうした違いを笑いとばし、冗談のタネにできるような気持ちの余裕、「あそび」をつくりたいんだ。

それはどこから湧いてくるかというと、やはり、いつもいつもそこにあったし、これからも変わらずあるのだけど、忘れられがちな「愛」の存在。これに自覚的になること。思い出すこと。

例えば、誰かが死んで、肉体を離れた時、
その人が自分にとってどんなに大切だったか、あらためて自覚する。
いろいろあったけど、全て小さなどうでもいいことだったって、自然にゆるせる。手放せる。
今あるのは、ただ、愛と、感謝。

その心境で、まだ生きてる親とも、つきあえばいいんだ!
そんな風に気づいてから、ずっと楽になった。
たとえば母親から何かカチンとくることを言われたら、
「今日は彼女の葬式の日、自分は彼女のことをどう感じているだろう」って考える。

なんだか不謹慎、めっそうもないことを考えてるように見える。
けれど、本当の意味で死は存在せず、肉体と、肉体に結びついていたエゴを、
着物を脱ぐように脱ぎ捨てて行く、一種のイニシエーションだって考えるなら、大丈夫。そのあと残るスピリットのかたちでは、私たちはいつも一体。しあわせのあまり、笑い呆けてる。

そんな風に考えるなら、「その人のお葬式の日のように、その人とつきあう」とは、スピリット同士でまず出会おうとすること。

もちろん生きてる限り、そこにエゴの「違い」「理屈」もそこにべったりまとわりついている。けれど、最初にスピリット同士で会うことで、どんどん軽やかになり、それをネタにしていつまでも笑ってられるような冗談めいたものに見えてくる。

この余裕、「あそび」のスペースを保ちながら人とつきあうのに、「その人のお葬式」を思い浮かべるのは、いいわ。80過ぎの両親の前で、当然のように思いついたイメージではあるけれど。ひょっとすると、若い人相手にしてるときも効くかもしれない! 「あ〜この人苦手」「どうしてもゆるせない」と思うたびに、「今日はこの人のお葬式」だって考えるわけだけど、やっぱり変かしら? 

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