アートとしての人生

迂回の人生を終わらせる 闇を抱きしめることが光のはじまり

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愛猫の名を呼ぶ!

ほとんどの悩みは、形を実質ととりちがえる、レベルの混同からくる、とつくづく思う今日この頃。

たとえば、しあわせのためにやってるはずのことが、しあわせになる時間もない、生きにくい世界を作りはじめたり。あるいは、人間関係をよくするためにやることが、どんどん義務的、儀式的な負荷になって、愛そのものとはかけ離れていったり。ゆたかになるためにやってるはずのことが、もっともっときりつめ、貧乏くさくケチケチすることだったり・・・

何かはじめると、だんだん慣性の法則が働いてきて、形を維持することにとらわれ、実質を見失ってしまう。頑張れば頑張るほど、ゴールから遠ざかるからまわりが始まる。ぬかるみにはまった車のアクセルを躍起になって踏み続けてるときみたいに。

どうしてしあわせそのもの、愛そのもの、ゆたかさそのものに、始めからとびこまないんだろう。その「海」は、一人一人の心の中に、無限にあるのに。それを見つけるために、どこに行く必要も、誰に頼る必要も、何をする必要もないのに。

何もしなくていいというのが、思いのほか、むずかしいのかな?

あるいは近すぎるのが、難しいのかな?
お気に入りの首飾りを一生懸命さがしてるのだけど、どうしても見つからない。それもそのはず、すでに自分の身につけてたから。その手の難しさに似てる。自分自身だけは振り返らない癖をあらため、まずは、自分をチェックするようにすればいい。

それは、じっくり、ゆっくり、自分の「今」を味わうこと。

そうすることで、私たちがそこにたくさんくっつけている決めつけ、レッテル、心配、期待・・・が、自然に剥がれ落ちるにまかせる。

その後そこに姿をあらわすのは、しあわせそのもの、愛そのもの、ゆたかさそのものが、名もなく、形もなく、広がる領域。

それを本当の私とも、神とも、たましいとも、ハイヤーセルフとも、なんとでも、自分に一番しっくりするやり方で呼べばいいと思う。

私の知り合いに、子供の時に大切にしてたクマのぬいぐるみの名前でそれを呼んでる人がいた。その人にとってかつて世界のすべてだったし、それは今も、自分の肩の上に乗って、いつも一緒にいる気がするだからとか。私はそれを、これまで一番かわいがってた、今は死んでしまった猫の名前で呼ぶことがある。その子のことを思い出しただけで、胸に愛がとっと流れこんでくるから。冒涜的に聞こえるけれど、問題なのはあくまで実質的な体験。そのときそのときの自分が、そこから癒しと再生の力がくみとれて、しあわせ、愛、ゆたかさに満たされればいいのだから。「神」と呼んで、単に儀式的にかしこまってしまうだけで何も感じられないのなら、大好きだったぬいぐるみやペットのイメージの方が、ずっと役に立つ。ここでは、とりあえず、中立的に、「スピリット」とよぶことにしよう。

とにかく普段から、自分の中に棲んでいるその存在と親しんで、その名を呼べば、いつでもこの体験の実質がよみがえるようにしておくことは、子供っぽいことでも、夢物語でもない。とても、とても、実用的なこと。しあわせそのもの、愛そのもの、ゆたかさそのものならぬその代替物を追いかけて、何十年もむなしく世界をさまよう時間を省略させてくれるのだからね。人生、とてもシンプルになるのは受けあいだ。

その効果が簡単にわかるのは、「今」が、ことさらそこから目をそらし、逃げたくなるようなストレスや苦痛とかかわっているとき。

というわけで、とりあえず、そこから、やってみよう。

闇を抱きしめることが光の始まり

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いつまでも根強くいすわる不調を観察してみると、そこにはいろんな理由づけの糸が、縦横無尽にはりめぐらされていることが多い。

例えば、今日は疲れている。なぜなら昨日、明け方近くまで飲み明かして、睡眠不足と二日酔いだから・・・

頭が痛い。風邪をひいているから。熱が出てきているのかもしれない・・・

欲しい返事がいつまでたって戻って来ないから、仕事を先に進められない・・・

なぜ不調なのか、その理由が見つかると、次に現れるのは、後悔だろう。バカなことしたな、あの時こういう行動をとれば、こんなことにならなかったのに・・・

人や責めたくなることもよくある。あそこであの人と会わなければ、あの人がやるべきなのに、肩代わりされたせいで、忙しくなってむりをしてしまった・・・・

もう少し複雑な反応として、そうしたすべてを考えたり、感じてる自分を責めることもある。これしきのことを気に病んでる自分は、まだまだ修行が足りない。私はポジティブで、幸せに溢れてるはずなのに・・・・向上心が高く、自己実現に熱心な人ほど、おちいりやすい罠だっていえる。

あるいは、自分はすでに相当なところまで自己実現してるって決めてかかってる強がりさんであれば、こんなこと、大したことない。私は強い人間だからと、辛がってる自分を否認したり、事態を過小評価することもよくある。

私がおすすめしたいのは、逆に、
そんなあらゆる理由づけや、責任転嫁、出来事や人や自分を責めるジャッジメントのすべてを、とりあえずすべて脇に置くこと。

そしてただただ、今あなたが感じていること、たとえば疲れや不快感や怒りそのもの、それのみを、大切に、大袈裟なくらいに大切に、じっくりと、そのありのままを感じ、味わってみる。苦しんでる自分の弱さも、しっかり感じることだ。先ほどのたとえを使えば、首飾りをすでに身につけてる自分に注意の焦点を移すってことでもある。

理屈をすべて置いて、どんなふうに、それは感じられる? 重たい感じ? 刺すよう? 締め付けるよう? その「どんなふうに」howに思いを凝らし、それを味わいつくす。

それにつれて、たとえば、お腹がグッと重く感じられたり、心臓がきゅっと締めつけられるように感じるというように、身体のどこか一部に、不快感や痛みが集中して感じられてくるかもしれない。その場合は、身体のその一点に、注意を集中して、その感じを味わってみて。

そんなふうに、感じることに徹するにつれ、そこにまとわりついている理由づけ、決めつけ、レッテル貼り、ジャッジメント、イメージなどなどが、どんどん剥げ落ちていく。それらが剥げ落ちていくままにまかせて、名もない感覚の塊だけが残るようにしてみて。

この名もない感覚の塊に集中するにつれ、いろんな記憶やイメージが蘇ってくることもある。直接この感覚とは関連してないって思われるものまで、とりとめのないイメージや考えがひらめくかもしれない。

それはうまくいっている兆候。だけど、そこで思い出されたことや、浮かんできたイメージや考えそのものはとりあわないで。そこにかかずらい始めると、過去の世界にさまよい出ることになってしまうから。「ああそんなものがあるんだ」とただ傍観しながら、「今」このときに感じることだけに集中して欲しい。

「こんなことになったのも、〜のせいだ」といった理由づけはすべて、過去の記憶からくるもの。それらが剥がれ落ちて、ただ感じることに徹したとき、ただただ「今」の一点に、私たちは、すとんと自分を落としこんでいくことができる。

首飾りが見つかり、癒しの力が湧いてくるのは、この「今」の領域だ。自分の「今」がたとえどんなものであれ、じっくり大切に感じる時、まずは、落ち着き、平静さがもどってきて、ある一線を超えたあたりから、だんだん楽になってこないだろうか。

ストレスや不調を「嫌だ」「ダメだ」「どうにかしなきゃ」と否定し続ける限り、それは居座り続け、悪化することさえあるのに、それをまるごと、ありのまま受け入れ、大切に味わっていると、消えていく。まるで、後ずさりして歩き出すことで、眼前の目的地につけるような、不思議な感覚だ。

うまくいかないときは、ゆっくり深呼吸して、吐く息とともに、もう一度、痛みをゆっくり解き放ってみて欲しい。

一番確実なのは、あなたのスピリットを呼ぶこと。自分のこの痛みを、ぎゅっと握りしめた手を開くように、隠すことなく、さらして見せて。するとそこがきれいに浄められて、暖かな光がさしこんでくるのが感じられるだろう。

完全に自分をオープンにできるか否かが、分かれ道だ。マッサージをする時、私たちはマッサージャーの人に、自分の身体を完全にゆだねきる。そうやってリラックスできればできるほど、マッサージの効果は高まる。「自分の身体は自分のもの、自分で管理するわ」と身体をかたく閉ざしていては、せっかくの効果も半減してしまう。

それに似てる。私が知ってる一番気持ちのいいマッサージ、エサレンマッサージは、全裸にならないと受けられない。よく知らない人の前で、裸で横たわるのは、なかなか勇気がいる。でも抵抗する自分を超えて、信頼し、ゆだねることができると、天国のような体験が待っている。

スピリットの助けを借りるのは、それに似てる。心の中に住んでる極上のマッサージ師みたいなものだ。

あるいは、下に落ちたら大変なことになると思って、一生懸命、縄にしがみついていた人がいて、その縄もほつれて来たし、手も疲れて来た。そこで思い切って手を離してみると、一巻のおしまいどころか、ただただ、やさしく、やわらかいソファにふわっと受けとめられ、安らぐ体験が待っていて、びっくりするのに似てる。今まで頑張ってた、あれはなんだったんだろう? という感じ。そのソファの感触がスピリットだといってもいいかも。

感じることを、「今」の領域に持ちこめば、闇が次第に晴れて、膨張していく光に抱きとめられる。この時に私たちが包まれる領域を、ナウトピア、今、ここにあるユートピアと呼ぼう。それは、全てを「今」にもたらした時、形が消えて残る、私たちを覆う暖かな雲のことだ。

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