奇跡のコース

何者でもないしあわせ

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3年ほど前、勤め仕事をやめてから、私は名刺をほとんど持ち歩いていない。ときどき思い立ってつくりはするものの、いつも忘れてしまうし、使いもしないうちに、なくしてしまったりすることも。

自分でもほとんど気づかなかったのだけど、無意識のうちに、自分を定義するのを避けてたのね。

実際、私が昔よりしあわせになったとすれば、その一番の理由は、自分を定義するのをやめたからじゃないかなって思う。

自己定義はジャッジメントを次々と引っ掛ける蜘蛛の巣のようなもの。

例えば自分は先生だって思う。すると、先生らしくしなきゃ。先生なのにこんなことをしてる。私って、どれくらいいい先生なのかな。あの先生よりはマシかしら・・・あるいは、「先生らしくないのが私のポリシー」なんて、ひねった形をとることもあるけれど、比較や序列化、規範とのズレを測る・・・といったロクでもないエゴの独り言がぶつぶつとはじまる。

一旦定義すると、それが受け入れられるか。人の反応も気になってくる。承認されてるかどうか、気がかりで夜も眠れず、一喜一憂。アップダウンを繰り返し落ち着かない。

アップダウンの中、何とかアップの状態でい続け、優位を保とうと、自分の専門を決める。これだと、負けない。「私にだけはわかるのよ・・・」って領域をつくって、自分を守ろうとする。あの人はまだだめね。こんなところがまだまだ。などと、言いつづけるために。

同業者や近い立場にいる人たちほど、その人がいるおかげで、自分の存在価値がうばいとられそうな脅威を感じるものだから、なにか批判のタネを見つけて、難癖つけたくなる。そんな人たちこそ、協力し合えれば、すばらしいのにね。

まるで、窮屈なお仕着せを、自分から好き好んで着ているよう。誰ものぼってこれないような高いところ、狭いところに自分を囲いこむほど、批判されてる、嘲笑されてる、攻撃されてるといった被害妄想も増していく・・・

問題なところを見やすくするために、ちょっと極端な話をしてしまったかもしれない。しかしどんなに長じても、この地獄のすべてが、自己定義をやめると、手品のように一緒に消えてしまうのが、うれしい。

何者でもない幸せ。ただただ、スピリットを抱きしめて、心を空っぽにして生きていられる幸せ。
インスピレーションのうながすままに、いくらでも、バカなことをやっていられる幸せ。

こんなバカなことにうつつを抜かして・・・もと同僚が見たらなんていうだろう・・・なんて思うこともあるけれど、そんなときほど、スピリットを抱きしめ、頭をもたげてきた自己定義をリセットする。

過去のことは瞬時に忘れ、あらゆる可能性に向けて、オープンに、待機していられる。

何者でもないこと、失うものは何もないこと。

人生の全体を呼吸だけでできてるかのように、ますます、かろやかにしながら、文字どおりスピリットそのものの中へと抱きとられるように生きる。

無責任に聞こえるけど、実際にやってみると、これほど生産的になれる状態はない。だって、ストレスやプレッシャーがないのだもの。

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