非二元のエッセンス

悟りを求める人って、「金になりたい」と願う金の指輪みたいなもの

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コースや非二元を学習する会をはじめてから、3年以上になりますが、
一番、注意をはらっているのは、参加者のみなさんに、

「私はありのままではいけない。もっともっと努力しなきゃいけない」

と思ってしまう、もう一つの理由づけを与えないようにすることです。

たとえば、
私は、実相、リアリティを、祈りや瞑想の後の、たまに、すこし、ほっとした、安らかな感じとして感じることはあるのだけど、
至福感としては感じられません。
私、まだまだですね!

などと思う必要は全然ないです。

たまに、すこし、ほっとした安らかな感じを感じられるのだったら、
それが、あなたの、100%の正解。
どうぞ自信をもって、その中に、ただただ、100%味わう、
まるで、この世界には、それしか存在しないように、両手を広げて、抱擁してください。
その中に浸りきってください。
そうすると、その中から、次のドアが開きます。

みんなで学習しましょうね。ということには、「だってあなたはありのままじゃいけない」ってことが、含まれているじゃないか
なんだか矛盾してるじゃないかって思われるかもしれませんね・・・・

でもコースでいう学習って、自分はありのままじゃいけないと思いながら、してきた学習、あるいは、今現にしている学習
全てを取り消すこと。すでにしてしまった学習を取り消しのための学習なのです。

なんだか頭がこんがらがってきそう・・・と思う方もいらっしゃるかも。

たとえ話をしましょう。どこかで聞いたたとえ話だって思われるかもしれません。
私自身、たぶん、ルパート・スパイラさんか、フランシス・ルシールさんの本で似たたとえ話を読んだのに触発されてますが、
かなり自己流にアレンジしてます(笑)

「金ってどんなものだろう? 金になってみたいものだ」と、金に憧れる金の指輪があります。

笑ってはいけません。悟りを求める私たちって、実は、これにそっくりなのですよ。

金は何やら立派なものだって思ってるので、この指輪、ありのままじゃいけないと思って、
自分を彫刻刻んで、身を飾りはじめます。
その度に、自分を傷つけますが、金になるためだったら、辛いことも我慢しようって懸命です。

そうやって、いろいろな形で身を飾れば飾るほど、ゴテゴテして、自分がなんでできているのか、みえなくなり・・・正体不明になっていきます。

指輪自身も、クタクタに疲れてしまいます。

そのとき、ある人が通りかかって、何をしているか、指輪にたずねます。「金になりたいのです」という答えを聞くと、
「いくら努力しても無駄だよ。あなた自身がすでに金だから」と、その人は答えます。

「でも、私は疲れてへとへとで、全然、そんな気がしないのですが」

「まずは、ありのままを否定して、身を飾るのを、やめることだ。
何にもしないで、これまで刻んだ彫刻を取り消して、ただ、素材に戻りなさい」

言われた通りにすると、あら不思議、金は、「自分が金だった!」ということに気づき、
幸せに、内側から燦々と輝き始めました。

というわけで、みなさんも、これ以上、自分のありのままを否定して、改善しよう? と努力するのは、やめてください。

何もしないで、考えないで、ただただ、自分が何でできているか、その素材にだけ触れる・・・・
その幸せの中に、これまで、自分とは別物になろうとして、一生懸命学習してきたことを、溶かし込んでいってください!

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