コース学習者は、心が動揺するたびに、それを、「結果のレベル」ではなく、
「原因レベル」で癒すように、推奨されています。
この考え方って、もし、心の動揺のすべてが、
私たちが、それを通して、すべての出来事を信念に由来してるって考えたら、
とても理にかなってるってわかります。
何でも、赤く見える赤いサングラスをかけたまま、
一生懸命周りのものを、青く塗ろうとしても、無駄ですよね。
それと同じように、
たとえば、どこを見ても欠けたところしか見えないメガネをかけたまま、
欠けてみえるものを満たそうと、一生懸命頑張っても、無駄なわけです。
それが「結果レベル」を操作して、癒されようとすることです。
「原因レベルで癒す」というのは、これに対して、
単に、メガネを外すってこと。
そうすると、リアリティ、そこに本当にあるものには、
なんの問題もなかったんだ、どこも欠けたところはなかったんだ
ただただ、ゆたかで、やさしく、安らぎに満ちてることが、わかります。
このなんの問題もないリアリティから、自分から進んで分離を企てて、
この分離を永続化させるために、いろんな信念を抱いて、
欠けたところだらけ、問題だらけの世界を見てることが、わかります。
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原因レベルで癒さないと、意味がない! これをわかりやすく見せてくれる、もう一つのたとえを、紹介させてください。
私たちの人生を映画にたとえたとき、心の動揺はすべて、
映画全体を投射してる、プロジェクターの不具合から来てるって考えるわけです。
たとえばプロジェクターのレンズが汚れてると、投射されたものすべてが、くすんで見えてきます。だからといって、そこで投影されているものをいくら操作して、たとえば、ピカピカに磨こうとしても、意味ありませんよね。
プロジェクターを直す必要があります。
それが、原因レベルで癒すこと。
さっきのたとえでいえば、「メガネを外す」ことと同じです。
メガネを外せば、問題がみえなくなる。ただ、ゆたかで安らかな世界がひろがっているのがわかると言いましたよね。
プロジェクターの例えにひきつけて言えば、それは、
光だけが実在する。光が全てを見せてるんだって、気づくことですよね。
光だけ、しあわせだけ、安らぎだけをリアルに、実在するものとして感じるようにして、
その中に、心の動揺を全て溶かし込みながら、
分離の信念を癒していけば、
「原因」レベルが整うので、自動的に、心を動揺させるような、いたましい「結果」は、見えなくなります。
まず最初に神の国と、その義を求めよ。そうすれば、ほかのすべてはついてくる。
というわけです。これがコースの癒しの王道です。
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結果を操作しても、原因レベルにある問題、心の問題は解決しないのは、明らか。
なのに、結果を操作することで、心のレベルでも癒されるって思うことを、
コースでは、「魔術」と呼んでます。
理にかなっていないので、やっても無駄。
なのに、なぜ、私たち、結果を操作するのをやめられないんでしょう?
恐れにかられるからです。
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原因レベルで、心を癒して、愛しかないのを確認するのが、コースの王道ですよね。
それに対して、恐れは、結果レベルで、なんとか、癒そうと頑張るように私たちを誘惑します。
それが魔術。
王道でいくのが、もちろん、推奨されてはいるのですが、
恐れがすでに支配してるところで、それをやろうとすると、恐れが増大してしまう。
そういうときは、これ以上恐れを増大させないように、対処療法としての魔術をいいよってことだったと思います。
そういう意味で、魔術も許されてるって、コースでも言ってます。
ただ、そうやって、恐れが対処療法として、仮初にも治まった状態をつくるのも、ひとえに、
王道の癒しをコツコツやれる、落ち着いた状況をつくるため。
あくまで、目的な、王道の癒しをすすめるため・・・ってことが重要だって思ってます。
たとえば、お金のことが気になって、一円でも節約しなければ、稼がなければと焦ってしまう場合。そこで悪さをしているのは、明らかに、原因レベルにあります。つまりその人が、欠乏を見てしまう信念のレンズを通して、世界を見ているから。根本的に癒されようと思ったら、欠乏感を感じるたびに、コツコツ癒していく必要があります。
ただ、あまりにお金のことが心配で、「これは心の問題だから」って何もしないで、ただ、癒しだけに専念します! といっても、そうすることで、ますます恐れが強まって、ますます欠乏を感じてしまう連鎖に入ってしまう可能性もあります。そんな時は、まずは働いて、ひとまず、落ち着いて、心レベルの癒しができる状態になるのが先決だってことですね。