非二元的なことについて、語ったり話してたりすると、よくいただくコメントとに、
「あらゆる体験から、抵抗を消して、何にでも、サレンダーしちゃうと、
何にも改善できないじゃないの!」
というのがあります。
たとえば、今日は朝起きた時から、なんだかわからないけれど、とても、憂鬱。そんな時に、なんとか気分を晴らそうと、好きなところに出かけたり、音楽をかけたり・・・
これも抵抗? そちらにいくと、癒されないの?
おすすめなのは、それよりも、この憂鬱を、たった一つの非二元的な体験。光のお饅頭の具としてまとめたうえで、しばらく、じっとしてみてください。
すると光のお饅頭の皮がだんだん、いい具合に、「憂鬱」に染み込んでくる気がしませんか?
でもそれは、「憂鬱」であるのをやめるのとはちょっと違う。憂鬱は憂鬱のまま、輝きだすんですね。
きゅうりを輪切りにするところに似てます。
輪切りにする前には、ただ、きゅうりがありますね。ひょろっとした細長い緑色の野菜です。
それを今、まな板に置いて、シャカシャカ輪切りにし始めます。できるだけうす~く、透けるほどうす~く、輪切りにしていってるって思ってください。
そんなふうに、私たち、「憂鬱」な時間を、今、この瞬間の連鎖にシャカシャカ輪切りにしながら体験することができます。
うす~く輪切りにしたきゅうりを光に当てると、透けて見えますよね。
これが癒しです。
私は「憂鬱」と思い込んでいる時には、
「きゅうり」という、
ひょろっとした細長い緑色の野菜は見ているけれど、
光が透けて輝く、きゅうりの「断面」は見ています。
ちょうどそれと同じように、
今、今、今・・・・と今だけ感じながら生きていくのは、
なんでも輪切りにしながら、断面だけ見て生きていく生き方に似てます。
今この瞬間で、時間をすぱっと輪切りにされた断面は、いつも真新しいです。
過去からの記憶が断ち切られ、
なんでも初めて見るように見える
難しく感じられるかもしれませんが、
ありのままに直接体験されることを取り出すと、いつも、この断面が見えます。
生まれたての赤ちゃんの目で見える世界です。
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シャカシャカ薄く輪切りにされたきゅうりも、きゅうり。きゅうりであることはやめません。
でも、包丁を差しこんで薄切りにされたその断面に、光が染み込んで、きゅうり全体が光ん溢れてきます。
そんなふうに、「憂鬱」を、一瞬一瞬、今この瞬間で輪切りにするように味わってみてください。
過去を知らない、無垢な赤ちゃん視点で、味わってみてください。
みんな同じ 日々是好日
私たち、苦を避け楽を得ようと、いつももがいています。
でも、今、この瞬間で、うす~く輪切りにされた野菜は、
きゅうりであろうと、大根であろうと、
同じように、光を透かして、輝きますよね。
まな板に乗せて、シャカシャカ輪切りにしていくと、断面からどんどん光が入って、光に包まれていきます。
それと同じように、憂鬱な時も、嬉しい時も、
今、今、今・・・の瞬間で、薄く輪切りにされたとき、断面に染みわたってくる、
その光は、いつも同じです。
非二元的に生きるって、
きゅうりも、大根も、
うれしいことも、楽しいことも、
全ての時間を、
断面からしかみないぞ・・・って決意して、
今この瞬間の真新しさの包丁で、シャカシャカ輪切りにしながら、生きていくのに似てるかもしれません。
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ここ、数年、私の新年のご挨拶はいつも、
今年も、毎日が、元旦でありますように。
そして、同じ日でありますように。
です。今年も、そう言いながら、皆さんにご挨拶できればと思います。