この世界は幻想に過ぎないというコースのティーチングを聞いて、
厭世的になってしまって、
何をやっても虚しいって思って、
禁欲主義に走って、やりたいこともやらなくなったり、
行動範囲が狭くなる方、いらっしゃるみたいですよね。
残念だなって思うこと、よくあります。
もちろん、私自身も、「世界は幻想」だって思っているのですが、
それは、どちらかというと、「じゃあ、思いっきり楽しんでいいんだ!」「大冒険もできるんだ!」って、お免状を与えられたようにしか感じられなくて、
そう思うたびに、心が喜びに満たされて、なんでもやる気満々になるんですよ。
だって、「世界は幻想」というのは、「実相しか実在しない」からですよね。
実相だけが実在するのだったら、それだけ見てればいいってことですよね!
コースの序文、イントロダクションにあるように、
実相であるものは、脅かされるなんてあり得ず、
Nothing real can be threatened
実相でないものは、実在しない。
Nothing unreal exists
ってことです。
で、実相とは何かというと、100%の愛であり、安らぎです。
映画館で見ている映画のストーリーがどんなに悲惨でも、そこに「本当に実在」するのは、スクリーンだけ。
それと全く同じように、人生の映画の中に、今、どんな悲惨なストーリーが展開中でも、そこに「本当に実在」するのは、実相の100%の愛であり安らぎだけ!
それをまずは感じて、100%信頼することにしましょうって言ってるんですね!
「この愛と安らぎ、今はまだ、感じられないよ~」という方も、大丈夫。
とりあえず、ここにそれがあって、それだけが実在することを、信頼すればいいわけですから! そして、その信頼の上にゆるぎなくある。
すると自然に、この実相スクリーンの上に、その時々に映ってるものは、
100%の愛とのんびりとした安らぎに満ちて、見えてくるようになります。
形の上では、たとえば「悲惨」なままでも、
中身が、愛と安らぎに充満して見えてくるようになります。
それがどう体験されるかはその時その時で違いますが・・・
たとえば、仕事も人間関係もうまくいかず、人生八方塞がり、
あるいは、病気で、苦しくて仕方ない。
それでも、心の底をのぞいてみると、
なんだか妙に大丈夫な感じ、守られてる感じ、
能天気な感じがある。
しばらくこの感じに浸っていようかな?
そんなかたちで、体験されるかもしれません。
あるいは、誰かに、何か耐え難いことをされた。
あの人だけは許せない。
狂った状況のせいで、これまで積み上げてきたことが、台無しになってしまった。
私は犠牲者、悲劇の主人公って思える証拠は山ほど見えるけれど、
なんだか突然、すべて、どうでもよくなってきた・・・
みたいなかたちで体験されるかもしれません。
100%の無条件の愛のまなざしには、そもそも、見るものから、愛以外の全てを一掃する力があります。
たとえば、誰かがあなたを、100%、無条件に愛していて、
あなたがどんな悪人で、
前科者で、連続殺人犯で・・・
あるいは表面は清く正しく生きていても、心の中ではいつもとんでもないことを考えていて、
頭も悪くて、何一つ覚えられず、身に付かず、
学校時代、どんな先生からも見捨てられた経歴の持ち主でも、
美しいとは、お世辞でも言えない外見の持ち主でも、
あるいは、ある時、火傷をしてとても悲惨に見える外見になっても、
それでも、あなたを100%愛する気持ちは、全然変わらない。
そんな人がいたら、その人のまなざしの下では、そのすべてが、意味を失ってしまいますよね。
実際、聖霊(私たちの進化がそちらへ向かっているキリスト意識の中にすでにある私たちの心の部分)も、
イエスのように、すでにそこへ心の全体が到達したアセンデッドマスターも、
そんなまなざしで、あなたのことを見ているのですが、
このまなざしだけが、正しいものを見ている、
このあなたの見方だけが、あなたの実相を見ていて、信頼できる
とすると、どうでしょう?
あなたが世界の中で、世界の中で展開中のストーリーをみながら、
自分自身に対して下す自己評価すべて、意味を失う。つまり、
「幻想だった」ってことになりますよね!
そういうまなざしで、人のことも、人がなすことも見ましょうって言ってるんですね。
「聖霊視点で見る」ってそういうことですよね。
100%の愛しか見えない視点は、
痘痕を見てもエクボに見える視点。まさにそのことで、痘痕を「幻想」とみる視点です。
そんなふうに、どんな欠点を見ても、「まさにそこが、いい味出してるんじゃないか!」って言える視点といってもいいかも。
怖い目にあっても、「なんて面白い『ごっこ遊び』!」って笑い転げることもできて、
絶対安全なふわふわのクッションが底で支えてくれているから、
いくら派手に転んでも、大丈夫。「今度はもっと派手に転んでみようかな!」って言える視点です。
コースの筆記の最中、特に最初の頃は、ヘレンの注意がそれっぱなしで、イエスの口述が途切れがち。そのことで、ヘレンが罪悪感を持ったり、見捨てられる不安にさいなまれるシチュエーションがあったようです。
その時イエスは、「私の努力は無限にあるってことを、役立ててくれ」って言います。
誰かが自分を、無限にサポートし続けるって、本気で言ってくれている時、
どんなに出来が悪くても、絶対見捨てないし、あなたに対する評価もゆるがないって言ってくれている時、
失敗するかしないかも、意味を失ってしまいますよね。そういう意味で、それも、「幻想」だっていうんですね!
*
「実相」しか存在しないというのは、
その上で、いくらでも派手に転べる
この絶対安全なふわふわのクッションしか、存在しないってこと。
これを解放と言わず、なんと言いましょう!
あなたは自由なんだ。
あなたが何をしようと、どっちみち100%愛されてるから!
そんなふうに、いつも言われてるってことですよね。
いくらでも、大胆に、いくらでも、リスクをとった大冒険に乗り出すことができます!
もちろんそうやって、全方位、この100%の愛のふわふわのクッションにくるまれているって感じてる私自身、
愛そのものなので、
この自由を逆手にとって、「じゃあ何をやってもいいのね!」と犯罪行為に手をつけたくなることは、まずありません(笑)。
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「世界は幻想だ」=「100%の愛しか、やっぱり、実在しなかった」。
そのことを、たしかめていくのが、ゆるしです。
愛は否定をしませんから、起こったことはそのまま。
責めたり、ジャッジして値踏みすることもなく、
ただ、100%の愛で眺めます
そうすることで、出来事を100%の愛と安らぎで満たしていきます。
それがゆるしですね。
私たちの人生の出来事がすべて描かれた塗り絵の絵本があって、
体験するたびに、そこで感じられた感情の色を塗って、
そこに描かれた、塗り絵を仕上げていくとしましょう。
実相しか見ないゆるしのまなざしは、そのすべてを、愛の光の色で塗っていきます。
そうすると、すべて塗り終わった時、塗り絵の絵本は光の中に消えていきますよね。
そんなふうに、「世界は幻想だったね」と確認するのが、私たちのゴールです。
*
というわけで、「世界は幻想である」という言葉を、エゴの視点で理解するか、愛の視点から理解するかで、全く逆の意味になっちゃうんですよ。
エゴが、この言葉を理解しようとすると、「世界は虚しい」「何をしても無駄だ」ってことになりますよね。で、厭世的になったり、閉じこもり気味になったり、しがちです。
そうではなくて、何をしてもいいので、とにかくそれを、実相の愛と安らぎの光の色で染め上げよう、そうすることで、全ては夢だったねって確認しようねって言ってるだけ。
全ては夢だってわかってはじめて、実は、夢の内容も、手放しで楽しめるようになります!
もちろん、厭世的になって、たとえば洞窟のようなところに閉じこもって生きていくのも、
OKですが、それは、そんな「人生の塗り絵」のページが加わっただけ。
それ以上のことを意味することはありませんし、それだけでは、人生を超越することは、できません。
この「人生の塗り絵」のページも愛と安らぎの光の色で染め上げていく必要があります。
そして光の色で塗り終えた時、
世界の中ではしないことにした自分の選択も、
世界の中で忙しくする選択も、
本質的にはどちらも同じことだったってことに気づくかもしれません。