奇跡のコース

身体の硬直感から入ると、ジャッジの奥にある恐れに気づきやすいかも

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私たちのオンラインのACIM学習会では、今、ジャッジしている自分に気づくこと、特にその奥にある恐れに自覚的になることを課題の一つにしています。

ただ、自分を防衛しようとする身振りの奥にある恐れに気づくのは比較的やりやすいけれど、
自分は正しいと決め込んで、まわりのものをジャッジしている時に
自分の奥にある無力さや恐れを見るのは難しいといわれる方、何人かいらっしゃいました。


だって表面にまず見えるのは、自信たっぷり傲慢に、裁いているわけですものね。
「逆じゃないの?」と感じるのが、まずは、普通かもしれません!


でも、ジャッジしている瞬間の、
あなたの身体が、縮まったり、硬直する感じだったら、感じられますよね。

たとえば、ウクライナ情勢のニュースを聞くたびに、
「プーチンは間違ってる」という思いが湧いたら、まずはその思いにぐっと身を任せて、
その瞬間の心や体の感じを観察してみてください。

胸からお腹にかけて、収縮して、固まった感じありますよね。

ふわっと無限に広がる愛としての私、神の子としての私の方を選んでいないというのは、一目瞭然ですね。

ロシアがウクライナを攻撃するより、
私がプーチンをジャッジメントで攻撃するより前に、
私は神の子として、無限にふわりと広がる私を攻撃して、
こんなふうに、身体の中で、縮こまらせ、硬直させてしまっていたんだってわかります。
コースで「神の子に対する攻撃」と呼ばれているものです。
神の子に対するこの最初の一撃で、私たちは、無限にふわりとひろがる愛であることをやめて、
身体の中に自分を収縮させてしまいます。

もう一度、あなたの身体の
その収縮した感じ、固まった感じにフォーカスしてみましょう。
それにやさしく寄り添いながら、その中に、入り込んでみてください。
そこに、恐れがたっぷりと染み込んでいるのを、感じられませんか?
というより、この収縮そのものが、そもそも恐れからできているのに気づかれるかもしれません。

いったい何に対する恐れなのでしょう?

ふわっと無限に広がる愛としての私、神の子としての私の側から見ると、
この中にふわっと広がって、みんなと溶け合って、心底幸せになることに対する躊躇、抵抗として感じられます。コースの中で、「愛に対する恐れ」、「救われることに対する恐れ」と呼ばれるものです。

ただ、同じものを、収縮して止まない癖、エゴの側から見ると、どうでしょう?
自分を亡きものにしようとしている
自分には理解できない、わけのわからない愛の勢力が

自分に迫ってきている。
それは、自分はそもそも存在してはならない、もみ消されなければならないと言ってるって
感じられます。

「神」について考える時に、「お前は罪多き存在だ、罰されなければならない!」という恐ろしいイメージが浮かぶ人がいますよね。実際、そう言う人が多く、集合意識の中でも優勢だったおかげで、裁きの神におびえる宗教が、世界各地にみられます。

でもそれは、エゴの側から、つまり収縮癖の視点から見られた、
無限に膨張して広がる、愛の姿にすぎません。

でも、膨張しながら無限に広がる愛としての私には、そんな攻撃の意図など、全然ありません。

「そんなに緊張して身体をこわばらせていないで、私に包まれて安らいでください」って、招いてくれているだけです。

この愛の誘いに素直に乗って、愛に包まれ、おそれをゆるめていくのが、コースで言う贖罪であり、赦しのプロセスです。

恐れを深く感じきると、その中に「愛に向かって叫ぶ叫び」が自然に感じられてきますので、
それに身をまかせる・・・って言ってもいいと思います。

だってやっぱり私たち、安心したいんですよね。

というわけで、ジャッジしているなと感じたら、
その時の自分の身体の縮み、こわばりをを確認して、その中にやさしく、入り込んでみてください。

そして、そこにたっぷり恐れが染み込んでいるのを確認しながら、
愛の誘いに身をまかせ
ゆるみ、安らいでいきましょう。

ジャッジするのをやめよう、やめようと自分に言い聞かせながら努力しても、なかなかうまくいきませんが、
こんなふうに、ジャッジする態度の奥にある、恐れをしっかり感じ切るアプローチでいくと、ジャッジすることがだんだん減って、愛ばかりが見えるようになります。

これからガーデニングのシーズンですよね。
土を耕そうとしてると、「これはどうみても石でしょう?」と思うほど硬い土の塊に出会うことあります。

それでも、一旦ちょっとでもそこに亀裂を入れるのに成功すると、あとはなし崩しにほぐれていきます。

ジャッジメントの奥にある恐れを感じるのは、
カチカチの土の塊に、最初の亀裂を入れる作業に似たところがあります。


ところで、身体の収縮を手がかりに、「プーチン」をジャッジする思いの奥にある恐れをたっぷり感じて、愛そのものに明け渡すと、具体的にどんなことが起こるのでしょうか? 
私の体験をシェアすると、ざっと以下のような感じになります。

まず、彼も私も、他の全ての人と同じように全く一つの愛に包まれていることが感じられてくるとともに、

そうした愛の中に浮かぶ小さな島のような、彼の収縮のすさまじさ、そしてその収縮した部分が放つものすごい恐怖も感じられてきました。

「人間ってここまで、皆と一緒に愛の中に溶け込むことに抵抗することが、できるのね!」とびっくりするくらい。

それは、私たち自身の愛に対する抵抗、私たち自身の収縮癖ともつながっていて、それに養われている・・・とも感じられてきました。コースの言葉を使えば、投影ですね。

というわけで、プーチンをおぞましいと思い、自分も収縮するばかりでは、
彼が一身に集めているこの収縮のエネルギーは大きくなるばかり。
つまり恐怖ばかりが見えることになり、
心の平和にも、世界平和にも寄与することができません。

「風の谷のナウシカ」の中で、腐海と、そこに生息する王蟲は、それに敵対する私たちの心で、巨大化していく話が出てきますが、あれと同じです。

もちろん、まずは、「おぞましい」と思ってもいいし、収縮していもいいのですが、
そのたびに、それに光をあてて、愛の広がりにゆだねる・・・
そして、二元性を超えたところから、すべてを眺め直すことができればと思います。

それを地道にやりながら、つくづく感じられてくるのは、あらゆる人の苦しみ、憎しみ、この収縮のエネルギーは、見れば見るほど、私自身の収縮として、感じられること。「ともに癒す」ことしか、道はないんだなってことです。

宮沢賢治が、農民芸術概論で言ったように、

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」ということが肌身で感じられてきます。

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