奇跡のコース

強面の防衛姿勢の奥にある弱さをしっかり感じる!

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隔週でやっているACIM学習会では、毎回、
質問とその答え、シェアさせてください。

■ ご質問 


一つ質問です。
最後に出してくださった宿題についてです。
特に、「がんばり」や「ジャッジ」の裏にある傲慢さや恐れ、弱さを
しっかり感じたうえで
サレンダーというやつです。

先日、セラピーと非二元の関係が話題になっていましたが、
私は、以前心理セラピーを習っていたために
分析癖がついているというか、
心のひだひだを追いかけていく癖がついていて、
分析せずに明け渡せばいいというワークに
心底ほっとしているようなところがあります。

分析には「解明しよう」、「解明せねば」という恐れや焦りが
くっついて来がちだからなんじゃないかと、
自分では「分析」しています(笑)

それで、今回の宿題についてなのですが、
ジャッジの奥にあるものが傲慢さや恐れ、弱さだということは
自分で分析する必要はなくて、
その何かもやもやした不安な感じとかを「丁寧に」感じ取って明け渡せばいい
という感じでしょうか?

明け渡すことに大きな安心や心地よさを感じている私ですが、
すぐ明け渡しすぎて、十分に自分の心のひだひだを十分に感じ取っていなかったかなぁ?
などと思ったりもしています。

なんだか、何が言いたいかわからない質問ですが、
まきこさんから、何かしらアドバイスがありましたらお願いします!

□ 私の返答 

お忙しいところ、丁寧な感想、フィードバックに質問までくださってありがとうございます!

ジャッジの奥にあるものが傲慢さや恐れ、弱さだということは
自分で分析する必要はなくて、
その何かもやもやした不安な感じとかを「丁寧に」感じ取って明け渡せばいい
という感じでしょうか?

と言われた点について、その通りだと思います。

「分析する」というのは、二元性、強いですね。相手を標本に縛り付けて、詳しく調べるみたいな感じがします。

これに対して、「丁寧に感じ取る」というのは、むしろ、人間関係を誠意あるものへと整えるようなイメージです。

1、自分の苦しみと、2、苦しみを明け渡す、すでに安らいでる存在、
その両方に対して、誠実な、いい関係を持つ・・・そんなイメージで、私はいつもやってます。

1の苦しみに対する「いい関係」といえば、
ルパートさんは、Be royal to truth 「苦しみに対して、誠実、忠実であれ」と言ったりします。
奥まで感じ尽くさずに、表面的なところをさらって、機械的に反応したり、ジャッジして、抵抗したりせずに、
そのありのままを感じ尽くす感じですね。

今回のおすすめワーク、防衛的に誰かに言い返したくなったり、言い訳したくなったり、自分を正当化したくなったときに、
そうする前に、心をみつめましょう・・なんて言うわけですから、ともすると、
相手に対して、「屈従的になる」練習だって誤解される可能性もあるかもしれません。

でも実は、そこで反射的に言い返したり、言い訳したり、自己正当化することって、
実は、奥にある恐れ(無力さ、自信のなさ、自分はダメだと言う感じとして感じられるかもしれません)をごまかして、
「臭いものに蓋!」をし続ける行為だったんですよ。
つまり誠実なおつきあいの正反対です。

今度こそ、これまでそうやって、ぴしゃっと蓋をしてきたものを、じっくり見つめましょうってことです。

実際、「自分が正しい」って躍起になって証明しようとしたり、完璧主義に走ったりと、
一見強面の表情の裏に隠れた弱さに対して意識的になるって、とても大切な気がします。

私、大学教員をしていたときに、結構手強い聴衆の前で研究発表したり、講義したりするたびに、
自分が間違うことを恐れて、際限なく、完璧に準備しようとしてました。
でもそれをやればやるほど、ますます怖さが増して、聴衆全体が、怖い批判者に見えてきたりしたものです(笑)。

今、後悔しているのは、そうやって完璧主義に走って防衛する代わりに、
完璧主義に走らずにはいられないように動機付けてきた、そこにある深いおそれの方を直接見つめて、癒してればよかったってことです!

そうすれば、もっとなごやかに、楽しくお話しできたのに!って思うこと、ありますね!

実際、どんなに完璧に正しく振る舞ったり、どんな批判も跳ね除け、自分が正しいって証明できるほど論争が巧みであるよりも、
そんな態度をついついとってしまう自分の「おそれ」を真っ向から見据えることができることの方が、ずっと勇気がいることだって思います!

屈従的に見えるかもしれないのは、本当に、見かけだけです、

自発的に苦しんだときに広がるスペース

私自身、そうだったのですが、この手の恐れを見つめるのって、結構、きついです!
パンドラの箱を開けたように、いろんな悪感情が出てくるかもしれません。

きついなと思ったときに、まず思い出してほしいのは、きつがる自分を責めないことです。
聖霊に対して、助け手に対してサレンダーするのはもちろんですが、その前に、苦しみに対してサレンダーしてあげてください。

エックハルト・トールさんは、「自発的に苦しむ」という方法も提唱されてます(「世界で一番古くて大切なスピリチュアルな教え」218ページ〜)

つまり、苦しみに対して抵抗するのをやめて、「それ、私、自発的に引き受けます!」って、

受動的反応的な姿勢→積極的な姿勢

に切り替えるんですね。

すると、苦しみと私たちの間に距離感、エックハルトさんの言葉を借りると「スペース」ができて、そのスペースの中に、なんとも言えない甘美な癒しの力が感じられてきます。
コースで「聖霊」と呼ばれているものも、純粋な気づきも、
私たちの体験のありのままを、ありのままに、受け止めていますよね。
そのモノマネをしているうちに、いつのまにか合流しちゃうって言ってもいいかもしれません。

心の助け手とのおつきあい術

2の「苦しみを明け渡す、すでに安らいでいる存在」との「いい関係」といえば、
やっぱり、一切隠し事をしないオープンさ。
正直さ・・・
その前で空っぽになる覚悟・・・

その背景には深い信頼関係がある感じです。

というわけで、まとめると、

標本を切り刻むように分析的にならない、
誠実ないいおつきあいをする感覚で、深く感じていく・・・というのがいい気がしてます。

セルフ・ジャッジメントとのおつきあい術

この機会をかりて、ついでに、セルフ・ジャッジメントについて、一言、付け加えさせてください。
セルフ・ジャッジメントが、「自己卑下、謙遜に見えて実は傲慢。なんの権利があって、自分では理解することができないほど、価値のあるものを、そんなに貶めるのか」といった言葉は、ちょっと言葉としてきつかったかもしれませんが、
セルフ・ジャッジメントって、収縮したエゴとしての私でい続けるために、
ふわっと無限に広がった、愛と安らぎに溢れた私を攻撃し続けるための口実として使われていること、あります。
「私はダメだ」と言うたびに、せっかくふわっと膨張してきた私も、縮こまったちっぽけな住処(ボディマインド)へと戻されるんですね。

その手の癖があるなと感じたら、こんなふうにイメージするといいかもしれません。
私は、とても高貴な子をあずかって、育てている。その子がどれほど高貴であるか、私にはとても理解できないので、その価値を判定する能力もない。私の役目はこの高貴な子を守り、育てることだ。

この「高貴な子」というのは、もちろん、本当のあなたです!

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