奇跡のコース

「聖霊におまかせ」は「臭いものに蓋」とは違うこと

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体験的ACIMの第1回で、心の動揺を感じたら、即時、本当の私の記憶の担い手である聖霊に明け渡し、おまかせすることをおすすめしました。

それをかなり強調したせいか、「おまかせ」を、好ましくない体験を厄介払いするため、一種の抵抗の手段として使ってしまうケースもあるということに、フォローアップしているうちに、気づかされました。

というわけで、この場を借りてもうちょっと補足させてください。

この学習会に関係されていない読者の方も、もしかしたら参考になるかもしれません。というのも、「聖霊におまかせ」を、知らず知らずのうちに抵抗の手段として使っているので、先に進めないでいるケース、多い気がしますので。

「聖霊におまかせする」を、この苦痛を何とか除去したい、癒したいという苦痛に対する抵抗のため、その切り札のように使っても、エゴがますます蔓延ると思います。

「苦痛」のように感じられるこの体験そのものは、逆に、どこまでも引き受ける必要があるのですよ。

これを本当に引き受けるために、

これを本当に引き受けることに対して抵抗している部分(嫌だ、除去したい、癒したいという思い。あるいはそもそもこれを「苦痛」という名のついたものとして見てしまうこと。あるいは誰のせい、何のせいだという糾弾だとか、あんなことさえなければ、しなければ、よかったのにという後悔・・・)を、明け渡すんですね。

今、ここで、直接体験されるものだけを残すって言っているのと同じことです!

そうすると、苦痛はむしろ生の身体感覚のようなものととして、100%受容されます。

そのときはじめて、聖霊、本当の私の記憶と合流する準備が整います。

というのもそれは、どんな体験もありのままに受容する、否定をしらない愛そのものだからです。

この受容がしっかりなされて、抵抗する思いが失せていくと、

苦痛が苦痛のままに、内側からあたたかく感じられてきたりするのに気づかれるかもしれません。

明け渡しのプロセス、サレンダーがはじまった兆候です。

「明け渡す」の代わりに、「包み込む」と言っていることも、私、多いですが、同じことを別の視点から言っているだけです。

すでに聖霊視点になっているときは、「包み込む側」に、私たちはいますから。はじめは「明け渡す」わけですが、気づいていると「包み込んでる」、あるいはこの二つのことが全く同じように感じられるなら、うまくいってるしるしです!

苦しみがどこまでも、ありのままであるのをゆるすことで、逆にそこから自由になる。このプロセスは本当に精妙で、不思議です。

ただ、ここで「自由になる」というのは、苦しみが除去されるという意味ではありません。そうなるときもあれば、ならないときもありますが・・・そもそも、これは、この苦痛がこれからどうなるか、そういった未来についての計算、思惑も全く忘れて、ただただ、今、ここで感じられるものを、ありのままに受容する境地なのですよ。そうしないと、この自由には触れられません。

未来、これがどうなるかどうかも忘れるという意味で、「一期一会のおもてなしをする」と、私、言ったりしてます。

でも、苦しみそのものを受容しつくすというところに焦点を当てれば、「一期一会」とは矛盾しますが、「何千年も何万年も、一緒にいて、好きなだけここにいていいよ」と、苦しみに言ってあげれるってことでもあるんですね。

これも学習会の方に教えてもらったのですが、エックハルト・トールさんは、身体的苦痛について次のように語ってます。

苦痛なんてまっぴらだと感じるのは、正常な精神の持ち主であることの証です。けれども、その嫌がる気持ちを手放し、痛みをただありのままに放っておくなら、自分の内面で痛みが自分から分離し、痛みと自分の間に、まるでスペースができるような微妙な感覚に気づくでしょう。これは自発的に苦しむことを意味します。自分の意志で意識的に苦しむ時、身体的苦痛は、わたしたちの中のエゴを迅速に燃やし尽くします。エゴは大半が「抵抗」でつくられているからです。これは著しい身体的障害にも当てはまります。

『世界で一番古くて大切なスピリチュアルな教え』

ここでは身体的苦痛について話されているわけですが、心の痛みも同じですね。心の痛みも、そこから抵抗する思考を外していくと、生の身体的苦痛が残りますから。

というわけで、どんなものであれ、苦しみを感じるたびに私がやっているのは、

これにまだまだ抵抗している心の部分を燃やし、浄化していく、いいチャンスが来たぞ!とまずは感謝することです。

そしてただただ、体験がありのままであることを受け入れ、

浄化の火がこの苦痛に対して抵抗する私の思い(=エゴ)を燃やし尽くし軽くしていく喜びに身をゆだねるというわけです。

痛みであれなんであれ、与えられた体験に対して、抵抗をゼロにして、ありのままであるのをゆるしきって、「そのままで、自由にしててちょうだい」とおもてなしをすることができると、

意外なことに、逆に体験から自由になれるんですね。それはこの「スペース」というか、隙間が、体験と私たちの間に開くからなんですね。

この隙間、「スペース」から、やさしさが湧いてきます。そのやさしさで、「自発的に」体験を引き受ける気にもなってきます。

「苦痛」とまでいかなくても、抵抗したくなるような体験全般に、これを当てはめること、できると思います。

嫌な仕事も、あえて、なおざりにせず、ふっと深呼吸してから、丁寧に、マインドフルにやろうとするとすれば、

しばらくすると、楽しくなってきて、自発的になったり、いろいろ工夫してみたくなったりする瞬間ってありますものね。それはこのスペースが開いたからです。

そこに、聖霊がいるからです。

どうしても抵抗するのがやめられないときもあるかもしれません。全く大丈夫です。抵抗するのをやめられないその思いの奥には、また苦痛があるのを認めて、その苦痛がありのままであることをゆるし、それを感じ切ることができれば、

それも、あなたの今ここに対するサレンダーになるからです。

怒ったり、誰かや何かを非難したり、どうすればいいか、自分は何が正しいか、どうすればいいか、ちゃんと知っていると、助けを拒んだりする「抵抗」的な態度は、すべてもとをただせば、奥にあるこの感情を感じることに対する拒絶、抵抗があるのに気づかれる、かもしれません。

はじめはとてもキツく感じられるかもしれませんが、少しずつでも、この感情に直に触れて感てみてください。そうやって内側にあるものへの抵抗を解除すると、外のものに向かって抵抗する癖もやわらいでくるはずです。

「体験的ACIM」学習会 リアルタイムオンラインの会は、今のところ満席ですが、ビデオ視聴参加すること、できます。参加興味のある方は私まで(makikohorita*gmail.com *に@を入れる)メールください。

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