非二元のエッセンス

ヴェーダンダ的瞑想とタントラ的瞑想の違い 1月16日の瞑想会の補足

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1月16日にオンラインでさせていただいた、ルパートさんのビデオ、「あなたの本性はすべての体験に先立つ」をめぐる瞑想会で、ヴェーダンダ的、タントラ的瞑想の違い、ビデオの説明がわかりにくいという声があったので、改めて説明させてください。

ヴェーダンダ的な瞑想法として、普段、何か特定のものや体験に向かっている、矢印のついた気づきの方向を逆流させて、気づきがそこから出てきた源泉へ向かう方法、紹介させていただきましたが、他にもいろんな形で、同じところにすとんと落ち込めると思います。

夢のない深い眠りの熟睡状態で行くところと同じなので(自覚があるところだけ違う)眠りに落ちる前や、起きたばかりの時など、自然に入っていけるかもしれません!

感情の嵐が荒れ狂う最中でも、疲れてしまったり、他の様々な理由で一時的に雲間にストンと入れたら、

つまり、脱力して、特に思考がストップして、何もかもうっちゃっていられて、その忘却の底から安らぎや静けさを感じられたら、

そしてそこで、どこにも向かわない、自分自身の中に安らいでいる気づきの中で、安らぎや静けさを感じることができたら、

それは立派なヴェーダンダ的な瞑想だと思います。

別の瞑想会でご紹介した「身体に棲みつく」ことなど、他にもいろんなやり方があると思います。自分の一番やりやすい方法で、状況がゆるすとき、うまく入り込めそうだって思ったときは、チャンスを捉えて、ぜひぜひ、その中で休んでください!

この状態が「退屈に感じられる」というのも、よく聞くコメントです。私も、最初は、あまりに自然で、あまりに普通なんで拍子抜けしたって思ってました(笑)。

私たち、「究極のリアリティ」とか「悟り」などなどについて、いろんなイメージあらかじめ抱いていますよね。ドラマチックとまでいわないまでも、何かとても素晴らしい、幸福な体験に違いないとか・・・そうした期待が、微妙なブロックになって、そこに本当にあるものを、深く味わうことができなくなっているんですよ。

そういう時には、まず、力入っていないか、チェックしてください。瞑想はあなたで「ある」こと、「する」ことではない。そのお話はしましたが、その「する」構えになっていないか、ですね!

それに気づいたら、力を抜いて、力が抜ける方向、安らぎのありかの方に、すべてをゆだねてください。

「する」要素って、瞑想中は、なかなか抜けづらく、瞑想に伴う安らぎや、静けさは、はじめは、瞑想が終わって普通に生活している最中、予期しない時に、突然感じられたりするかもしれません。


ヴェーダンダ的な瞑想に慣れていくと、いつでも、どこでも、一瞬で純粋な気づきの中に沈み込めるようになります。そうすると、その状態と普段の生活の間を行き来しながら、生活全体を少しずつ、純粋な気づきの安らぎに浸していくこと、できるようになるかもしれません。

タントラ的な瞑想は最初から、両者をオーバーラップさせる方法です。ヴェーダンダ的な瞑想のように、気づきを、その源泉で休ませるというより、活動中の気づきに、純粋な気づきを寄り添わせていく感じです。
たとえば、感情がどんどん沸いてきているときは、タントラ的瞑想が良いと思います。

タントラ的瞑想は、気づきが何か特定の体験(たとえば怒りなど)に向かっていても、その気づき(気づき1)に気づいている(気づき2)もある! というところから出発します。

気づき1は、矢印のように特定のものに向かう方向性を持ちますが、気づき2は、ジャッジメントを知らない、やさしい気づき、そこにあるののが、そのままであることをゆるす気づき、空間的な質を保つ気づきです。この気づき2にフォーカスすると、自然に、それがやさしく体験を包み込み、強烈さを和らげたり、美しさや静けさや愛が、内側から感じられるのに気づかれるかもしれません。

これが基本ですが、他にも、いくつかポイントをあげると、まず1つ目は、今、この瞬間に、直接感じられるものだけにフォーカスすることです。「どうしてこうなったか」(過去)、「これからどうなるか」(未来)の思考はとにかくそこに置いておいて、今、ここで直接感じられることだけにフォーカスするんですね。そうして、身体的な感覚、センセーションだけ残す。すると、気づきで包みやすくなります。

二つ目のポイントは、これは特に、怒りなど強烈な感情が湧いてきている時に覚えていらっしゃるといいかもしれませんが、自分は、感じられるこの感覚にではなくて、感じている気づきなんだって、そっちに自分を置いて、ぶれないことです。

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