ゆたかさからはじまる仕事

うまくいかないと思うとき、問いなおすといいこと 獲得モードになっていないかな? 

  • LINEで送る

やってることが停滞してしまい、進もうとすればするほど、深く沼にはまるような感じがすることがある。努力してるのに報われない。投資がもどってこない。時間やお金をかけてわざわざ遠くまで出かけたのに、くたびれただけ、役にも立たなかった・・・などなど。

そんなときは、今は攻める時期ではないと思って、じっとしていた方がいいって言う人もいる。それもいいけれど、私はただ、「獲得モードになってないだろうか?」と自問自答することにしてる。獲得モードというのは、「こうすることで、何が得られるだろうか?」というモード。何かいいことあるかな? 役にたつかな? 苦労したかいあったかな? 来てよかったかな?・・・などなどいろんなバリエーションがあるけれど、すべて、「人生は取引だ」というのを前提としてる態度だって言える。

それもいいけれど、そうした幻滅を知らない、もっとしあわせな態度に切り替えることもできる。いくらがっしり「獲得」できても、結局のところ、しあわせに生きれかければ、何のための人生だろう?って思うものね。

それは、「ギブギブ・参加モード」とでも言うべきもの。誰と会っても、どこに行っても、自分がそこにいることで、何をどれだけ与えられるか、そこにだけ集中しているモード。そうすると、幻滅するってことがほとんどなくなる。どんなときも、何があっても、しあわせ、感謝しながら働き続けることができる。

もちろん、無理しちゃいけない。楽しくできる範囲を超えない、つまり、与えることが受け取ることと一致するところで与え続ける必要がある。

そんなふうに言われると、お気楽に聞こえる。けれど、本当に楽しく与えれるためには、先に述べたように、スピリットとだけ取引する間口をオープンにしておく必要がある。そのためには、エゴを脇におかなきゃいけない。プライドは捨てる、何も個人的なこととして受け取らない、期待も幻滅もせず、自分の役目を淡々と果たす・・・など、僧院にいるような、ストイックな集中のなせるわざ。でもその結果生まれるのは、晴れやかで、軽やかな状態。

この状態にいつもいると、どう見ても停滞してる、いや逆境にあるって思える時も、どこか能天気に、信頼していられる。ギブギブ参加モードで、スピリットの中にいるとは、人生からちょっと引いて、その全体像を見るときに似てる。たとえば、とても暗い部分があって、そこだけ見ると真っ暗だけど、ちょっと引いて、その絵画全体を目にすると、その暗い部分があるからこそ、その絵画が素晴らしく美しくまとまってる。そう言う意味で「引いて見る」のを助けてくれるんだ。と入っても、はっきり見えるとは限らない。ほんの少し予感できるだけかもしれない。それでも、平静に、しあわせに生きていくのには、十分だ。

もちろん、受け取るべき位置にあるときに、無理して与える必要もない。たとえば飲食店に行って、注文したかと思うと、突然厨房に入って皿洗いの手伝いを始めたらみんなびっくりするだろう。どんなときも、障害を乗り切っても、与えるぞ!と頑固に息巻くのは、エゴだものね。

それに、しっかり、楽しみながら、そして感謝しながら、相手のサービスを受け取ること自体も、与えることだっていえる。スピリットとして、与える存在としてのあなたを受け入れることだから。そうすることで相手も自分のスピリットとつながり、うれしくなることは請け合い。Thank you と言われて、My pleasure.って言い返す時のように。でもそれは、「期待」したものを、「当然でしょ」、と「獲得」する取引モード下での受け取りとは全然、質を異にするものだ。

ただ、レストランでいきなり厨房で皿洗いをはじめるような突飛なことでも、ときに、それがエゴの頑固さからではなく、スピリットのインスピレーションからきてるって思える時がある。そんなときは、やっていいって思う。

結局、その場その場で何が本当に必要なのか、頭で、つまりエゴレベルで考える私たちには予測できないからね。

エゴの頑固さで与えているのか、それともスピリットから自然に与えているのか、その見分け方は、簡単だ。よろこびが残るかどうか。エゴで押し通した後には、後味の悪い罪悪感や後悔が残ることが多い。

「ギブギブ参加モード」で生きるとき、一線を超えて、人とつながり、壁を壊す勇気が求められるのは、確かだ。道を歩いていて、助けが必要に見える見知らぬ人に声をかけるとき、勇気がいるようなもの。首尾よく壁が崩れた後には、とびっきりのよろこびや、人生の器のスケールアップとでもいうべきものが待ってる。

  • LINEで送る