非二元のエッセンス

本当に心身から解き放たれると初心で戻って来れる

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瞑想すると思うと、ちょっと身構える人もいるかもしれない。でも、瞑想って唯一、あなたのまんまであること、何もしないことなんですよ。

Meditation is what you are, not what you do.

瞑想とはあなたであることであり、あなたがすることではない。

でも、普通私であるというとき、たとえば私の場合、堀田真紀子と呼ばれる個人、ボディマインドである。ボディマインドは、「心身」とブログやビデオで訳しているものもありますが、この身体と、それと連動して働く心の働きの総称です。ボディマインドはいろんな性質をしてますよね。

例えば私の場合、女性であるとか、東アジア人であるとか、年齢、50代だとか、近眼だとか、

いろんな役割とか属性をつけることもできますよね。家族の役柄とか、社会的職業的な役柄とか。たとえば父である母である。教師であるとか、医者であるとか・・・

私たちはそんなボディマインドであって、このボディマインドが、心や身体の健康のためにすることの一つに瞑想もある。瞑想の方が「する」ことですね。

ルパートさんの言葉は、これを逆転させて、

ボディマインドの方が、私たちがすることなんだ。って見えてくる境地にいましょうって、言ってるんです。

彼にとって、瞑想というのは、私たちがボディマインドである以前の、元の状態、純粋な気づきであることに戻ることだからです。瞑想を重ねると、だんだんこちらが、本当に、自分だって思えるようになってきます。そうすると、本当に、瞑想中の私が私であって、他の全てのこと、ボディマインドとしてするすべてのことは、私のすることなんだって思えるようになってきます。

瞑想を重ねるにつれ、純粋な気づきでいることの方が、実際ず~っと楽で、安らぐ、自然なことだって思える時がきます。実際そうなのですけれど、段階がある。このブログでも、ご紹介したことのある、手を長い間握りしめていたせいで、開くのが苦痛になってしまった人の比喩がありますよね。

最初は、指を解くのが痛く感じられる状態がしばらく続くかもしれません。そんな中で、「純粋な気づきとしての、本当の私に戻っていく、瞑想の実践は、意識的に「する」ことになると思います。朝夕時間を決めてやるとか、もっといけば、日中、働いているときも、暇をみつけてやるとか、タイマーを使ってやるとか、

でも、先ほどの手を解き解く人の比喩でいえば、次第に、手を握りしめていないことこそ、自分の自然で楽な状態だってわかりはじめます。すると、すすんで、手をほどきたくなってきますよね。

だんだん、純粋な気づきである気持ちよさ、楽さが、わかってきて、もっともっとやりたい、これが私の一番やりたいことって思える時がきます。と同時に、これが本当の私、自然な状態の私だってこともわかってきます。

みなさん今、どの段階にいらっしゃいますか? 実際は握りしめた手を解くよりも、ずっと複雑で、瞑想中は純粋な気づきでいることがどんなに安らかで、自然なことかわかるのだけど、生活の場に出ていくと、すぐにそれを忘れてしまう・・・ってのもありますよね。それはそれで、最初は構わないと思います。ただ、気づいた時点で戻りたいと思うか。戻れる実践をするかの勝負なんですね。

ここまで話を聞くと、逆の心配をする人もいるかもしれませんよね。純粋な気づきでいるのが、あまりにも楽なので、戻りたくなくなったらどうしよう! 私には責任のある仕事があるし、家に戻れば、食べさせなければいけない子供がいる! 瞑想ってそう言った全てから逃避することなのですか? 子供の無責任さに退行するすることなのですか? って言われそうですね。

これについては、私自身、最近、体験から、かなりクリアに、わかってきたので、自信を持っていえますが、

瞑想中、本当にボディマインドを脱ぎ捨てて、純粋な気づきに骨の髄まで?浸ることができたら、ボディマインドに戻るのも、大喜びになるんです。

その瞬間、世界は、生まれて初めてみるもののように、全て真新しく、新鮮に見えます。しかも、それまで重荷だと感じられた責任なども含め、純粋な気づきでできていることが見えてきて、愛や感謝の対象に見えてくるからです。

サンフランシスコ禅センターの創設者、鈴木俊隆老子は、これをBeginner’s mind 初心と呼んでます。初心を忘れるなとかよく言いますよね。初心って何か始めたばかりの人のことだと思われてますが、実は、私たちが純粋な気づきに触れて、心が新たになる一瞬ごとに、体験されるものです。

ルパートさんによると、純粋な気づきへの出入り口として、思考を経由すると真理や真理への探究心が溢れるし、感情を出入り口にすると愛が溢れ、身体感覚を出入り口にすると生命感、よろこびがあふれ、知覚を出入り口にすると、美しさに心を打たれます。実際には、このすべてが、いろんな割合で混じり合ってるわけですが。

みなさんの、純粋な気づきへの出入り口は、普通、どんな割合で、真理と愛とよろこびと美が混ざり合ってます? 私は思考のチャンネルは、生まれつきというか、小さい頃からあって、特に形而上学的な話になると、どんなに抽象的な話をされても、何のことをいってるか、すぐにピンとくるところがあったのですが、今は、知覚のチャンネルを鍛えてる最中です。だから、アーティストと一緒に暮らしたりしてるのかもしれません。

思考を純粋な気づきへの出入り口にして、戻ってくると、子供が何にでも好奇心を持つように、一種の冒険として、引き受けたくなります。感情を出入り口にすると、、愛にあふれるので、もっと愛情深く、丁寧に、感謝に満ちて、その役割を演じたくなります。知覚を出入り口にすると、場全体が美しく見えて、その美しさをますます増大させる役割を果たせるのがうれしくてたまらなくなったりします。

純粋な気づきになるために、一時的に役割全てを脱ぐ。すると逆に、役割に対する愛情が沸々とわいてきます。それまでより丁寧に、演じたくなります。戻ってきた時にはもっといいお母さんや先生になってる。

純粋な気づきでいれるようになると、私たちはまずは安らぎ、平安を放射させますが、深く入っていけるようになるにつれ、こうした特性を世界中に振り撒くことになるんですね。

真理とか愛とか喜びとか美しさって、誰でも望むものですよね。だから、瞑想って、社会的な役割とは絶対矛盾しません。

新年明けてすぐ、ルパートさんの英語の方のチャンネルからすぐに流れてきたビデオで、仕事の転職の悩みについて、答えたものがあります。その中で彼が言っているのは、真理と愛と美が増大することをしなさい。ってことです。非二元とか、こういうことに興味がある人って普通世俗的な成功とか、お金を増大させることにはあまり興味ないですよね。世の中は圧倒的にお金を増大させる原理で動いてる。その反動もあって、その正反対の世捨て人的な方向に行きがちになって、今風にいえば引きこもりになったりします。でもよほど恵まれた人でないと、長期的には不可能だというだけでなく、本当にそれで満足できるのかなって思いますよね。

純粋な気づきとしての自分との接触を失わずにいると、その人の周りには、自然に安らぎや、真理、愛や喜び、美しさが溢れてきます。それを、仕事に落とし込んでいくこと、できると思うのですね。そのビデオでルパートさんも言ってますが、それは必ずしも、たとえばスピリチュアルな教師になるとか、ケア関係の仕事や、芸術家になるとか、真理や愛や美の専門家になるとは限らない。たとえばお店で働いていても、ディスプレイやラッピングで美を表現したり、同僚や客との話の中で、真理や愛を表現したりできますよね。

それで、ルパートさん上手だなと思いました。多分彼のリトリートに来ている人、お金の増大に興味がなくても、真理や愛や美の増大には興味ある人多いと思うので。

別の言い方をすれば、あなたの人生のストーリーを映画にたとえると、純粋な気づきであることは、映画のストーリー上には現れないということです。人生のストーリー上で、世捨て人になる、山に籠るといったストーリーが展開されているかもしれない。でもそれは、スクリーンを見ることとは、直接関係しませんよね。映画の中に映画のスクリーンは現れない。逆に、この世で重い役割や責任を引き受けながら、例えば会社の社長とか政治家をしながら、スクリーンから目を離さないひともいるかもしれません。

別の言葉で言えば、スクリーンは、ストーリー上、つまり、直線的な時間、タイムライン上にではなく、瞬間、今ここに現れるってことです。

今、ここで、私たちは、ボディマインドとその性質のすべてを脱ぎ捨てて、十分休んだら、また大喜びで、真新しく、またボディマインドを着ることができます。

ボディマインドを脱いでは純粋な気づきという極上の温泉に浸って、また着てを繰り返すわけですが、その度に、世界に安らぎや真理や愛や美しさの増大に手をかすわけです。

もう一つ付け加えておきたいのは、ボディマインドに戻るというのは、エゴに戻るのとは、違うことです。ボディマインドは私たちが世界と関わるために必要な道具。例えば私は近視がひどいので、メガネなしに世界と関われません。でも、メガネが自分だと思ったことはありません。

でも、たとえば、ボティマインド=本当の私と思い込んで、たとえば、この身体が私でそこに自分がかかってると思うと、外見やプロポーションだとか、そこにいろんな欠陥を抱えていることが苦になってきます。エゴは、ボディマインドと自分を同一視した時に生じる心の活動の総称です。このメガネが自分だと思うのと似たエラーから生じます。

純粋な気づきの方にいることが多くなるにつれ、自然にそちらを本当の私だと思えるようになります。すると、ボディマインドとの同一化がだんだんゆるんできます。これが、アイデンティティのお引越しです。

同一化がゆるんでくるからといって、私たちはボディマインドを等閑にすることはありません。純粋な気づきとの接触から、愛や美や真理や生命感のお土産をたくさん、ボディマインドに持ってくる感じです。これまでよりも、心身を慈しみ、大切に扱うようになるし、美しくするのにも、喜びを感じるはずです。

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