非二元のエッセンス

「悪人正機説」に納得! 原因と結果を混同しない!

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先日、ルパートさんのとあるリトリートの録音を聞いていると、次のような対話がありました。

参加者の一人が、

「身体の調子を整えるのは、私たちの本性を自覚するのに役に立ちますか?」

とたずね、

それに対してルパートさんが、

「別に役に立たないね。健康な時も病気の時も、同じように、私たちの本性は自覚できる。このストーリーだから、スクリーンがよく見えるってことは、ないのと同じように。でも、逆は言える。私たちの本性を自覚すると、その結果、身体の調子は整うことは多い」

と答える。それだけの対話です。でも、本当に典型的な対話ですよね。

自分の本性を自覚して、純粋な気づきとしていることができるようになると、

その結果いろんなことが起こります。

ここで言われているように、体調が整ったり、

やさしく、愛情深くなったり、

ものの見方や考え方がポジティブになったり、

自己肯定感が高まったり・・・

そんな人を目の当たりにすると、

いかにも幸せそうで、心やすらかで、素敵だな、そんなふうになりたいなと思うわけですが、

その時に、とりあえず形として見える「結果」を、「原因」と取り違えて、

体調が整いさえすれば、

やさしく、愛情深くなりさえすれば、

ポジティブにものを見たり考えたりすれば、

自己肯定感を高めさえすれば、

この人みたいになれる!

と努力し始めるというわけです。

でもこのアプローチではうまくいきません。原因と結果を混同しちゃってるからです。

ルパートさんがよく使う、人生を映画に、私たちの本性をスクリーンに喩える比喩を使えば、

映画のストーリーの中に、スクリーンが現れるのを待つ

そんなエラーをおかしているからです。

映画の主人公がどんなに行いを正し、自分磨きをし、望ましいことが起こるよう努力しようと、ストーリー中に、たとえば特別な出来事や、ハッピーエンドのクライマックスとして、そこにスクリーンが現れることはないわけです・・・

というと、絶望的な気もしますが、

反面「映画のどんな瞬間にも、スクリーンはそこにある!失われることはあり得ない!」というのは、すばらしいことですよね。

ただただ、純粋な気づきであること、そして全てと一体であること・・・ただ、それだけが求められていて、私たちにはそれ以外に何もすることはない。

それさえできれば、後のものは、「自ずと」整う・・・何てシンプルなのだろうと、惚れ惚れしてしまいます(コースで「奇跡」と呼ばれているのは、たぶんこの「自ずと」整う感じを指してます)。

それが幸せの本当のありかなのですね。

でも、ほとんどの人は映画のストーリー内に、幸せを求めています。

それで、嫌なことが起こらないよう、好ましいことが起こるように、

映画のストーリーを操作しようとしています。

主人公である私を完璧なものにしようとして、自己鍛錬したり、食べ物に気を使ったり、エネルギーを浄化しようとする人もいます。

でも、本当に、心底幸せを感じた時のことを思い出してみると、

まずは、何かの拍子に、幸せの中に入ってしまって、

この視点から見ると、すべてがバラ色に見える。

嫌なことも、 望みがかなわないままでいることも、失敗してばかりいる不完全な自分自身も含めて、みんなバラ色。それなりに、いい味出してると、大らかに、肯定できる、ゆるせる気分になってる・・・

そういう経路をたどるのではないかしら?

他の記事でもちょっとご紹介しましたが、私には、茶道を熱心にされていたお友達がいます。彼女によると、

「正しいお点前をしよう、間違えないようにしよう」といくら頑張っても、

静かで整った空間は生まれない。

でも、まず、この静けさの中に浸りこむようにすると、

空間全体も、お手前も整う。

のだそうです。同じことを言っていると思いました。

「正しいお点前をしよう」という努力は、映画のストーリーの中でなされる、ストーリーの操作ですよね。ストーリーをコントロールして、望ましい結果がもたらされるように頑張っても、そこにスクリーンは現れません。

でも、まずはこの静けさの中に沈みこんで、スクリーンそのものになったとき、そこから見た全てのものは、整って、お点前も良いものになるわけです。

仏教のシャンバラ伝説もそうですね。山に迷い込んだ狩人が、そこで出会った老人の導きで、岩間の穴をのぞくと、そこに美しい理想郷が見えます。老人に、今だとこの中へ入れると言われるのですが、狩人は尻込みして、それには、準備が必要だ。必要なものを取り、愛する人たちを連れて来るためにまずは家に戻ろうとします。でも、そうやって準備を整え、もう一度同じ場所に来ても、もう岩間の穴は閉じています。狩人は、シャンバラが見えた瞬間に、何もかも捨てて飛び込む必要があったわけです。

わたしたちの本性、純粋な気づきからの便りが少しでも感じられたその瞬間、「映画のストーリー」をコントロールしようといった思惑を全て捨てて、真っ裸で、その中へと飛びこむ思い切りの良さ、覚悟が問われていたわけです!

ではもし、シャンバラ伝説の狩人にそれができていたら、何が起こっていたでししょう? 思考実験のようになりますが、私の考えをシェアさせていただくと、

そこには狩人の家もあり、家族もいる。彼がその日、家を出てきた時と全く同じ状態。いつも変わらぬ彼の日常がそこにある。ただ、今はすべてが美しく、ありがたく、幸福に輝いて見えて、このままで完璧なんだってことが、わかる・・・

というものです。実際、わたしたちの本性の中に身を浸すことができたら、すべてそう見えてくるからです。

そのお茶をやっているお友達と親鸞の悪人正機説についても、話していました。

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」というやつです。つまり、「善人」の方が「悪人」より救われやすいだなんて、昔、学校で習った時は、謎めいた言葉だなと思ったものでした。

でも、その後、大人になって、人生の中で、状況や自分を一生懸命コントロールして、何とか「善人」になろうと頑張っても、幸せになった気がしない・・・というのをさんざん繰り返した今なら、

彼がこれで何のことを言っているか、痛いほどわかります。

「善人」がなぜ救われ難いかというと、映画の主人公を特別善い、完璧な人にすることで、スクリーンに達しようというエラーをおかしているからです。

悪人はこれに対して、絶望して、映画のストーリー中で、自力で自分を何とかしようというと思ってもできない、八方塞がりの状況にあることが多く、ここで自分にできることはもはや何もないと開き直っています。

だから、スクリーンに対してオープンになり、自分を明け渡してしまえる体勢が整っているわけです。

でも、「映画のストーリー」内に救いを探す習慣を一掃するには、

ちょっとした注意がいります。

私はそれを、「時間を輪切りにする技」と呼んでいます(笑 このままだと何のことを指しているか、わかりませんよね。この後のお話、聞いてください🙏)

「このままではダメだ」「何とかしなくては」「自分は不完全だ」などなど、とにかく、スクリーン、純粋な気づきから外れてしまったと思った刹那、

まるでよく切れる日本刀ですとんと切り落とすように、そこのところで、すぱっと時間を輪切りにするのです。

そして、そこにあるものを、「ここに、何があるのかな?」と、

プレパラートにこの断面を乗せて、顕微鏡をのぞく科学者のように中立的な態度で、

ありのままに眺めます。

「こうあるべきだ」と、良し悪しのジャッジメントをストップさせるのがポイントです。

ただ、「こんなものがある」と、ありのままを見て、認めます。

と同時に、全存在で受け入れ、包み込んでください。

どんな思いも、それをジャッジメントせずに、ありのままに気づいていると、

その気づきは、思いを包みこむ空間をなしていきます。

しばらくすると、この気づき空間の中に、思いが溶け込んでいくのに気づくかもしれません。

「こうあるべきではない」といった抵抗、ジャッジメントをゼロにできれば、

自然にすすむプロセスです。

ただ、思いを「包み込もう」とか「溶かさねば」と思うと、うまくいきません。

「癒そう」とか、「ゆるそう」と思ってもうまくいきません。

何らかの効果、結果がもたらされることを期待して、今私がおすすめしていることをやっても、うまくいかないです。

というのも、そのとき、私たちはすでに、線の時間の中、映画のストーリーの中に流れ出てしまうからです!

この間、上田閑照さんという、京都学派の方の禅についての本を読んでいたのですが、

その中に、どんな時も、心が乱れたその刹那、「坐り込め」。坐りこんだからといって、何かがそこで起こるとか、何にも期待せずに、ただ「坐り込め」と言う言葉が出てきました。(『上田閑照集4巻』収録の「日常工夫」という随筆中)

まさにその通り!と思いました。

坐るという、そのこと以外に何もない。そのこと自体が、変容なわけです。

禅がらみで言えば、もう一つ。松山大耕さんという方が、最近はやりのマインドフルネスと、禅との関係を聞かれて、やることそのものは、禅の修行法と全く同じだけれど、たとえば、「癒される」とか、「仕事のパフォーマンスを上げる」といった何らかの成果を「得る」ために、これを実践している人は、禅とは外れたところにいる。というのも、禅は、何かを「得る」ためにやるのではなくて、本当に「今、ここ」にいるために、何もかも手放すためにやるものだからと答えてます。これも、同じことを言ってますね。(『ビジネスZEN入門』)

心を空っぽにして、何も期待せず、さりとて絶望もせず、

輪切りにした時間の断面を、ただ抱えて、それに気づいている。ただ、坐る。

どこまで、シンプルになれるかの勝負なのです。

どんな思いも、ただ、気づきで包んで、溶かすことが、淡々と、シンプルにできるようになるにつれて、何とも言えない憧れ、吸引力のようなものを、溶け切った状態、純粋な気づきに向かって感じるようになってきます。わが家に戻り、くつろぎたいという憧れに似ています。

これもルパートさんのリトリートの中の言葉ですが、彼の姪っ子が、歩き始めたばかりの子供をつれて遊びに来たのだそうです。その子は、とことこと、いろんな場所に向かって歩くのですが、ちょっと歩くたびに、お母さんの方を見て、微笑む。また歩いてはお母さんの方を微笑む。時々思い切って遠くまであるいては、不安そうに、振り返って、お母さんがどこにいるかを確かめる。

純粋な気づきの中に安らうことをはじめたばかりの私たちも、この子供みたいなものです。お母さんの腕に抱かれて安らっては、歩けるようになった足で、時折、ストレスフルな状況の中に出ていくのですが、絶えず、このお母さんの安らぎの中に戻ろうとします。そこから遠くへ歩み出てストレスを感じること自体が、振り返ってお母さんの方を見るきっかけ、吸引力をより強く感じるきっかけに過ぎない。お母さんのもとにいるか、お母さんからの吸引力の下にいる。

そんなふうにして、お母さんの磁場から一歩も出ない、子供の安心感のようなものが、純粋な気づきに対して育ってきたら、もう後戻りできません!

次第に、子供は独り立ちして、彼自身、お母さんのようにふるまうことを学ぶわけですが、それについてはまた機をあらためて。

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