非二元のエッセンス

作業をそのまま瞑想にする!

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小さな私から大きな私へのアイデンティティのお引越しに伴う不安定な状態をどう速やかに切り抜けるか。

一言で言うと、「今、ここ」にいる!ってことに尽きるわけですが、同じことを、いろいろ別の角度から言うことができますね。

たとえば、どんな小さなことも、全身全霊でやること。

ただ、全身全霊っていうと、「頑張る」って連想がつきまといますが、そうするとエゴの努力になってしまいますよね。頑張ると言うより、もっと自然な感じ。ただそこに、自分の全てを傾けるわけですね。そうすれば、過去や未来に心が彷徨う余地がなります。

この間、昔、茶道をかなり熱心にやっていらしていたというお友達と話していると、

お茶の稽古の時に、先生に、物を置く時に、「自分をそこに置くように」置けと習ったって、話してくれました。

「自分をそこに置くように」って、いいですね。力を抜きながらもそこに全てがある感じが出てます! 

本当に「自分をそこに置くように」、物が置けたら、静けさの中にぐっと入って行って、

周りの全てのものの中にも、「自分が置かれてる」ように感じるのだそうです。つながりの感覚が出てくるわけですね。

あるいは、最近、メディテーションの会でシェアさせていただいてる、ジュディスさんの「身体に棲みつく」感じにも似てます。

この身体に棲みつく瞑想では、手足からはじまって、胴体の各パーツ一つ一つの中に、内側から入り込んでいきますよね。自分の全体でそこに入り込んでいく。すると、そこには存在しか感じられなくなって、皮膚で囲まれているはずの身体の輪郭も消えて、継ぎ目なくつながった、充満したあたたかい空間の広がりになっていく感じがします。

それとちょうど同じように、今やってることの中に「棲みついて」しまうわけです!つまり、そこに全存在が入っていくようにする・・・

たとえば、今私はパソコンに向かって文章を書いているのですが、そこに自分の全てを置くようにしてます。

すると、充満した、ぽかぽかした暖かさの中に自分がすっぽり包まれるような感じがして、日向ぼっこをしている時のように、リラックスしてます! この暖かさの中になされるすべてが、幸せな、瞑想的な気分に浸されている感じです。

未来や過去の思考は、特に追い払おうとしなくても、内側から感じられる暖かさ、存在の圧力によって、自然に外へと押し出され、鎮まっていく気がします。

そのあらましについては、最近英語のブログ記事で書いたばかりですが、ここでも、かいつまんで、同じ話をさせてください。

最初にその仕事をめぐるジャッジメントが自然に消えていきます。

たとえば、家事をしているとき、こんな仕事私にふさわしくない。私はもっと重要なことをすべきだとか、何でいつも私ばかりやらされるのだろうとか・・・過去から来る思いですよね。

もっと効率の良いやり方はないかとか、早く片付けたいとか、片付いたあとあれもやらなきゃ、これもやらなきゃといった未来にまつわる思いも消えていきます。

時間の感覚が薄らいで、プロセスに没頭してくるわけですが、それにつれて、いろいろ面白いことが起きます。私の場合、よくあるのは、ものがやたらと美しく見えてくること。見慣れたはずの安物の食器が、しっとりとした光の中で陰影に富んで、まるで名画の中にでもあるように見えてきたり、ガラスのコップに少し水が入って、そこに光が反射している様子がやたらと神々しく見えたり・・・

目的とか用途とかを忘れて、ただただ、今、ここに没頭し始めると、そこにもともとあった無尽蔵の美しさが露わになってくるのですね。

私は知覚的なタイプなので、「美」というかたちでまずくるのですが、人によっては、いろんな洞察が湧いてきたり(「真理」)、やさしさに包まれたり(「愛」)、さまざまな形で「今、ここ」という未知の広大な領域の探索が始まると思います!

もっと、集中度が高まって、やっていることと自分が一つになった時、もう一つ気づかれることがあります。自分が何をしているのか、忘れてしまうことですね。これもとても面白いです。というのも、それをやり続けることは、やめないわけですから。それどころか、普段よりずっと、上手に、効率よくやってるからです。

たとえば、お料理中、食材を混ぜながら、そこにあるのは、食べ物というより、そこからすべてのものが現れる、どんな形もとりえる光り輝く無定形のものに触れているような気がしてきます。それはとても気持ちのいい感覚で、そこから全ての人、すべてのものと、内側からつながれるような、一体感をともなっています。

この感じに入っていくと、たいていの作業が甘やかになってきます。

私のおばあさんは、私が小さい頃、豆の鞘向きのような単純作業をよく私にやらせていたのですが、今思えば、この感じを伝えたかったんだなって思います。作業が単純であればあるほど、こうした無心の境地に入りやすいからです。私の家は、禅宗だったのですが、おばあさんが、一番熱心に寺に出入りしていたせいもあるのかしら?

この感じ、何とも言葉にしにくいので、私が知っている一番美しい、これについて書いている文章を引用させてください。ハーマン・メルヴィルの『白鯨』の後半部の「手絞り」と言う章で、仕留めたマッコウ鯨から油を絞る作業をしている場面です。

「われわれの役割は、その凝結物を手で液体になるまでつぶすことであった。甘美で、すべすべとした仕事。むかしは鯨蝋が化粧料としてもてはやされたのも、あれほど心地よく、透明で、恍惚となるほど柔らかであれば、何も驚くことはない。

ほんの数分間両手を入れていただけで、指が鰻のように柔軟になり、うねうねとし始めたように感じた。(・・・)

私はそこに座った。看板に足を組んで。・・・青く穏やかな空の下、帆をものうげに垂れて船は海上をひっそりとすべっていた。一時間ほど前から凝結していたこの柔らかな塊の中に、私は両手を浸した。それは指の下でつぶれた。その豊穣なものは私の手のなかで、あたかも熟しきった葡萄が果汁をしたたらすようにはじけた。私は鼻を近づけてこの混じりけのない香気を吸った。それは春のすみれの匂いそっくりであった。あえてわたしは保証するが、その瞬間、私は芳香漂う牧場にでも住んでいるかのような気持ちになった(・・・)

私はこのいうにいわれぬ物質に手も心も浸していた。私は古いパラケルスス的迷信を信じてしまいそうになった。それというのも、鯨蝋は激しい怒りを沈静するめずらしい効果をもっているといわれたからであった。私はこの浴槽に浸っている間、あらゆるとげとげしさ、いらだち、邪念から、神わざによるかのようにすっかり解放されているのを感じた。(・・・)

絞る、絞る、絞るのだ・・・朝は鯨蝋を絞りながら過ぎ去った。しまいには自分まで解けていきそうになった。あやしい狂気きがわたしにとり憑いてしまうまで絞った。柔らかな凝結物と取り違えて、仲間の手をそれと知らずに握って驚いたこともあった。この作業は、非常に強い愛情、感動がこみあげるほどに親密で、いとおしい感情をかもし出したので、最後には絶え間なく、彼らの手をとっては握り締め、愛情に満ちた目を見つめながら、私はこう言いたくなった。おお、愛する同胞よ。私たちはなぜいつまでも過酷な社会感情を抱いたり、何かにつけてすぐ不機嫌になったり、嫉みあったりしなければならないのか。さあ、みんな、輪になって手をつなごう。世界中のものが絞り合い、お互いのなかに溶けこもう。鯨蝋になるまで、美しい乳液となるまで」。

これに触れ続ける限り、そこでなされることは、文字通り、すべて流れるように、なめらかになされていきます。作業全体に甘く、やさしい香気が漂う感じです。

そうやってうっとりと作業しているときは、プロセス志向の極地という感じで、本当に、結果が気になりません。
そんな時って、いい仕事をしている時が多いのですが、その結果誉められようと、やりすぎて逆に困ったことになったり、誰にも理解されず、誉めてくれる人も現れず、ただただ、けなされることになろうと、同じように、淡々としてます。

というのも、結果が気になり始めたり、できた形にこだわり始めた瞬間、存在の「乳液」の手触りが感じられなくなることが、だんだん、経験でわかってくるからです。

この甘やかな幸せの方が、ず〜っとず〜っと気持ちいいので、「やっぱりこっちにいたいわ〜」って、形にたいする適度な無関心を貫くというわけです。

1月に、またメディテーションの会をやります。札幌でのリアルの会は9日。オンラインの会はその次の週末の15日か16日になると思います。

ルパートさんの「私たちの本性は体験に先立つ」という邦訳未公開のヨガメディテーションビデオの後半部を使う予定ですが、

一言で言えば、何をしながらも、このなめらかな「乳液」に触れることがテーマです!

ルパートさんの言葉で言えば、これは「知ること」knowing です。

参加ご興味のある方、日程などについてご都合、ご要望などあれば、メッセンジャーか、下のメルアドまで、連絡ください。

(私の記事が気に入って、私の活動を、サポートしたくなった方は、こちらから、メルアドmakikohorita*gmail.com *に@マークを入れてください)でお願いします!)

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