非二元のエッセンス

「今、ここ」という広大な未知の領域を探索する! アイデンティティのお引っ越しを速やかにすませるために

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一昨日、インターナショナルなオンラインのイベントで、「生きがい」についてレクチャーすることになり、
英語のスピーチ、久しぶりでちょっと気が張っていたのですが、無事終わりました。

それ自体は小さなイベントだったのですが、
この仕事を引き受けさせてもらったおかげで、
この機に、英語でもどんどん発信したい気分になり、今、ウェブサイトなど整えてるところです。
でも、気負いはあんまりなくて、冒険のワクワク感や、いたずらっぽい楽しみの方が大きいですね。

それと、やっていて、なんだかとても自然な感じがしていて、今まで人生でやってきたことの積み重ねが全て活かせるし、私の人生のシナリオに、既に書かれていることをなぞってるだけなんだな・・・という直感もあるんですね。
だから、あまり迷いもないし、ものすごい反響や成功を夢みるなどなど、余計なことも考えずに済んで、淡々としてます。

というわけで、少なくとも私の知ってるスピリチュアルな道は、隠者になるのとは全然違って、やりたいことなど、どんどん増えていく感じです。

モチベーションが変わるだけなのだと思います。ルパートさんのよく使う言葉で言えば、「犠牲にすることがあるとすれば、ノイローゼだけ」。自分のやっていることの成否に、プライドとかメンツとか、自分の価値がかかってるという思いが、抜け落ちてしまうんですね。あるいは、どこか心の奥底で、なんらかの成果・報酬を期待していて、その当てが外れると、がっかりしたりすることがなくなるだけなのですよ。

モチベーションは消えるというより、内発的に、内側から湧いてくるものだけになる感じです。
要するに、外的に、目に見える成果や、反響や、報酬を目指すモチベーションが、消えるだけです。

フォーカスが「今、ここ」に集まって、今ここで感じられるこの素晴らしさを分かち合いたい気持が、仕事の機動力になるんですね。例えば、今、茶道や禅についての勉強をすすめていて、これはすごい、海外の人とも分かち合いたいと思うことがいっぱい出てきていて、わくわくしているところ。これが、今の私のモチベーションの全てです。

過渡期の鬱っぽい状況、私もさんざん経験しましたが、二つのやり方で乗り切った気がします。


1、「今、ここ」にフォーカスする習慣を、あらゆる角度、あらゆる方法でつけていく。

鬱っぽい状況がどこからくるかというと、煎じつめていえば、これまで、「今、ここ」以外の「いつか、どこか」に何らかの望みを託して、頑張ってきた、その望みが、だんだん空っぽに見えてくることですよね。

幻想から抜け出れるようになってきた、それ自体、とてもいい兆候なのですが、

「いつか、どこか」の方ばかり向いてしまうこれまでの身構えの癖が残ったままで、この状態に突入すると、その「空っぽ」さと、しょっちゅう向き合わなければならなくなります。で、「何をやっても無駄、何をやっても虚しい」と思うようになります。

抜け道は、だからシンプルです。

「いつか、どこか」から、「今、ここ」に、心が向かうように習慣づけること。そして、「今、ここ」のゆたかさや美しさを感じる感受性を高めていくことです。こちらの方にこそ、自分が望む全てがあるって、自分に納得させていくことです。

心が「いつか、どこか」に向かってしまったなって、気づくたびに「今、ここ」に向き直る。それを根気強く続けるというのが、基本になりますね。

あとは、今、ここから心がそれないように、何でもいいので手元にあるものに注意を向けるというのもいいです。普通に生活しながら、呼吸が、鼻の中を通り抜けていく身体感覚にフォーカスし続けるとか、シンプルで、何も意味があるとは思えないこと、馬鹿馬鹿しくて見えて、未来に何か効果、成果など、期待しようがないみたいなことほど、良いみたい(笑)。そのことだけのためにやる、自己目的的にやることができますから!

「今、ここ」って、実は、広大な未知の世界です。私たちがこれまで、あらゆる手段で回避してきたところですから!世界中のどんなに魅力的な場所を旅して回るより、自分の「今ここ」を探索するほうが、ずっと、手に汗握る大冒険だって思えてくる時がきます。

その一環として、私がよくやるのは、何でもいいのですが、今、自分がやっていることに、自分が何をやっているかを忘れてしまうまで没頭してしまうという、ワークですね。

やっていることと、完全に一体化すると、まずは、それに対するジャッジメントが抜け落ちて(嫌な仕事、好きな仕事、やらされている仕事、自分で選んだ仕事・・・といった区別も含め)、
その後、その定義、自分は今、一体何をしているのかということも、抜け落ちます。
そうなると、たいていのことが、楽しくなります(笑)。禅の方法の応用ですが、手軽にいつでもどこでもできて、いいです。単純作業、家事などからはじめると、入って行きやすいと思います。

あとは私のブログのどこかで、紹介していたと思うのですが、
嫌な仕事などを、やっているときに、可能であればタイマーも使って、一瞬瞑想する時間を、挟んでいく方法も、状況によっては効くかもしれません。

「今、ここ」にいる方法は無数にあるので、どうぞ、ピンとくるものから実践してください。

悪感情にさいなまれたり、頭の中でぐるぐる回る、しつこい思いに悩まされたりした時、
それに対して、ジャッジしたり抵抗したりする心の動きを封じながら、これを「今、ここ」に深くダイビングするチャンスに切り替える、とっておきのやり方、もう一つあります。

「それが何か?」つまり、whatではなく、how、「どんなか?」と、その様子、様態を観察することです。

たとえば、「怒りを感じてる!」というのは、what ですが、それはどんな感じ? 色合い、光沢、質感は? 身体のどこに、どんな不快感を感じるかな? 
雲をつかむように曖昧でも構わないので、額縁に入った絵を眺めるような感じで、丁寧に味わってみるんですね。
そうすると、深く「今、ここ」に入っていけます。気持ちも和らいでいきます。

2、身体に染み込んだ、「今、ここ」に抵抗する癖を、癒していく。

「今、ここ」に対する抵抗は、先のことが心配だとか、どこか別のところに行ってみたいとか、いろんな形で現れますが、その奥には共通のソワソワするような感触、ありますね。例の「ヒキガエル」、欠如感ですよね。
この手の思いが去来するたびに、この思いの奥にある、この感触を一つ一つ丁寧に感じて、宥めていくようにすると、そういういろんな形であらわれる症状を、根本治癒することにつながると思います。

ただこれは荒業的なところもあるし、無理をしないで、どうぞ自分のペースで、いたわりながらやってください。
今年の春にやった、瞑想会が、このテーマでした。ご興味ある方、この記事下のメルアドまで、ご一報ください。今でもまだ、事後ビデオ視聴参加できます。

3、私は気づいているか? と自問自答してみる
1、2は準備運動みたいなもので、純粋な気づきに入りやすい状態をつくるためのものですが、この3は、本題で、純粋な気づきに飛び込むためのものです。

「私は気づいているか?」と問うて、
答えがイエスだったら、イエスだと言えるその感じ、自分自身に気づいているその感触の中に入って、静かに、味わってみてください。
どんなふうに感じられますか?

普通私たちは、「嬉しいこと」に気づいている
「悲しいこと」に気づいているというふうに、何か特定の体験内容に気づいています。
でも、どんなときも、

気づいていることに気づいているだろうか?

と問うと、体験内容は放っておいて、気づきそのものに焦点を当てざるを得なくなりますね。
その単純な原理を利用した方法です。

仕事の合間など、いつでもできるとき、思い出したときに、「私は気づいているか?」と問うて、その感じに沈み込んでみてください。そこにあるのが純粋な気づきです。

まず気づかれるのは、大喜びの時も、とても苦しんでいる時も、「気づきに気づく」感じは、いつも同じだってことです。
あまりに普通で、静かで、拍子抜けするかもしれません。でも実はそこに、すべてがあります。だんだんその全てが感じられるようになるはずです。
純粋な気づきは、スピリチュアルな状態は、こんなものだ・・・という先入観や期待が薄れて、抵抗がなくなるにつれて、まずは安らぎ、その後、愛や美が感じられてきます。

体験内容にかかわらず、いつも同じの、「気づきに気づく」力を強めていけると、
有事の時に、自己防衛のために役に立つ筋トレを普段からするような効き目を発して、
動揺する感情に流されなくなるかもしれません。

ご参考になれば幸いです!

(私の記事が気に入って、私の活動を、サポートしたくなった方は、こちらから、メルアドmakikohorita*gmail.com *に@マークを入れてください)でお願いします!)

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