奇跡のコース

スピリットが活躍できる空間をひらく ホ・オポノポノと奇跡のコースの接点

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私たちは周りの人を、自分の心に過去からくるあらゆる記憶、連想の雲を投影しながらこの雲に頭からつま先まですっぽり覆われたかたちで、眺めてるって話した。喩えて言えば、自分の心の中にあるストーリーからなる映画フィルムを、周りの人たちに投影して、その中の人物の一人に仕立て上げて見てる。つまり私たちがものを見る見方のほとんどは自作自演。にもかかわらず、私たちはほとんどの場合、それに気づかず、「どう考えても、この人は間違ってる」「この人は、病気だ」と、すべて相手の問題だってみなしてしまう。「相手の方がおかしい」この責任転嫁を強化するのが、集合的な投影だ。「みんなそう言ってる!」「みんなそうしてるもの」というのは、エゴが自分が正しいことを証明するときの常套手段。投影の数で勝負しようとするんだ。そんな具合に、特定の民族やグループについて、ステレオタイプのイメージがつくられ、偏見、差別、排除の対象にされたり、対立、紛争の火種もまかれたりする。

結局のところ、誰が悪いか、誰が正しいか、一人一人の限られた視野から裁くのは、とても難しい。そんなことにわずらうより、もっと大事なことがあるでしょ、というのがナウトピアの立場だ。過去は過去のこと、もう過ぎ去ってる。それと決別して、投影がすべて消えていく「今」という、まっさらな領域に身を置いた方が、ずっと気持ちいいし、しあわせ。癒しの力もたっぷり。というのも、エゴが去ったそこには、スピリットの一体感が流れこんでくる。この喜びと、関係者全体にいきわたる癒しの力の前では、誰が正しいかはっきりさせる意地の張り合いなんて、まったく、どうでもいいって思えてくる。

でも、エゴの雲はとてもしつこくて、知覚されたあらゆるものにつきまとう。直接会わなくても、姿を見たり、声を聞いたり、名前を聞いただけで、この雲はすでにむくむく湧いてくる。なんとなく、「この人は嫌いだ」と思ったり、「気持ちのいい人だわ」と、無意識のうちにこの雲に影響されて、人を避けるべきか、付き合うかの基準にしたりする。俗にいう直感の鋭い人のほとんどは、この口。自分の側から放射された投影に反応しているだけというのも多い。つまり、それは、スピリチュアルな態度とはいえないと思うんだ。もし本当にスピリチュアルな人なら、自分がその人に重ね見ている投影の方を、問題視するだろう。自分の中のどんな記憶、トラウマ、罪悪感が投影されてるせいで、そんなふうにその人が見えるか、そちらの方を気にするだろう。それはその人と、投影を払いながら、ただ、「今」しかないナウトピアの中で出会うこと。それによってその人と自分を同時に癒す決断をするってことでもある。

ゴールをはっきりさせるためにちょっと極端な話をしよう。ホ・オポノポノの創始者でもあるヒューレン博士にまつわる有名なエピソードから。精神病院で、患者に直接治療することは一切やらず、ただそのカルテを眺めながら、「自分のどこが悪くて、この人は病気でいるんだろう」と問いただし、患者についての自分の態度のみをひたすら癒そうとしただけで、患者の方も癒されてしまい、4年後には全員退院してしまったという。

精神病ときいたら、それこそ、その人の問題、自分とは関係ないって考える。

でも、どんなに雲が分厚く重なり「これこそ現実」に見えても、それを眺めてる当人、私の方で、すべて払いのけることができる。素晴らしいのは、私の方でそれができると、その人の側からもくもくと投影されている雲も一緒に晴れていくんだ。これこそ、ヒーリングが成り立つ理由なんだけど。

視界を妨げる一切の雲が払われると、そこにはその人の本当の姿、スピリットが雲間から光が射すように、現れる。もちろんそれはそこにいつもあるのだけど、私の方で自分の記憶と連想、偏見をそこに分厚く投影してたせいで、見えなくなってただけなんだ。

スピリットの光を見続けていられるように、エゴの雲を払いのけ続けることを、エンゲルハルト夫妻は「空間を開いたままにすること」holding a spaceと呼んでいた。対人関係のまさにピンチの状態におちいったとき、たとえば、目の前の人が怒り狂ってたり、自分を喧嘩に巻きこもうと挑発や攻撃をしかけてきたとき、そんなときこそ「空間を開いたままにして」って言ってた。当時はなんのことを言っているのか、なんのための空間を開くのか、よくわからなかったけど、今ならわかる。そこに鬱蒼とたちこめるエゴの雲を払いのけ続けながら、雲の間に開いた裂け目を保ち続けるってことなんだ。そしてそこから射す光を見続け、この光こそが本当の現実だって思いながら、荒れ狂う嵐をやさしく見過ごすことなんだ。これこそが愛。相手のために尽くし、喜ばせたりするるよりもずっと深いところにある愛だっていえる。

あらゆるギフトの中で最高のギフトは、雲を払ったまっさらな空間をひらいて、スピリットの姿で現れるあなたをまるごと受け入れること。それはあなたに対する最高のギフトでもあるし、私自身への最高のギフトでもある。

雲に覆われ圧迫され、締め付けられない、このスペースがあるからこそ、その人のスピリットはそこでほっと一息ついて、のびのび活躍できるようになり、その人を癒し、養い、育てていける。癒すのはあくまでスピリット。私はただ、エゴの雲を払い続けることで、そのための「空間を開いたままにする」だけ。

外から見ると、ただ、どんな目にあっても、何にいあわせても落ち着いてる人がそこにいて、その人から、しずけさが広がって、そこにいる人達の気持ちも落ち着かせ、安らかにしていくようにみえるだろう。

なんだか超人技のように見える。いくつか、コツはありそうだ。まずしあわせであること。けれど、自分を癒すプロセスと同時に進んでいくから、やりがいは十分にあるよ。エゴの雲だけでなく、スピリットもつながっているから、雲の間から光が見えてくる体験は、そのまま自分のスピリットを見る体験でもある。それに、普段からスピリットとともに生きてると、だんだん簡単にできるようになる。

先ほどのスティーブン・コーヴィーさんの話、息子が問題児だと思っていたことこそが、息子を問題児にしてた。つまり「問題が問題だ」をもじって言えば、ヒューレン博士のケースは、患者が「病気だ」と「思い込んで」いたことこそが、「病気」だったって言えるかも。その「病気」からヒューレンさんが癒され、過去フリークのエゴの色眼鏡の「決めつけ」の圧迫から患者を解放して、スピリットが活躍する「空間を開いたままにした」時、そこには最初から病気なんてなかったってことがあらわになった。と同時に、その見方、その知覚を患者たち当人とシェアできるまで力強い、確固としたものに育て上げた時、生命力が、癒しの力が、患者たち自身の中からも湧いてきて、みんな退院できるようになった。そんな説明ができると思う。

そうやって、エゴの雲間からスピリットの光が差しこむ空間を開いた時にあらわれるのが、ナウトピアだ。このナウトピアがそこにいる関係者全体をすっぽりつつんだと、ナウトピアの仕事がはじまる。

実際、ナウトピアでしばらくくつろいでいると、過去の出来事が残したさまざまな「思い込み」「決めつけ」が、消えていく。ものの見方を狭く、薄暗いところに閉じこめる暗雲が晴れていくかのよう。「明日は明日の風が吹く」let it be ケセラセラの境地。顕著なのは、期待もせず、幻滅もしない。晴れやかな喜び。

投影は、鬱憤があると色濃くなるし、逆に、とっても幸せで、上機嫌なときは、なりをひそめる。多少変な人や無礼な人がいても、期待通りに動かない人がいても、そんなに気にならない。逆にその意外さが面白い、欠点が可愛い、なんて思うことすらある。他者に向かって開かれて、寛容になってる、そんなとき私たちは、「今」にくつろぐナウトピアの住人だ。

実際、幸せの度合いと投影は反比例の関係にある。投影する人たち、たとえば、マイノリティにステレオタイプのイメージをかぶせ、偏見むき出しに攻撃するのは、たいてい社会の不満分子。

これは極端なケースだけれど、私たちが誰かを「問題」視したり、ネガティブなジャッジメントを下すときには、多かれ少なかれ、この種の鬱憤がある。不平不満、鬱憤をエネルギー源に、エゴのドラマの上映は、延々と繰り広げられ、過去の記憶と連想からなる決めつけと偏見のイメージで、他者を鬱蒼と包んでしまう。

今、ここでいつもまっさらな状態で、よろこびにあふれていること。これを、あらゆる仕事の始まりであり、ゴールとみなす。それがナウトピアの仕事だ。

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