非二元のエッセンス

「悟り」をめぐる、ありがちな落とし穴〜「そのもの」と「副産物」の混同

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ルパートさんのリトリートの質疑応答の録音を聞いていると、よく耳にするこんな禅問答風の対話のパターンがあります。

「悟り」について、とてもロマンチックで壮大な期待を持って、何十年もそのために努力してきた人が、今こそ、これについて、詳しく聞けると質問してくるのですが、

それに対して彼は、
「悟りに対して、私にはシェアできる思考も感情も一切ないよ。悟りは、私たちの究極の本性は、ただ、それであることしかできない」と答える。そんな対話です。

ただ、それだけで終わらず、大抵、彼は、そのあと、その人に、「あなたは気づいていますか?」「その気づきに気づいていますか?」などと質問しながら、純粋な気づきへと、その人を誘導していきます。

すると、その人は、「私には何にも感じられないわ!」とか、「あまりに普通で、え〜っ こんなもののために私、一生かけてきたの?って気がするわ!」といったコメントをします。それに対して彼はただ、

「悟りに対してあなたが抱いている、壮大な期待、その思考と感情の数々が、邪魔をしてるだけだよ」と言って、純粋な気づきの状態のまま、「それを言葉にしてください」と質問していきます。もちろん、言葉にならないのは、重々承知の上です。それでも何とか描写しようとすることで、「そのもの」にもっと寄り添えるようになるからです。

すると、「何もない」の後、「静か」だとか、「ただ知ってる」とか、「ただある」といった言葉が続き、だんだんその人も落ち着いてきます。

彼がよくいうのは、ほとんどの人たちは、悟りそのものと、悟りの副産物を混同してることです。というのも、悟り〜彼の定義で言えば、私たちの究極の本性、純粋な気づきであることには、

1、純粋な気づきそのものであることと、
2、純粋な気づきそのものである結果、副産物として生じること

の二つの側面が体験されるからです。

1の「純粋な気づきそのものであること」は、一切の「形」を超えているので、言葉にしたり、思考したり、感じたりすることは、一切できません。

だからそこに何らかの「形」を期待していると、絶対失望します(笑)。

でも、本当に1でいれると、その結果、2の副産物が体験されます。
2の副産物には、たとえば、安らぎ、静けさ、美、幸せ、満ち足りた感じ、一体感、愛、クリアさといった意識状態から、洞察、直感、前世を思い出すこと・・・などさまざま。

それは、「形」を持っているので、いくらでも言葉にして、シェアすること、できます。

つまり、
1については、一切、語れないし、思考できない、イメージを持つこともできないけれど、
2については、いくらでも語れるし、思考できるし、イメージを持つことができるし、シェアすることもできる。

その結果、どんなことが起こるかというと、2ばかりが強調され、記憶にとどめられ、
2こそが悟りだって思われることです(笑)。

でもそうすると、悟りはどんどん遠ざかってしまいます。
何らかの「形」を求める限り、「形」を超えたものには至れないという、ごくごく単純な理由からです!

だから、2について、は一切考えず、ただただ、純粋な気づきであること、それのみに徹するのが、一番だと思います。

それに自然についてくる副産物である安らぎや、ゆたかさ、クリアさは、「おまけ」として、ありがたく受け取る。
けれど、それ自体は、目標にしない。
というより、そのこと自体、忘れてるくらいが一番いいと思います!

ルパートさんが、「悟りは、意識の状態ではない」と口を酸っぱくしていうのは、そのせいなんですね。

2の副産物について、とりあえずは、忘れておいた方がいい理由、ほかにもたくさんあります。

特に、ぜひとも知っておくべきだって思われるのは、
人により、状況により、全く異なるものが得られることです。

それも、単純な理由からです。

たとえば身体全体、ぎゅうぎゅうに締め上げられるような拘束状態が続いたあと、
いきなり解き放たれると何が起こるか、想像してみてください。

拘束があまりに酷くて長期にわたっていたり、生まれてすぐ、物心ついたときからずっとそうだったりすると、まずは、解かれても、何が起こったのかわからない、どうしていいのかわからない、解かれた身体を伸ばしたり広げることの方が痛いってこともあるかもしれません。それでも、その解放感や自由がわかってくるのは、時間の問題ですよね。

逆に、それほど締め上げられていない場合、
あるいは、この解放がいきなりというより、徐々に、徐々に起こる場合は、どうでしょう?
いつそれが起こったのか、気づかない場合すらあるかもしれません。

行き着く先、解放された身体は、全く同じでも、その間のプロセスは、さまざまだってことです。
これと似たことが、スピリチュアルな解放でも、起こるんですね。

それまでの拘束がひどくて、
この解放の瞬間が、とてもドラマチックで感動的だった人ほど、
それについて感謝するし、語りたがるし、人にも勧めたがる傾向があります。
たとえば、エックハルト・トールやバイロン・ケイティなどのスピリチュアルティーチャーは、それまで、ひどいデプレッションに悩まされていたそうです。

すると、その話を聞いた人たちは、悟れれば、自分にも、同じようなドラマチックな変化があると、期待してしまいますよね。

あるいは、それが自分には、いつまでたっても体験されないので、「自分はまだまだ、だめなんだ」と思ってしまうかもしれません。

でもすでに幸せで満ち足りている人には、
気づいてみると、最近、安らか。頭の中で、絶えず聞こえていた自己批判やジャッジメントの声が聞こえなくなってる! とか
やっと本当の幸せがわかったわ!
くらいで終わってしまうことも、実際、多いみたいです!

同じ人でも、この副産物は、いろんな現れ方をします。
自覚的に、純粋な気づきとしてあることができるようになった後も、その時ごとに、いろんなヴァリエーションで体験されます。

純粋な気づきであることそれ自体は、捉えることはできませんが、

その直前に思考が働いていると、洞察、ひらめき、「わかった!」という、一体感を伴う理解が、副産物として得られることが多いようです。思考そのものは、純粋な気づきを知りませんが、思考を媒介にして純粋な気づきに触れた時、こうした「真理」の体験が副産物として得られるというわけです。

理論的な科学、学問にたずわっている人は、問題の答えそのものを得たいというよりも、答えがひらめく瞬間のこの解放感がたまらなくて、続けているって人も多いのではないかって思います。

直前に感情が働いている時、純粋な気づきとの接触は、愛として体験されるし、
何かを見たり、聞いたりという具合に、知覚をはたらかせながら純粋な気づきに触れると、美として体験されます。身体の感覚から入っていくと、生命感、幸福感として感じられます。

実際にはこれらが微妙に混ざり合う場合がほとんどですよね。
いくら探求しても尽きないような、ゆたかな領域がひろがっています。

ものすごく幸福な体験をすると、「もう一度、あれを体験したい!」と思うのは人情ですが、それを目標にすると、副産物をそのものと取り違えるエラーに陥ってしまいます。そうすると、うまくいきません。

「もう一度あれを!」ではなく、ただ、純粋な気づきである、それだけを、淡々と続けるのが、ポイントです!

「副産物」として体験されることは、どんどん変化していきます。

それまでとても幸福だったのが、逆に色褪せて感じられ始めたりと、逆行しているように思われることすらあるかもしれません。

でもしばらくすると、もっと深い世界の入り口に立ってただけだったことがわかるかもしれません! 

というわけで、ただ、私たちの本性、純粋な気づきとして自覚的にあること
それだけをして、他のことは、楽しみ、感謝しながらも、頓着しない、というのが一番いいみたいです。

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