非二元のエッセンス

一瞬でできることと 我慢強くないとできないこと〜ルパートさんのティーチングの二つの側面

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ルパートさんのティーチングには、2つの側面があります。

1、私たちの本性を直接知る
2、そこで知られた、私たちの本性に合わせて、人生全体を作り替えていく

ことです。そのうち、1つ目、「私たちの本性を直接知る」ことは、彼の言ってることを完全に理解して、その通りにやればそんなに難しいことではありませんし、一瞬でできます。

あらゆる体験内容に先立つ、空っぽの意識にしっかりいて、そこから動かなければ、いいだけです。

1をはっきりと知るために、いろんな方法があります。どの方法を使っても行き着くところは同じ。どれでも、あなたに一番、ピンとくる方法を使われるといいと思います。ご参考までに、いくつかご紹介しますね。

今、あなたは、いろんなものに気づいていますね 
たとえば、目の前のスマホ、パソコンに気づいている。この文字に気づいている。あなたの中に湧き上がる思考や感情に気づいている・・・・というふうに。

それを、一通りスキャンし終わったら、
今度は、そこでいろんなものに気づいている、気づきそのものに気づいてください 
「気づきに気づく」というとき、気づきが向かってるモノが抜け落ちて、気づきだけが残りますよね。
 
なんだかとても、爽やかで、新鮮な感じしませんか?
その感じを、こころゆくまで、味わってください。

その感じの中に居続けるだけです。それが薄らいでくるたびに、もう一度、自分がいろんなモノに気づいていることを自覚してから、「ではこの気づきそのものに気づいてみよう」としてみてください。

何物にも向かわない、この純粋な気づきについて、理解を深めるために、
もう一つ、ルパートさんがよく使われるたとえを紹介しますね。

この空間は、この家がある前も、この家がなくなった後も同じ空間ですよね。同じように、本当の私たち、純粋な気づきとしての私たちは、この肉体がある前もある間も、なくなった後も、同じように存在してる。

ここが、ものすごい悲劇の舞台になるとします。戦場になって、血みどろの戦いが繰り広げられるとします。その時この空間は、影響を受けるでしょうか? 

全く同じように私たちの本性は、体験の影響を一切、受けないんですね。

この空間、あなたの家のあなたの部屋の空間と同じ、一つの空間ですよね。地球の裏側の、イギリスのオクスフォードにあるルパートさんの空間とだって、つながっている、同じ空間ですよね。

同じように、この空間はあらゆるものに浸透してる。

今度は、物理的空間の比喩を、もう少し、純粋な気づきに近づけて、
ではこの空間が、意識してるって考えてください。

その空間に、あなたは何ですか? と尋ねると、どう答えるでしょう?

たとえば、「私は部屋です」とは言わないですよね。ましてや、この部屋の中にあるものを指して、「私は、机です」とか、「私は、椅子です」とか、「私は、ここにいる人です」・・・・とも言わない。

「私は空間です」というのはどうでしょう? そんな声、聞こえてきそうですね。でも、「空間」は、人がそこに押し付ける、一つの概念にすぎません。空間そのものに自分がなったつもりで、そこで直接体験されることだけ、ただ、感じてみてください。

私は私自身に気づいています。私自身を意識しています。ただ、それだけ感じてはいないでしょうか?

もしあなたが、純粋な気づきとしての、本当の「私」でいたかったら、
たまたまそこにあるものと自分を同一視しないでください。

私は疲れています。私は背中が凝っています。私は憂鬱です。私は堀田真紀子という名前です。私は女性です。私は日本人です・・・などなど、

それは、空間が、「私は机です」「私は椅子です」というようなものです。

ただただ、自分自身に気づいている無限の私でいてください!

非二元の「私」の定義は、
私とは、ただ自分自身を知るものが、自分を呼ぶ言葉である
というものです。

この定義が、本当に理解できると、2000年以上続く哲学的な議論の全てが、理解できる。ここで言われる「私」だけを、生きようとするだけで、あなたの人生は一変してしまうとルパートさんは言います。

実際、「私」という言葉を使うたびに、至福の境地になれます! 
1日に何度「私」という言葉を言うか考えてみると、どれだけ幸せになれることでしょう!

それでも、たとえば、「私は悲しい」とか、「私は怒った」言うこともあるかもしれません。
でも、その「私」と言った瞬間に、ただ自分自身に気づいている無限の広がりがあって、
それが、一時的に「悲しい」「怒った」という演技をしてる。
そんな境地になれます。

これまで同様、みんなと同様、人生を体験しながら、それに心理的に巻き込まれることはない。結構楽しい、ユーモラスな生活のはじまりです!

全然難しいことではない

私たちの本性を直接体験するのは、実際難しいことでは全然ありません。

だって、何にも特別のことをすることを求められているわけではなく、
これまでと全く同じように生きながら、ただ、
体験内容と自分を混同しないこと、
あらゆる体験に先立つ、まっさらな自分の中に居続けること、
それだけが求められているのですから。

この辺のことを理解するのに一番役にたつのは、悲劇の主人公、リア王を熱演しすぎて、リア王の世界から抜け出れなくなった俳優ジョン・スミスの例ですね。

リア王の世界から抜け出れなくなって、自分をリア王だとてっきり思い込んでしまってるジョン・スミスは、体験内容と自分を混同してしまってる私たちの姿です。

でも、リア王とジョン・スミスの間には、実はなんの距離もないのですね。リア王は、いつだってジョン・スミスなわけですから。現実だって信じ込んでるあらゆるドラマを一切合切外してしまうことができれば、いつだって、ジョン・スミスに戻れるわけです。

まずはこの全てを置いていくぞって覚悟して、あとは、実際に、置いていくだけ。

あなたが生きてる体験の内容、ドラマの一切を否定する必要さえありません。ただ、一時停止して、スクリーンがそこにあるのを確かめるだけでいいんです。

何もかも忘れて、全ての体験に先立つ、ただ、自分自身に気づいている純粋な気づきに戻ってください。

体験に先立つ意識に触れる実験

この瞬間、あなたの全ての気がかりを、あなたが現実だと思っている全ての体験をうっちゃって、それら全てに先立つ、ただただ、自分自身を意識する意識に戻ってみましょう。

体験してみるとわかるのですが、これほど自然で、楽で、安らかなことはないです。
しかも、そんなに難しいことではない。一瞬で、ダイレクトにいけます。これこそ、「ダイレクトパス」「直接の道」の真骨頂です。

ただ、24時間いつもそこにいて、あなたの全生活、あなたの生活のあらゆる局面をこの体験と同調するように再編成するのは、また別の問題です! 

つまり、「私」という言葉を口にするごとに、自分自身に気づいているこの純粋な気づきに触れて、至福の境地になれるように生きていくってことですが、

それが本当にできるようになるには、時間がかかるし、「修行」のように見えることも必要になってきます。

具体的に言えば、ジョン・スミスが自分をリア王だと思い込んでいた時についた癖が、心身にいっぱい残ってるんですね! それが、油断すると、すぐにまた顔を表します! で、どんなに、純粋な気づきでいれるようになった後も、私たちを以前の思考や感情の習慣の中へと、引きずりこんでしまうわけです! この癖を矯正していく必要があります。

これが二つ目の局面です。

二つの局面、おさらいしてみると、

1、私たちの本性を直接体験する・・・一瞬でできる
2、その本性に合わせて、人生全体を、再編成する・・・ 時間がかかる

スピリチュアルな道の中には、「悟りはとても困難で、時間がかかる」「たくさん修行を積む必要がある」と言っているものがほとんどですよね。

ダイレクト・パスの見地から見てみると、1と2を混同しているだけなんですね! 
これを混同するのをやめて、

1に取り組むときは、
私たちの本性を直接体験するのは、今、ここ、この瞬間だけなんだ! 
そのために準備することなど一切できないんだ
と覚悟をきめて生きるのって、とても大切だと思います。
コースで言えば「聖なる瞬間」ですね!

そうしないと、「修行」「準備」がエゴが生き延びるための先延ばし戦略の巣窟にされてしまいます。

それは、水に飛び込むのが怖くて、いつまでも、陸の上で、泳ぎ方を習うようなものです。一種の逃避として、「時間がかかる」を利用する癖をつけてしまうんですね。

スピリチュアルなことを学習するのは好きで、本を読んだり、ビデオを見たり、イベントに参加したりはたっぷりするけれど、実行はしない人、よくいますよね。そんな場合も、スピリチュアルなことを学習することそのものが、本当にスピリチュアルになることに対するこの手の抵抗として使われている可能性、あります!

もし心当たりがあったら、私たちの本性が知れるのは、「今、ここ」だけだってこと、そのためにはなんの準備もいらないし、できないことを思い出してください!

と同時に、2に取り組むときは、長期戦略で、辛抱づよく、我慢強くある必要、あると思います。

というのも、1を、純粋に体験できるようになればなるほど、それが真正のものであればあるほど、エゴの揺り戻しというか、悪感情のデトックスも、一時的にですが、強まるからです。「またか〜」とびっくりしたり、気落ちしそうになることもあるかもしれません。でもそこで、自分を責めたり、ジャッジしはじめると、エゴの悪循環にはまってしまいます。心身の中に根強く残る「癖」に対して、いたわり深くあってください!

では、2のプロセスを、どうやって速やかに進めることができるのでしょう?

最初、私は、いつも、ただ、1をすすめて、本当の私たち、純粋な気づきでいるだけで、自動的に2のプロセスも進むのかなって思ってました。

ただ、そうすると、心身に残る癖が、ただ置き去りにされて、両者の間の分裂が深まっていくようです。具体的にいうと、私の場合、身体の凝りの形で、この「癖」の逆襲がきましたね。

今、つくづく思うのは、何らかの形で、両者の間の橋渡しをたっぷりする必要があることです。

具体的には、こうした「癖」からくる不快感や悪感情が出てきたら、それを抑圧せずに、逆に全開にしながら、それを純粋な気づきで包む必要がある。あるいは、小刻みに、交互に、両者の間にいる必要がある。いろんな方法があると思います。みなさんそれぞれ、いろいろ実験して、一番自分に効く方法、開発してください! 純粋な気づきであることと、エゴでいたときについた心身に残る癖との間の橋渡しになるようなことであれば、何でも有効だと思います!

「神」と「聖霊」、「仏」と「菩薩」・・・仲介者がいるわけ

1のプロセスと、2のプロセスは、体験してみるとわかるのですが、全然違いますね。

1は、本当に一瞬にして、清々しい自由な境地に一足飛びに連れて行ってくれますが、
2は、どろどろして、なまなましいです。といっても、最後までいければ、1と合流するわけですが。

泥の中に足を突っ込みながら、水面に美しい花を咲かせる蓮の花の実践です。

2のプロセスの深さ味わうにつれて、つくづく思うのは、「神」だけではなく「聖霊」、「仏」ではなく「菩薩」といった仲介者のイメージが、あらゆる宗教に出てくる理由が、身に染みてわかるようになりました。

1のプロセスで合流するのは、「神」であり、「仏」です。

でもそれだけでは、心身に、泥が沈澱して残ったままになってしまうんですね。

ルパートさんのヨガメディテーションのほとんどは、2のプロセスを進めるものです。ただ、今回、7月26日(リアル)から8月1日(オンライン)の会で使わせていただくビデオは、
ダイレクトパスの基本に忠実に、1をまず徹底させようとするものです! これができれば、2のプロセスの、少なくともその必要性は、その日の夕方にはわかります(笑)。

というわけで、ご興味のある方は、ぜひ!

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