非二元のエッセンス

安らぎを恒常化させるのに、私の場合、役立ったこと

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いわゆる一瞥体験をしたことがある人、実はかなりの割合(人口の3〜4割とか)でいるのではないかという調査結果もあるみたいです。ただ、本人それを自覚していないだけ。

特にこれといった理由もないし、どちらかというと、落ち込む理由の方が多かったりするのに、なんだかとても幸せを感じたり、あらゆるものが愛おしくなって、そのままで、最高なんだって肯定できたり
まさに世界が薔薇色、というか、美しく見えてきたり、
普段よりも、ものが鮮やかに、あるいは軽やかに、透明性を増して見えてきたり。

そんな覚えはないですか?私が提唱させているのは、いつもそこにいましょうってこと、それだけなんです。

実際それは可能です! 私の場合、自覚的な一瞥体験があってから、今、6年ほど経つのですが、その時に感じたことが、今はほとんど常態になってきてます。とくにここ1年くらいで、この恒常化がグッと進んで、そこから外れることの方が、ずっと難しい感じになってます。

もちろん、そうなると、そちらがふつうのこととして感じられるので、ドラマチックな感激はなくなりますし、
生活も、それまで通りふつうに続いていますが、どんな時も、
静かな安らぎ、満ち足りた感じと、感謝の念が、音楽で言えば通奏低音のように、いつも途絶えずひびき続けてる感じです(笑)。

というわけで、とてもよかったと思ってます。過渡的に精神的なアップダウンが激しくなったりと、途中、いろいろありましたが、進めば進むほど、いいことが多くなります。

とにかく今は感謝の念ばかり。途中で出会ったすべての人、すべてのものに、とにかく感謝です。

というわけで、今日は、この恒常化を進めるために、私にとって、これは効いた! と思われること、シェアさせてください。

一つ目は、あらゆる心の動揺を、一つ残さず、心を見つめる機会として使いこなすことです。

とんでもないことが起こって、恐れでパニック状態になったり、怒りや悲しみを感じたり、なんだかわからないけれど、空虚感があって、生きているのも虚しくなったとか・・・とにかくそんなことがあると、「またとないチャンス!」と、心にルーペをあてて観察するのに、夢中になってました。「転んでもタダでは起きない」意地のようなものもあったかな?

具体的にやっていたことは、ブログや本で繰り返し書かせていただいているので、超簡略バージョンでかいつまんで話すと、

悪感情の原因を、「〜のせいだ!」と、人や状況のせいにするのを、とりあえず、一時停止して、自分が今、感じていることだけにフォーカスする。
感情を裸にする。その感情から、説明書き、レッテル、格好をつけたり、強がったり、割り切ったりするポーズを一切外して、生の状態で感じます。この時点で、感情は、お腹や胸などに感じる不快な身体感覚になってます。
それを一切ジャッジせず、ただありのままにゆるし、無条件に愛している広がりに、委ねる。あるいは、自分自身、この広がりとして、この感情を包み込む。

心をかすめるあらゆる動揺に対して、かすかなものも含めて、例外なく、これをやってました。最初の3〜4年間くらいは、本当にこれだけ、やってました。

その頃学んでいた『奇跡のコース』で、
あらゆる出来事はゆるしと癒しのためにあること。
自分の人生に優る素晴らしい教材は、世界中のどこを探し回っても見当たらないこと。
それを徹底して叩き込まれたのが、今思えばとてもよかったです。

途中でいろんな洞察がありました。

悪感情の原因に見えるもの、たとえば、人間関係、金銭状態、健康、仕事の成否などを、少しでもいい状況に持っていこうとして、私たち、時間や労力惜しまず、投資しますよね。それは、報われることもあれば、裏切られることも多い。

でも、一旦、感じてしまった悪感情をゆるしと癒しのために使い切るために充てた時間や労力の投資は、100%報われるということです。絶対見返りのある投資です。これはもう、体験してみないとわからないのですが、やればやるほど、心がどんどん軽やかに、自由に、安らかになっていきます。

どんなにそうならないように頑張っても、恋人に裏切られたり、仕事に失敗したり、思わぬ病気が発覚したりすることって、あると思うのですが、その時動揺した心を見つめ、ゆるす・・・この投資が、裏切られることは、ありません。

もう一つの洞察は、どんな悪感情も、それを本当に裸の生の状態にもどして、慈しむことができたら、それぞれのやり方でいい味を出して、愛と美、安らぎに戻っていく、素晴らしいエネルギーの塊だってことです。

どんな感情も、そうやって、素材に戻すことで、私たちの人生の奥行き、存在のゆたかさが、増していきます。

だから、「こんな感情を抱くなんて、自分はダメだ」とジャッジしたり、否定したり、恥ずかしがったりして抑圧するのは、もったいないってことです! 

アイデンティティのお引っ越し

ただ、2年くらい前に、転機がありました。

心が動揺するたびに、それを見つめて、もっと大きな私、コースの言葉では、スピリット、聖霊、大いなる存在にゆだねる・・・というセラピー的な方法、それまではとても役にたってきたのですが、それだけだと、これ以上先に進めないというか、足踏みしている感じが出てきたんですね。

そうすると、私はいつまでも、「癒される必要がある」役回り、スピリット、聖霊、大いなる存在・・・に「助けてもらう」役回りです。

もちろん、そうやって、自分を無にして、すべてをゆだねる、サレンダーの態度、素直に助けを求める態度あってこそ、エゴの「自分でやろうとする」「私は正しいやり方を知ってる」マインドを取り消すことができたのは確かです。

つまり、一時はとても役にたったのですが・・・

先に進むためには、癒されなければならない。ということは、いつも癒されるネタを探して、血眼でいなければならない・・・そんな変な癖がついているのにも気づきました。自分はまだまだ足りないと思って、問題を探す視点は、もちろんエゴですね。

そんなわけで、これ以上、このやり方では進めないという閉塞感を感じるようになってきました。

その時に出会ったのがルパートさんの非二元の方法です。これが、たまたま、私の場合、そこから抜け出るのを助けてくれたのです。

というのも、そこでは、助ける側としてそれまで私が想定してきた、スピリット、聖霊、大いなる存在を、いきなり、

「私」

として扱うからです。

癒しやゆるしが完了して、心の動揺が愛に戻った瞬間、
自分が大きく広がって、スピリットや聖霊、大いなる存在そのものと一つになってる。
そんな感覚は、以前からあったのですが、最初から

「それこそが私だ」

と言い切るのは、飛躍ですし、勇気もいります。でも、それができると、見えてくる、全く新しい光景、あるんですね! 何より、心のアップダウンが激減して、安らぎや静けさが恒常化してきました。

だからといって、コースより非二元がいいとか、言うつもりは全然ありません!

安らぎを恒常化させるためには、助ける〜助けられる 役割分担のようなものを超える必要があるといいたいだけです。

私にはできなかったのですが、コースを深める中で、
「助けてください」「あなたに全てをゆだねます」と、聖霊に呼びかけるだけでなく、
「聖霊こそが私だ」というところへ至り、そこから、ずっしりと動かなくなることで、平安を恒常化させることも、できるはずです。現に私が今、訳させていただいているカースティン・バクストンさんの日記には、「融合が起こる」という言葉で、この移行がはっきり描かれています!

それぞれの道があるのだと思います!


というわけで、 コースがいいか、非二元がいいか、あるいは、他のどの道がいいかといった形のレベルの話ではないこと、理解していただけると、うれしいです。

あなたが、その他、どんな道を歩んでいらっしゃるにせよ、どうぞそれを大切にされてください!

私がただ言いたかったのは、安らぎを恒常化させるためには、それまで自分が癒しのために頼っていたものに対して、「私がそれだ!」って引き受ける飛躍がいる瞬間がくるってことだけ、お伝えしたいです。

この「飛躍」の後、私がやったのは、とにかく、いつも、そんな「私」であること、煎じ詰めれば、それだけです。

その時に一番、留意したのは、その「私」が、皮膚の境界など関係なく、自分の内側外側で、等しく、ひとつながりのものとして感じられること。身体の中だけでなく、目の前のコップにも、パソコンにも、全て等しく感じられることです。ルパートさんの言葉を使えば、「継ぎ目のない、全体」としての私です。そんな「私」でいるか、それをチェックしながら、生き続ける、そんな毎日が始まりました。

身体の空性を感じながら、グラウンディングするための瞑想

その感触を深めるのに、ルパートさんのヨガメディテーションが、そこでとても効き目を発揮しています。

ただ、効き目がすさまじくて、全く身体感覚がなくなって、自分がどこにいるのかもわからない、方向喪失的な状態になること、正直、ありました。

トラウマなどの回避手段として、身体にグラウンディングするのを拒否してきたような来歴がある方は、それがひどくなることもあるかもしれません。

そんな時に、グラウンディングの助けとして、役に立っているものに、ジュディス・ブラックストーンさんという、アメリカの非二元のティーチャーの本(Judith Blackstone: Trauma Unbound Body)で学んだワークがあります。それも簡単にシェアさせてください。

足の指からはじまって、頭のてっぺんまで、身体のすべての部分を意識していくボディスキャンの瞑想、ありますよね。それにとても似ているのですが、各部分を意識した時に、そこにある身体ではなくて、その空っぽさを意識する瞑想です。

例えば、足に意識を向けながら、身体としての足を意識すると、その温かさや冷たさや、むずむずした身体感覚など感じられるかもしれません。

でも、この瞑想では、そういう身体感覚を感じるのではなく、それを超えて、
そこに空っぽの空間の広がりを感じるように、フォーカスする(というかフォーカスをゆるめる)んですね。

足そのものを感じるというより、足の中に入り込んで、そこに、ゆったり、心地よく、「棲みつく」inhabit ようにすると、そこに潜んでいるこの空間の広がり、うまく感じられます!

足から始めて、頭の先端まで、身体のすべての部分にこの空間を感じながら、この空性の中に棲みつく・・・というのを繰り返す感じです。吸う息、吐く息、それぞれ2秒くらいの、ゆったりした呼吸とともにするようにと、言われています。

全身でそれができたら、その空っぽの空間と全く同じものが、身体の外にも全く同じように感じられて、一つながりになっているのを確認します。

というわけで、最後には、ただ、「私」として、無限に広がる、たった一つの、純粋な気づきの空間だけがあることを確認することになるのですが、ルパートさんのヨガメディテーションのように、いきなりそこに突入しない分、ショックが和らぐかもしれません。私はこのジュディスさんの瞑想のおかげで、エネルギッシュになり、体調が整ってきました。

最後、もう一つだけ、安らぎの恒常化のために、私には目覚ましい効果を発揮してくれているのが、ブログで何度かご紹介している、タイマーを使った瞑想です。

1日に、なるだけ頻繁に瞬間瞑想をすることで、最後には、1日が瞑想に浸されているように持っていく方法です。

タイマーはなかなか1人でいるときでないと使えませんが、使えると、効果的です。

大きな私として生き始めても、私たちの生活の細部に、自分が心身だと思ってた時、エゴとして生きていたときに、それに動機づけられ、鼓舞されることでつけた習慣、癖がたくさん残っています。

それはほとんど無意識で、気づかないうちに、繰り返してしまうことが、ほとんどですが、一旦始まると、
その動作自体の中に含まれている、エゴとして生きていたときの記憶がそこから滲み出てきて、
なんとなく、攻撃的で躍起になったり、疲れた気分になったりすることがよくあります。

それを、タイマーの音が無惨に断ち切って、くれるんですね!

そこで、一瞬瞑想すると、それまでエゴに仕えてきたこの動作の全体が、瞑想中に感じられる大きな私の表現媒体へと、作り替えられていくんですね。

始めたばかりのときは、ちょうど何かに熱中しているときに、タイマーに無惨に断ち切られたりするのが、かなりストレスフルですが、実は、この「無惨さ」が、うまい具合にエゴでいた時についた習慣を切り刻んでくれて、よかったりします!

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