非二元のエッセンス

諦めでも、犠牲でもなく〜欲望において、妥協しないこと!

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コースや非二元の話をすると、いろんなことを諦めなければならないとか、犠牲を払わなければならないって思って、抵抗を感じられる方、結構いらっしゃるみたいですね。

でも、私自身の実感からすると、

自分の願いを諦めるのとは、正反対。

逆に、「願望に関して、妥協するのを一切やめる」とか、自分が本来望んでいたことを、思い出す・・・という方が、事態に即してる気がします!

今、エリザベス・ハイチさんという、スピリチュアルティーチャーの自伝を読んでいます。

彼女は、頼もしい父と、愛情深い母といった、理想的な家族に恵まれるのですが、

物心つくにつれて、そんな父にも、絶対的な真理、絶対的な力の体現者とは言えないし、母も、無条件の愛そのものとは、いえないことに気づいて、失望し始めます。

具体的には、お父さんにも、上司がいて、その上司のいうことに従わなければならないことを知ったり、お父さんも間違うことがわかったり、

お母さんは確かに、愛情深いけれど、弟が生まれると、彼につきっきり。一度に全ての子供かまけてはいられないこともわかってくるわけです。

あたりまえですよね。人間ですし!子供心に神々のように映った親も、数ある人間の一人にすぎないって気づく・・・ガッカリすることですが、私たちみんなが、成長するにつれて直面することですね。

で、ほとんどの人はそこで、妥協して、あきらめるというか、

そういうものに囲まれたものが、人生だって折り合って、

自分が父や母に投影していた神々しさのことなど、忘れてしまいます。

でも彼女は忘れなかったし、妥協しなかったんです。

といっても、子供ですから、子供のロジックで考えて、

「ここが本当の私の家」だって思える、本物の父母がいる場所がどこかにある。その本当の家族のところに、戻らなければならないという衝動としてそれは現れます。

でも、実際それは、非二元的な全ての源泉についての記憶というか、予感からきたものでした。その絶対的な力、真理、愛の中で、心底安心すること、その感覚が子供心に、自分の「本当の家」がどこかにあるはずだ・・・という思いとして現れていただけなんです。

この記憶、この予感を、妥協せず、全開にしたまま、純粋に保ち続けることで、

彼女はスピリチュアルな道を、ずっと先へ進んでいくことができました。

というわけで、

幸せになりたい

無限に愛し愛されたい・・・

子供っぽく、荒唐無稽に見えようと、あなたがこれまで抱いた、願望、夢も、諦めないでください。

妥協したり、薄めたりしないでください!

逆に、それを全開にして、純粋に保ち続けてください!

だってそれは、非二元的な全ての源泉についての予感からくるもので、

そこへの道を正しく歩むための導きの星だからです。

ただ、それを、特定の形に求めないということだけが、求められているんですね。

たとえば、エリザベスさんの場合、お父さんやお母さんを通して、神的なもの~真理や力や愛そのもの~を感じたこと、それ自体、すばらしかったのですが、

それが自分の「お父さん」「お母さん」という形を取らなければならない、この形の中にだけ、それが見つかる・・と子供心に考えたところには、間違いがあったわけですね。

でも、そこで引っかからずに、

この神的なものを、「お父さん」「お母さん」といった特定の形から独立したもの、

それどころか、あらゆる形を超えたものとして求める時、自分の中に、それが見つかります!

そのとき、世界中のあらゆる人が、自分の「お父さん」「お母さん」のように、力や真理や愛をたたえて、見えてくるはず!

欲望を全開にしながら、それを同時に、特定の「形」に押し込めようとすることを、やめることができると、

求めているものがあらゆる人の中、あらゆるものの中にすでにあることに、気づかされるからです!

私自身にも、ちょっと似たような経験があります。私の場合、無限に愛し愛される相手が絶対どこかにいるはずだという確信がありました。実際に現れた恋人は、みんな人間ですから、もちろん、その点では、私を失望させるばかりでした!要求が高過ぎたのです!

ちょうどその頃、魂を花嫁にたとえたり、キリストを花婿にたとえたりする、愛の比喩満載の中世キリスト教神秘主義の文献との出会いがありました。

実際、私の大学の卒論は、それがテーマだったのですが、

その世界にのめり込んでいくことで、

心の中に、片時も離れず、自分と一緒にいてくれ、無限に自分を愛してくれる、永遠の恋人を見つけることができました! 

この恋人となら、四六時中一緒にいて、思いっきりむつみあうことができます。決して飽きることもなければ、裏切られることもない・・・

すると逆に、この世界にいる、具体的な誰かに、自分の全幸せがかかっていると思うことの方が、あまりにも乏しい、生ぬるいもので満足してしまうこと、

自分を安売りして奴隷状態に陥らせること、

つまり、妥協そのものだって、思えてきました。

形あるものは、有限です。でもあなたの中にある幸せになりたい!という欲望は、

無限性をめざしていて、有限のものの中では、そもそも満足できないものだからです。

どんな理想的な両親も、どんなに優しい恋人も、

美しい、立派な家も、やりがいのある仕事も、

手に入れた後、しばらくすると、色褪せて見えてきたりと、

本当の意味で、恒常的に、あなたを幸せにする力をもっていないのはそのせいです。

形の中に、形を超えたものを求めようとするのは、所詮不可能な相談だからです。

でも、心の中に見つけたこの「永遠の恋人」とのつながりを、胸に保ち続けると、

そこから、無尽蔵の愛や安らぎが湧いてくる泉というか、発電所のようなものができあがります。

その光を浴びて、特定の人だけではなく、あらゆる人が、やさしく見えてきますし、やさしく対することができるようになります。

要するに、心に「永遠の恋人」を感じてると、あらゆる人が恋人のようになるわけです(笑)。

この無尽蔵の愛や安らぎの泉、発電所は、

幸せに関して、いわば、自給自足させてくれます!

それができれば、形あるものに、自分の幸せがかかっていると思わずに済みます! 

大変な解放になります。

これさえあれば幸せになれるのに! この人が、状況が・・・こうであれば、幸せになれるのに!

と思う必要もなくなるし、

それを基準にして、人やものをジャッジして値踏みしたり、

ありのままの状況を、理想と比較してため息をついたり、

期待しては裏切られる、アップダウンを繰り返す必要もなくなります。

「私はあなたに幸せにしてもらう必要はない!」 というメッセージとともに、人や状況に近づくのは、ちょっと冷たい感じがしますが、

実際には、まさに、それができるおかげで、あらゆる人、あらゆるものと、

やさしい関係を結ぶことができるわけです。

欠点も、いい味出してる!

心の中に見つけたこの「永遠の恋人」とのつながりを、胸に保ち続けると、
あらゆる人が、恋人のようにやさしく現れ、やさしく対することができるといいましたが、
それだけではありません!

同じ人に対する時も、「こんな時のこの人は好きだけれど、あれはどう見ても欠点」
あるいは、それまで、つれなさの表れだとか、欠点だと思われたものも、
その人なりの「いい味」を出してる、
まるごと、「可愛い!」と、感じられてくるというわけです。

つまり、良い悪いといった二元性がゆるんでいくわけですね。

非二元的な恋の始まりです!

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