これまでのお話が、ピンと来ない方、いつ終わるかわからない癒しのプロセスがあてにならないと思われる方がいらっしゃるかもしれません。私
そんな方のために、ここでずっとお話ししている身体感覚とのつきあいの最終目的について、お話ししておきますね。そこさえ、目指せば、どんな道を通っても、しっとり系の自己愛のゆたかさに、達することができます。
それは、私=身体という図式をゆるめて、
「私は身体に過ぎない」のって思うのを、やめることです。
それができるようになると、エゴからくる全ての苦しみが、基盤を失って、剥がれ落ちていきます。
皮膚の輪郭のところで、他のものから切り離され、
しかも、刻々と朽ちていく身体と自分を同一視することから、
孤独や、無力感や、死の恐れが生まれます。
そんなか弱い自分を守らなければならない、不足を補って、少しでも強くみせなければならないといと、特別性の自己愛をめぐるさまざまないとなみも、生まれます。
でも本当のあなたは、無限に広がっていて、あらゆる人、あらゆるものの、一番やさしく、一番美しい部分と、すでに一体で、死ぬこともないって、思えたら、
でもその一番の前提にある、身体と自分の同一化が、無意識によるものも含めて、消えると、
エゴの悩みも、基盤を失い、一緒に剥がれ落ちていきます。
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「私は身体ではない」とはっきりさせると言っても、幽体離脱の訓練を進めているわけでも、自殺をお勧めしているわけでもありません。
逆に、身体を思いっきりいたわってあげること。
自分にはできない無理難題をつきつけるのをやめることをお勧めしています。
というのも、私は身体だというアイデンティティを持っていたら、
幸福に生きていくために、身体には、美しく、若々しく、健康で、パワフルであってもらわないと困ります。だってそれが私なのですから、それがどんな状態かに私の命運がかかっているわけですから。というわけで、身体が唯一の自分だと思っている時、私たちの心は身体をぎゅっと握りしめて、コントロールの対象にしようとします。
そこにどんなエラーが含まれているか、なるだけわかりやすくするために、また、たとえを使わせてください。
美しいランプシェードがかかったランプは、美しく輝きますよね。でも、それを輝かせているのは、あくまで、内側のランプの光です。そして、この光が、本当のあなた、純粋な気づきなのです。
あなたは身体ではないというのは、この例で言うと、光はランプシェードではないってことですね。
そして、光であるあなたこそが、身体、つまり、ランプシェードを輝かせているわけです。
ランプシェードは、一つ一つ離れているかもしれませんが、光は一つにつながります。
ランプシェードは、時間の中で朽ちていきますが、光はずっと光のままです。
それなのに、ランプシェードを美しくて、丈夫で、完璧なものにすれば、
ランプシェード自体に自分を輝かせる力があると思って、いじくり回すのは、所詮無理な相談ですよね。
「私は身体」、だから、身体には完璧であってもらわなきゃ困ると思ってなす、あらゆる努力には、それと似たところがあります。
ランプシェードそのものに輝く力がないように、身体そのものには輝く力はありません。
死骸を見ると、一目瞭然ですよね。輝く力、生気が、そこから抜けています。
単に、そのことを確認するだけなんですね。
光は、ランプシェードから来ているのではなくて、その中にあるランプの光からきていることをはっきりさせるために、ランプシェードを取り払ったり、捨てたりする必要はないのと同じように、身体はそのままにしていて、全く大丈夫。大切にメンテ、ケアするのも、それまでとは変わりません!
ただ、身体に対して、それが私、それに私の命運が、幸せがかかっているから、完璧でいてくれなきゃ困る!といった切羽詰まった思いを抱くことがなくなり、
ずっとリラックスした関係になるだけです。
そしてそのリラックスした関係に、身体もほっとして、たいてい、前より健康になります(笑)。
自分には原理的に不可能な、無理難題をつきつけられることもなくなるわけですしね。
というわけで、身体に、
「あなたが私を輝かせるのではなくて、私があなたを輝かせる。だから、あなたはそのまま、楽にしてて!」
と言ってあげましょう。ルパートさんはこれを、「身体に無期限の有給休暇を与える」と呼んでいます。
年を重ねて、顔も皺でいっぱいなのに、とても美しい人っていますよね。内から輝く光が強烈で、どんなランプシェードも魅力的に見せる例だと思います。
「私は身体ではない」と実感できるようになればなるほど、身体は身に余る過剰な期待から解放されて、ほっと一息。
リラックスしながら、あなたの気づきの光に浸透されていきます。それが、実は、一番人を美しくみせるんですね。
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気づきであるあなたの側からみると、どうなるでしょう?
「私は身体に過ぎない」と、身体と自分を同一視しているとき、私の境界線は、身体の皮膚の境界線になります。そこからくる拘束感や、欠如感は、エゴの活動として知られています。
あなたの方も、自分は身体だというアイデンティティを手放すごとに、皮膚の境界線に囲まれた狭い場所から、解放され、無限の気づきの中に広がってほっと安らげます。
「私は気づき」と、アイデンティティが、無限の気づきの方に移ると、身体はそれをちょこんと乗せている、小さな受け皿、クッションや乗り物のように感じられます。
身体との関係は、それがあるおかげで、日々、暮らしていける、お気に入りの道具との関係に似たものになります。いい状態で、長持ちさせたいので、もちろん大切に、世話することも怠りません。