非二元のエッセンス

究極のヨガ 身体感覚を気づきに溶かす

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太陽が自己認識するとしたら、ただ、「照らし、見えるようにしている」者であって、

自分が照らしている星も、人々も、木を自分と混同したりしないのと同じように、

気づきとしての私たちも、体験内容を、「照らし、気づけるようにしている」だけ。

体験内容と、私たちを混同すべきではない。そんなお話をしました。

というわけで、ネガポジ反転の段階💜→💟を、しっかり踏んで、体験内容から、気づきとしての私をはっきりと区別することができると、逆に、体験内容が、私である気づきの中に溶けていく。全て、気づきでできていたことを、あらわにしながら・・・

その時感じられるなんとも言えない一体感を、気づきの一体感と呼びました。

これを感じるためには、まず、体験内容を、気づきに溶かしていく習慣をつける必要、あります。その方法について、ここのところ、お話していたところでした。

思考については、もうお話ししましたよね。

思考を観察するという形で、すでにやっている人も多いし、

それを超えて、思考が気づきに溶けて戻っていく状態も、比較的、体験しやすいということも。

ただ、中立的に対せず、ついつい感情的になってしまう、感情を伴う思考は、

気づきの側から観察対象にするのは、もうちょっと難しいし、気づきに溶けていくプロセスもずっとゆっくりなことも、確認しました。

それでも根気強く、気づきで包み、気づきで浸しながら、

そこに含まれている思考を、ドラマを、意識できる限り、見つめながら外していくと、

最後には身体感覚だけが残る。

そしてその身体感覚は、抑圧されて無意識にとどまるエゴの記憶からできていて、

「私=身体」と信じていることから、これまで体験した恐れや悲しみや孤独や罪悪感のうち、様々な理由で、未処理のままにとどまっているものが、

そこにはぎゅうぎゅうに詰まってる。

というわけで、内に隠れた身体感覚こそが、

中立的になれず、ついつい感情的に対してしまう思考に、

身に迫るようなリアルさ、自分を忘れて押し流されてしまうような強烈さを与え、

気づきの冷静な観察対象にするのを難しくしてた張本人だったわけです。

身体感覚が、気づきに溶けていくのが、ゆっくりなのも、無理もありません!

そんなふうに、少々手強い身体感覚ですが、取り組みがいがあります。

感情の奥に身体感覚として見つかる、この抑圧された記憶の巣窟こそ、

私たちの自己感覚を身体に結びつけ、「私=身体」と感じさせる張本人でもあるのですね。

身体の中にこの手の記憶の巣窟をたくさん抱えている限り、

いくら、私は身体ではない、無限の気づき、スピリットだって、頭ではわかっていても、実感が伴わないし、何より、気づきの自由さや愛が感じられなかったりするのです。

というわけで、手強い身体感覚ですが、

取り組む価値は、大ありです!

根気強く、自分はこの身体感覚ではない、

これに優しく気づいている気づきであることに徹していると、

遅かれ早かれ、それも、少しずつ、気づきへと戻って行きます。

身体感覚を気づきに浸して、溶けた状態に戻すことで、

身体は重さや硬直状態から解放されて、軽やかで、しなやかで、柔軟になり、

本当の私である無限の気づきに対してオープンに開いた、受け皿、乗り物のようになります。

ルパートさんは、ヨガとは、本来そんなものだったって言っています。

癒しのプロセスをなるだけ速やかにするために、私がやっていること

そういうと、一刻も早く、そうなりたいなって思いますよね。

ただここでも、エゴ特有の抵抗と探索にプロセスを乗っ取られないようにすることが、肝心です。

つまり、不満な現状を、いい状態に変えたい

この胸の痛み、お腹の圧迫感・・・不快な感覚を除去したい・・・

と思うとうまくいきません。

特に最初は、強烈な不快感を伴うことが多いので、早くこれを除去したいと思うのが人情ですが・・・

じゃあどうすればいいの? って思ってしまいますよね。

私がいつも心掛けていることをご紹介すると、

まず、怒りでも悲しみでも、エゴから来ると思われる感情が少しでも動くのを感知した時点で、すぐに、

1、「皮を向いて、中身をあらわにする」

それはどういうことかというと、直接体験されることだけを残して、

その上に付け足されているもの全てを、剥ぎ取っていくんですね。

この感情を抱くに至ったあらまし、ストーリー、「誰のせい」だとか、「誰が悪い」、「私はどう見ても正しい」「私は犠牲者だ」といった思いも含めて、全て、バナナの皮を剥くように外します。

この感情に自分がつけた名前、レッテル~たとえば、「怒り」や「悲しみ」、あるいは、「いつもの私の自己嫌悪」「犠牲者意識がまた出てきた」などなども、外します。

すると、身体に巣食う、不定形のエネルギーというか、ヴァイブレーションの塊のようなものが残ります。これが中身です。次にやるのは、

2、「貪欲に味わう」

文字通り、このヴァイブレーションの塊を、隅から隅まで、奥の奥まで、貪欲に味わいます。

「貪るように」味わうことで、「こんな感覚を抱くなんて、いけないこと」「私にはふさわしくない」と、また蓋をして抑圧したくなる気持ちを、積極的に晴らすんです。

子供が泥遊びしているのに似ているかもしれません。最初は抵抗があるかもしれない。服を汚したら、叱られる・・・などなど、ただ、一旦泥だらけになってしまったら、もうストップがききません。タブーを破った時特有の解放感が押し寄せてきます。

ちょうどそんな具合に、不快は不快なままでも、「生きてる~」「今、ここにいる~」という喜びが突き上げてくるかもしれません。

そうやって夢中に、貪るように感じれば感じるほど、

逆に、静かな、静かな、その一部始終を見守ってる、静かな静かなまなざしに、自分がすっぽり包まれて、一部始終を見守ってもらっている・・・そんな感じがしてくるかもしれません。貪欲に感じている私も、この静けさにつつまれています。

これが純粋な気づき、スピリットです

それが感じられてくると、少しずつ、次のプロセスに移ります

3、「明け渡すこと」

この静かな存在に、今自分が貪るように感じているものを、

「これ、お願いね」と、明け渡していくのです。

誰に? というと、答えにくいです。言葉で言うと、純粋な気づき、スピリット、本当の私ってことになりますが、現場ではそんなことあまり考えていないですね。とにかく、「お願いします!」と、渡してしままいます。このヴァイブレーションの塊が強烈で、圧倒されそうな時は、「助けて!」と、心の中で叫ぶときもあります。

どんな形であれ、そこにあるものを、全て、明け渡してしまえればいいんです。

多分、それぞれ、いろんな体験なさると思うのですが、参考までに、2から3へと移行するときに、私がいつも感じるイメージをシェアさせてください。

2の「貪欲に味わう」時点で、私はこのヴァイヴレーションの塊そのものなのですが、

それが徐々に、自分はこのヴァイブレーションの塊をかかえた、

器にすぎないように思われてきます。

最初は、この器の底に、このヴァイブレーションの塊が接してる感じで、この接点を通して、不快感がまだ自分の方に伝わってきます。

でも、だんだん、この塊が、ぽっかり浮いて、器との接点がなくなります。器の中にまだいるのかな?って感じです。

と同時に、私=器は、どんどん薄くなって、消えていきます。

後に残るのは、ただ、気づきの海です。

その時私は、この海に、ヴァイブレーションの塊を明け渡したわけです。

以上は私がいつもやっている方法。みなさんそれぞれ、経験を重ねながら、自分の方法を、開拓していかれるのが一番だと思います。

いずれにしろ、「自分でやらない」というのは、多分、どなたの場合も、共通するポイントだと思います。

ホテルに泊まっているときに、部屋の掃除をルームサービスにおまかせしてると、帰ってきたときには、きれいになってるのに似て、自分でやることではないのですね。

自力でやろうとしたり、プロセスをコントロールしようとすると、エゴが出てしまって、うまくいきません。

ただ、ホテルの例とちょっと違うのは、いつきれいになるかどうかも、こちらには、わからないところです。

いつか、気づいてみると・・・いつのまにか、楽になってる!

という具合に進みます。

これに対して、「今か今か・・・」と待ち受けて、「全然、期待通りに変わらないじゃない!」とぼやくのは、エゴですが(笑)。

というわけで、癒しのタイミングについていえるのは、

春になると雪が溶けて、芽が出たり、花が咲くように、

こちらではあずかりしれない、適切な時期があるんだろう、それも含めて、純粋な気づき、本当の私におまかせしよう・・・と、鷹揚に構えているのが一番。

気づいてみると、いつのまにかなくなっていて、

身体がひとまわり軽く、柔軟になって、気づきとしてのあなたの受け皿に相応しいものになっているのに、ある日気づくかもしれません!

気づいてみると・・・というふうに、変化を感じられるようになるのが、コツです。

というわけで、いい意味で忘れてしまってください。すべてを、本当のあなたに、まかせきり、ゆだねきり、信頼しきって・・・

赤ちゃんが、お母さんの胸に抱かれて安心しているような、信頼し、まかせ、ゆだねきった関係を、本当のあなた、純粋な気づき、スピリット・・・との間に培うことができれば、癒しのプロセス、本当に速やかになります。そういう意味では、赤ちゃんになってください。

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