非二元のエッセンス

太陽のように、照らすだけの存在でいる〜気づきの一体感についてもう少し

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というわけで、結局、どんな体験内容も、全ては気づきへと溶けていくことで、

全ては気づきでできていることがわかり、二元性のない世界へ突入しますが、

その前に、過渡的な段階として「私は体験内容ではない、それに気づいている気づきである」というネガポジ反転の段階💜→💟、二元性ののこる段階を踏んでいるかどうかが、決定的に重要なんですね。

それを踏まえない一体感、身体に基づく(だから、相手が特定の形や、位置にあることを前提とする一体感j)は、特別性を含んだ一体感なので、相手がこれ以上自分の期待に沿ってくれなくなる苦しみ、喪失の苦しみが、影のようにつきまとい、遅かれ早かれ、いつか表面に浮上してきます。

気づきの一体感はこれに対して、いつも晴れやかで、自由です。いつもこちらでいましょう。そして両者を混同しないようにしましょう。

雪まつりの雪の彫像を水という素材にみんな戻すことで感じられる一体感

という比喩を使いましたが、ピンと来なかった人もいるかもしれません。

そういう方のために、ルパートさんもよく使う、太陽の比喩で、同じこと、お話しさせてください。

宇宙に、たった一つの太陽しかないとします。

そんな太陽は、どのようにして、自分自身を認識できるでしょうか?

もちろん、鏡もありませんから、太陽に太陽は見えません。

太陽としては、ただ、全てを照らしながら、ああ、私が照らしてる、照らしてる・・・と自覚的に照らすしかありませんよね。

そうすることで、自分を「すべてを明るく照らし、見えるようにする存在」として、認識できるというわけです。

ちょうどこんなふうに、純粋な気づきとしての私たちは、自分を客体として、捉えることできないんですね。

太陽に話をもどしましょう。

自分は誰だろうと思っても、何も見えないし、つかめない、その客体のなさに、耐えられなくて、

太陽も、自分の照らしているもの、星でも、木々でも、人々でも、何でもいいのですが、

何か客体として見えるものを自分と混同したい誘惑にかられるかもしれません。

たとえば、何か特別美しい物が見えるので、「それが私だ!」と思い込んだりするかもしれません。

これはちょっとありえない話かもしれませんが、

気づきである私たちが、自分の体験内容と自分を混同するのって、

それと同じように、奇妙なところがあるのですよ。

というのも、気づきとしての私たちは、この太陽のような存在だからです。

たとえば、

何かと自分を一つに感じていて、これがないと、私は生きていけない! と思うとき。

あるいは、「私は不快だ!」 

と、あたかも「私=不快」であるかのように振る舞うときがそうです。

不快感≠私。つまり、不快感は、私ではなく、

私が照らし、知られ、気づかれるようにしているものにすぎません。

気づきとしての私にとっては、

私≠思考 私≠感情 私≠身体 

私の思考も、感情も、身体感覚も、

太陽がものを星や木々や人々を照らして、見えるようにしているように、

それらを照らし、知られ、気づかれるようにしてるにすぎません。

というわけで、私は「不快な感覚」に気づいている存在だ

とネガポジ反転💜→💟して、気づきの側に立つことにしましょう。

太陽がただ、照らすものとしての自分に気づいているように。

ただ本当に、純粋な気づきの側に立って、

体験内容との混同を100%断ち切って、

あなたの思考、あなたの感情、あなたの身体の感覚も、

外に見えるものと同じように観察対象にすることができると同時に、

気づき特有のやさしさで、ジャッジメントなしに、ありのままであることをゆるしながらも、それに気づいていると、

体験内容の形が溶けて、気づきに戻って行きます。

するとすべてが、気づきでできているという意味で、

私=思考=感情=身体=世界

不快感はそのままで愛(気づき)からできていたことに気づく瞬間

喧騒の只中に安らぎ(気づき)を感じる瞬間です。

すべてがありのままであるのをゆるすことで、逆に何にも影響を受けない強さを見出す瞬間です!

それが、気づきの中の一体感です。

太陽の比喩でいえば、太陽が照らすもの、たとえば星や木々や人々が、すべて、元はと言えば自分からできてるのに気づくってことですね。

このあたりから、太陽の比喩は使えなくなりますが・・・

ただ、この段階に来る前に、太陽は自分は照らす働きであり、自分に照らされた星や木々や人々ではないんだって、はっきりさせて置く必要があるというわけです。

そうしてはじめて、形を超え、あらゆる限定を超えた、自分自身の、そして、周りのものの実質に迫れるわけですから。

ルドルフ・クラーゲスというドイツの哲学者は、『宇宙生成的エロス』という本の中で、「遠い愛」について語っています。一言で言えば、それは、愛する人を手放しながら、愛し続ける力のようなものです。

愛する人のそばにいることだけでなく、自分を愛してくれるように、自分の期待を満たしてくれるようにと、コントロールするのを諦め、その人がただ、ありのままであることをゆるしたときに、逆に強く感じられる一体感です。

この力が増すと、あなたは、遠くにいる、その愛する人だけでなく、宇宙全体と、一つになる。気づきの一体性と通底するものだと思います。

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