非二元のエッセンス

一体感といってもいろいろある

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体験から、体験に気づいている気づきを抽出して、その気づきの側に自分がいる

たとえば、「私は不快だ」と思っている時も、私=不快なのではない。私は、不快感に気づいている存在だってことをはっきりさせること。

そんな具合に、はっきりと、気づきとしての自分と体験の内容を区別して、過渡的な段階として二元論をくぐることは、

その後にくる一体感が、子供や動物が既に知っている、自・他未分化なことからくる、ちょっと退行的な一体感とは違うことをはっきりさせるためにも、大切です。

というのも、ひとえに、一体感といっても、いろいろあるからです。

たとえば、お母さんのおっぱいを呑む、生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の身体と、お母さんのおっぱいを区別していません。隣の赤ちゃんが泣きだすと、自分もつられて泣き出すと言うふうに、自他の区別が、はっきりしません。

これも、一体感といえば、一体感ですね。

ただ、成長するにつれて、自分はおっぱいではなかった。おっぱいはお母さんのものだった、隣の赤ちゃんと自分は違うんだ・・・と、自分を周りの環境から切り離して捉えるようになります。

この分離のプロセスが終わった時、

自他をスパッと切り離す境界線になるのは、

身体の皮膚の内と外ですよね(とはいえそれは概念としてあるだけで、後で実験でたしかめるように、直接体験されることの中には、本当は存在しないのですが)。

身体の内にあるのが自分、外にあるのは、世界という具合に、すぱっと分けるようになります。

つまり、おっぱいを自分の延長だと考えていた赤ちゃんがいる「私=身体=世界」から、

世界だけ、切り離し、

「私=身体」対「世界」という対立図式を、生きるようになります。

人と切り離され、脆弱で、時と共に朽ちていく身体を自分だと思いながら、

世界は、自分と分離していて、自分の外にあるって思うのは、かなり辛い、そして不安なことです。

孤独と不安、不全感や欠如感にさいなまれるのは、避けられません。

このちっぽけな私をなんとか守らなきゃ、補強しなきゃ、強く、特別に見せなきゃと、忙しくもなりますよね。

一言で言えば、エゴと呼ばれる、あらゆる心の働きが生まれます。

それで、不安を一掃するために、世界をコントロールしたりなど始めるわけです。

それが大人になるプロセスだと、世間的には言われています。

それは結構苦しいことなので、子供時代はよかったな・・・と、失われた子供時代の一体感に郷愁を感じたり、そこに戻ろうとしたりします。ロマン派的な衝動には、そういうところ、ありますね。

失われた、自他未分化の一体感への郷愁をいろんなところに投影して、

たとえば、鯨やイルカなどの動物たちや、

先住民の生活などを理想化したり、

そんなふうに生きたいな・・・とヒッピー的なライフスタイルを始めたりする人もいるかもしれません。

でもこの本の中で提唱している一体感は、それと似てはいるものの、ちょっと違うものです。

この自他分離のプロセスが始まる以前に戻るというより、

分離をとことん推し進めた後に見つかるものだからです。

私はおっぱいではなく、ゆりかごでもなく、他の赤ちゃんでもない・・・

つまり、世界(皮膚の境界線の外にあると思われるもの)ではない、

というだけではなく、

私は、身体(皮膚の境界線の内にあると思われるもの)でもない

私は、自分が抱いているように見える感情でもなければ、思考でもない・・・

そうやって、それまで自分だと思っていたものを、対象化して、自分の外に見る。

この分離のプロセスを徹底させて、

形あるものを、一切、自分ではないと切り離した後、

私は、それらに気づいている気づきである!

というふうに、持っていくのです。

こうすることで、

あなたは、あなたの全ての体験内容と自分を混同することから免れます。

そして、自分の思考や感情や身体の感覚さえも、自分の外に見る

観察者の位置に立ちます!

それが本当にできると、純粋な気づきだけが残りますよね。

それがあなた。あなたは、純粋な気づきです。

ここでもう一度おさらいすると、

「私=身体=世界」   

という赤ちゃんの一体感は、次第に、大人の

「私=身体」 対 「世界」  

という対立図式にとって変わったのですが、今やそれが、

「私=気づき」 対 「思考・感情・身体・世界」 

になったというわけです。

それまで、自分の一部だって思われていた、思考や感情や身体も、世界の中にある物と全く同じように、観察対象、「気づかれるもの」として、気づく私の外にあるものとみなされます。

といっても、ここで、「対」という言葉を使うのは、語弊がある、というか、ちょっとおかしいんですね。

というのも、本当に

私=気づき 

になれて、自分の思考や感情や身体感覚も、観察対象として、一旦外にみれるようになったらわかることですが、

そんな「私=気づき」は、あらゆる思い、感情、身体感覚、世界の知覚も、みんな平等にかくまう空っぽの空間だからです。

気づきはそこで、これらの体験と「対立」するどころか、それらがありのままであることを完全にゆるし、それらと緊密に一つです。

にもかかわらず、それらが今とっている形から、影響を受けることは一切、ありません。

私が拠点にしている北海道には雪まつりがあります。雪や氷でありとあらゆるものが作れるのに、毎年、驚かされます。その中には、鬼のように、一見怖いものも、あります。

特定の形をとっている、私たちの体験(思考・感情・身体感覚・世界の知覚)は、

雪まつりの雪像のようなところがあります。

これに対して、気づきは水のようなもの。つまり、すべての雪像の素材です。

体験にしっかり気づいて、気づきで浸すとき、私たちはいわば、雪像を、水にプカプカ浮かべているわけですね。

どんなおそろしい形相の雪像をそこに浮かべても、水は水であることに変わりはありません。

そういう意味で、影響を受けることはありません。

ちょうどそんなふうに、気づきは、何があっても、体験の内容にかかわらず、安らかです! 

他方で、どんな雪像も、水でできています。

水の中に雪像を浮かべれば、雪像が水に溶けていくプロセス、加速化しますよね。これとちょうど同じように、体験にしっかりと気づいていると、体験が気づきに戻るプロセスが加速化して、安らかな状態に戻りやすくなるわけです。

雪像が水の中で、水にもどるように、体験にしっかり気づいていることで、気づきというその素材に戻った時、全ては気づきだという意味で、

私=思考=感情=身体=世界

だということがわかります。

もちろん、「形」を見ている限り、

つまり雪像を、すべて水でできていると見るのではなく、仁王像や法隆寺などなど、その像が表しているものと見ている限り、気づきとしての私はそれらと、一体になることはできません。

私≠思考 私≠感情 私≠身体 私≠世界

そうやって、体験内容と、気づきとしてのあなたをはっきり区別することで、

あなたは、純粋な気づきでいれます!

その状態で、また全てを眺め直すと、

今度は、全ての「素材」が見えます。

つまり、み~んな、同じ気づきからできているのがわかる。

形は依然としてそこにあっても、さまざまなランプシェードを通して、たった一つの光が輝いているように、気づきが輝いているのが見えます。

そしてその光は、私である気づきと一つに輝きます。

そんなふうに、全てがこの光に包まれて、気づきというその素材の中に溶け入りながら感じられるとき、

私=思考=感情=身体=世界

だって言えるんですね!

これも、素晴らしい一体の体験になります。

別の言葉で言えば、その瞬間、あなたは自分が全てのものの中にいるのに気づくというわけです。

では、実際に、どう生きていけば良いのか、まとめましょう。

人やものが今、とっている特定の「形」こだわり、それが自分の期待通りだとか、期待通りではないとか、ジャッジの対象、愛憎の対象にしているのに気づいたら、

その全てを自分から切り離し、観察者としてのあなたに徹する必要があります。

つまり、私は純粋な気づき

今、目の前にあるこの「形」から、いろんな連想や記憶、思考、感情をかきたてられているけれど、

それはみんな、私ではない。

要するに、

私≠思考 私≠感情 私≠身体 私≠世界

だって、はっきりさせて、

あなたは、観察者に徹します。

外にあるように見えるものを観察するだけではなく、自分の内にあるように思われる思考や感情やものの見方、身体の反応など全て、観察対象にしてしまう、徹底的な観察者です。

そうすると、純粋な観照者、純粋な気づきとしてのあなたが、残りますね。

このプロセスがうまくいけば、

その「形」を超えて、「素材」、「質」、あるいは存在の中で、全てとつながっているのがわかります。落ち着き、安らぐ、一体感です。

逆に言えば、誰かや何かが、今、とっている特定の「形」をまったく度外視して、

それに別に反感も好感も持たず、コースの言葉を使えば「特別性」抜きに、

一緒にいる幸せ、一体感を感じられているときは、大丈夫。

あなたは気づきの一体感の中にいます。

これまで、思考や感情がとっている特定の「形」を、気づきに溶かす方法を、お話ししてきましたが、

そんなふうに、全てがあなた(=気づき)でできていることを確かめることで、

この一体感を感じられるように、お誘いしていたわけです。

これまで、思考や感情を、気づきに溶かす方法を、お話ししてきましたが、

そんなふうに、全てがあなた(=気づき)でできていることを確かめることで、

この一体感を感じられるように、お誘いしていたわけです。

今取り組んでいるのは、身体感覚ですが、

身体感覚も気づきでできていることがわかり、溶けてそこに戻っていくことがわかると、

内面的な活動のほぼ全てを、気づきに溶かし、気づきから受け取り直すことができるようになりますね!

後は、外にある世界として知覚されるもの〜目にするものや耳にするもの、匂いとして感じられるもの、触感として感じられるものが残りますが、

これも、そこに介在する思考、思い込みをゆるめ、ラベルを剥がしていくことで、

気づきに溶かし、気づきから受け取り直すこと、できます!

そうすれば、気づきとしての私が、思考するという形をとったら思考として現れるし、

見る、聞く、触る、匂いを嗅ぐ・・・といった知覚することという形をとったら、

世界として現れるにすぎないことが、わかります。

つまり体験する全て、一切合切が、元をただせば、気づきでできてる。

夢全体が、夢見る意識でできていて、夢見ることをやめると、夢の内容全体が消えてしまうように、

人生という夢の全体を夢見る、この意識こそが私。そして、すべてが、この私でできていることがわかるのです。

全ての中に、純粋な気づきとしての私を見て、その私(=全てを)愛する、

しっとり系の自己愛の世界です。

それは、素晴らしい一体感の体験になりますが、

それは、赤ちゃんが感じていた自他未分化の一体感とは、かなり、質の異なる一体感です。

全てを気づきに戻す一体感は、

雪まつりの雪像のたとえで言えば、すべてが溶けると、同じ一つの水だったってわかる。

そんな一体感だからです。

これに対して、子供や動物が、周りの環境と一つに溶け合う一体感は、

雪像が雪像の形をとったまま、くっついているようなところがあります。

自分も人も身体として見ているのですね。

つまり、特定の位置ににあり、特定の形をとる

二つの身体が、一つにつながる一体感です。

たとえば、お母さんのおっぱいを吸いながら、安心してまどろむ子供にとって、

おっぱいは、自分の延長。自分とおっぱいを区別していないかもしれません。

でも、お母さんがふと、その子を置いてどこかに行ってしまったのに気づくと、

この一体感が壊れて、泣き始めます。

お母さんのおっぱいと自分が、どこに位置するかに依存した一体感だったというわけです。

これを、身体に基づく一体感と呼ぶことにしましょう。

これに対して、すべての体験を、気づきというその共通の素材に戻すことによる一体感、

純粋な気づきをともにすることからくる一体感は、状況に依存することはありません。

だって、気づきは、お母さんのおっぱいの中にも、

お母さんのおっぱいの不在の中にも、

自分の中にも、同じように充満しているからです。

何があっても、気づきの一体感は、揺らぐことはありません。

とはいえ、私も含め、この道を行くほとんどの人たちは、一挙にそこに行くというより、徐々に向かいますよね。だから、一体感に関しても、身体に基づく一体感から、気づきに基づく一体感を幸せの根拠にすることへの、過渡的な段階にある場合がほとんどだと思います。

人生のさまざまなレッスンが、この道を歩むのを、加速化させてくれます! 特に別離の体験はそうですね。

お母さんのおっぱいはもういらないとしても、

たとえば、最愛の人との別れは辛いです。

その辛い感情の根底には、文字通り、「身を裂かれるような」身体感覚、あります。

その分、この一体感は、身体に根ざしてたこと、わかりますね。

そんなときこそ、気づきの側に、しっかり足を踏ん張って、居続けてください!

そうすれば、辛いその体験内容に我を忘れることは、ありませんよね。

身を裂かれるようなこの感覚がありのままであることをゆるし、受け入れながらも、

同時に、それに気づいている、観察者の側にいるのが自分だってところだけは、はっきりさせていてください。

そうしているうちに、この辛さは、辛さなりに、愛の表れとして、いい味を出して感じられてきて、気づきの中へと、溶け始めます!

それにつれて、最愛の人と、身体的にそばにいるのとはまた別の一体感が感じられるのに気づくでしょう。

それは、私も、遠くにいる最愛の人も、

気づきと言うこの共通の存在を分かち合っていて、その中で、すでに一つであることからくる一体感です。

この共通の存在を通して、物理的には失われたように思えた遠くにいる最愛の人とも、

つながっていることが、実際にわかるからです。

理想論でも、抽象的な思考でもなく、実際に心に慰めが満ちてきます!

気づきの中でのこの一体感は、身体に基づくものではないので、それぞれの居場所、つまり、ロケーションに依存していません。私の身体が、そして相手の身体がどこにいようと、感じられる一体感です。死別していても感じられる一体感です。

つまり、揺るぎない、永遠の一体感。この中にいるほど、安心することはない、そんな一体感です。失われることは、決してないのですから!

と同時に、この一体感は、最愛の人だけでなく、他の全ての生きとし生けるものにも拡張していく一体感です。この拡張がどんどん進んで、全てのものとの一体感が優位になるにつれ、

そのそもそもの引き金をなした「最愛の人」は、逆に、必要があれば、楽に、手放せるようになります。

気づきの一体感の中で、最愛の人とつながることは、その人をいつか失う時のための予行練習にもなるのですね。

そんなふうに、完全に素材に戻り、純化された、気づきとしての「私」が、包み込み、一体化する対象は、

無差別で、相手を選びません。

たとえば、あなたの最愛の人を、本当にこの気づきの一体感で愛することができたら、それは、他の全ての人やものを愛することとでもあるんですね。

純粋な気づき、全てが分かち合っている、共通の存在の実質であり、素材。それを通して、目の前のたった一人の人とつながることは、全てのものと、つながることでもあるからです。

相手を失う前、一緒にいるときも、

その人との関係性を、身体に基づく一体感から、気づきに基づく一体感へと変容させておくと、

いいこと、たくさんあります。

すでにお話ししたように喪失の準備になるだけでなく、

たとえば、喧嘩、トラブル、言い争いになりそうな時に、力を発揮します。

形の違いを度外視しながら、一体感を維持できるようになるからです。

というのも、気づき=私でいるとき、

私の思考、私の感情、私の身体感覚と思われていたものは、

「素材」の上では、もちろんみんな気づきでできているので、私と一体ですが、

「形」の上では、全て私の外にある観察対象になります。つまり、

私≠思考 私≠感情 私≠身体感覚

私のものではない、非個人的なものになります。

と同時に、自分の意見、自分のポリシー、自分のセンス、感性に固執する気持ちが、全く失せてしまいます。だって、もはや、自分のものとは、感じられないからです。それが正しい、それが優れてる主張したり、そのことに自分のプライドやメンツがかかっているような思いも、全くなくなります。

それらは、相手の意見、相手のポリシー、相手のセンス、相手の感性と全く同じように、平等に、私である純粋な気づきの中に浮かんでいるからです。

だから、状況の必要に応じて、どちらをとっても、自分としては全く構わないのですね。

つまり、誰かと争いの種になること、めっきり減ります。

しかも、そうやって、気づきでいる時、その気づきを、私は相手と共有しています。

そこにフォーカスすると、ただ一体感があるばかり。

相手と自分の意見やポリシーやセンスや感性が、天と地ほど違っていても、

そうした形の違いを一切、補ってあまりある一体感です。

相手が何をしていようと、自分のことをどう思っていようと、

この気づきの一体感の中で、その人を捉えると、

まったく変わりなく、一体感の中で安らうことができるようになるんですね。

前にクリアリングや二人組セッションがエゴからくる思い、

形を過大評価することからくる反発や愛着、特別性を癒し、クリアにしていく方法をお話ししましたが、

その時に使われていた全てをクリアにする「消しゴム」の正体も、この純粋な気づきです。

そこでは、「分かち合われた存在」という言葉を使っていたと思いますが、同じものです。

気づき=私でいることが多くなるにつれ、自分の思考に対するオーナーシップの感覚、つまり、この思いは自分のものだって感覚が、だんだん薄れていきます。だってそれは、他の人の思考と全く平等に、気づきの中に浮かんでいるからです。

エゴからくる思考は、自分のものであれ、他の人によるものであれ、集合意識や条件づけの所産にすぎないものとしてみえてきます。たとえば、今の時代の日本人として、こういう教育を受け、こんな体験を重ねてきた結果、どうしても、こう考えてしまうのよね・・・・といった具合。そんなふうに考えられると、自分や人を不必要に責めることもなくなるし、ゆるしやすくなるし、自分のものだったら、手放しやすくなります。

気づきに溶かしながら、新たに受け取り直したばかり・・・

気づきと親和性の高い思いに関しては、何か預かり物をしているような感覚で、大切に扱うようになります。

それは私のように、思考のお仕事をしている人にとっては、とってもとっても楽なことです。

たとえば、今も私はいろんなアイデア、思考をここでお伝えしていますが、

それが自分の思考だって感覚、ほとんどありません。

むしろ、自分に管理を託されている何か公共のものを、

できる限りわかりやすく、リレーでバトンでも渡すように、他の人に渡している

そんな感覚で、仕事しています。

思ったように伝わらなかったりすることも、しょっちゅうですが、

ああ、管理の仕方、手渡し方が、ちょっとまずかったかな・・・

とは思っても、私自身が否定されるような気持ちになることは、ほとんどなくなりました。

ただ逆に、自分の思考について、責任を持つようになります。だって、それをどう扱うかは、単なる個人的な問題ではなくなりますから。

これは多分、感情や感性の領域でも同じだと思います。

私のパートナーは、アーティストですが、私が彼から一番学んだのは、

自分の感性を、単なる自分の感性だと考えない態度、一種の公共財として扱う態度です。

どんなに気まぐれで、逸脱した思いつきに見えても、大切にスケッチして、保存します。だって、公共財ですから! 

ただ、その時点では、萌芽にすぎないものを、大切に育み、育てあげたり、相応しい形でシェアする責任は、背負うんですね。

話を戻しましょう。気づきの一体感の中にいると、どれほど楽かについて、お話ししていたのでした。

相手を問わず、また相手の言動にも左右されない一体感・・・・

この気づきの一体感を別の言葉で言えば、二元性を知らないってことですね。

自分を身体と同一視した上で、相手の身体と一つに溶け合う身体に基づく一体感の中にいる人は、二元性から免れません。

たとえば先程の赤ちゃんは、お母さんのおっぱいとは一体化できるかもしれませんが、それがどこかへいくと、泣き出すかもしれません。

また、他のものは、恐れや嫌悪の対象と見なすかもしれません。

実際、身体に基づく一体感は、強烈に感じられれば感じられるほど、苦しむことも多くなります。

たとえば私は自然が好きで、動物や植物や、さまざまな場所に、愛着というか、身体に基づく一体感をたっぷり感じるタイプです。高度経済成長期の中で育ったので、大好きな林が、木が切られたり、野が焼かれたりするのを目の当たりにして、身の切られるような思いを何度も繰り返してきました。都会を離れて、田舎暮らしを始めたのも、どんな場所にも愛着を持つのを許さないような、再開発のスピードについていけなかったからです。自然保護運動に関わったこともありますが、どんどん入ってくる自然破壊のニュースにノイローゼになりそうでした。

ただ、非二元を学び始め、気づきの一体感の中で、身体がその輪郭を失い消えていくような体験を繰り返してから、愛するものを喪失することで感じられるショックが、だんだん、薄らいでくるようになりました。

もちろん今も、自然破壊に反対ですし、必要だと思われる時には行動もとります。

ただ、その際に、ヒステリックで切羽詰まった感情にさいなまれることは、もうなくなりましたし、長い目、広い視野で、全体を見る余裕も出てきました。

形を超えたところに、生命を見れるようになったからです。

形に、身体に基づく一体感を幸福の基盤にしていると、

愛する対象を失う不安のほかに、自分の身体を失う恐れにもつきまとわれます。

身体は、傷ついたり、消滅することを、免れないからです。

身体にはそもそも、個体として、他のものから切り離されていること、

有限の存在であることからくる孤立や不安も、染みついています。

気づきに基づく一体感は、、こうした区別を一切せずに、すべて、包みこみます。

空がすべてを包み込むように!

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