奇跡のコース

愛の海に浸り、特別性を癒す

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真の愛の中で、特別性を癒す

私たちは全ての人と、存在を互いに分ちあってる。
だから、この存在の中にいることができれば、誰といる時も、この存在の中で、一緒に安らげるお話をしました。それは、その人の中の、揺るぎない強さ、完璧さを見ることであり、そうすることで、私たちも、自分の強さ、完璧さの中に、安らぐことができるというわけです。

マザー・テレサは、修道女たちに、自分たちが助ける相手を、貧しい人とも、病人とも見ると、激務に負けて、バーンアウトするのは避けられない。相手をキリストと見なさい・・・と説いたといいます。それは、この安らぎの中に居続けなさいってことだったんですね。つまりこのやり方で、彼女たちは、激務を乗り切っていたわけです。

ここでは、もう一つ、誰かと、その存在を分かち合うことの持つ、素晴らしい側面についてお話ししましょう。この存在は、感情には愛として体験されることです。存在を分かち合うことで私たちはその人とたった一つの愛の中にいて、本当の意味で、愛し合うことができます。

ただ、この愛は、相手の違いを知らない愛です。

普通私たちは、誰かが、あるいは、何かが、たとえば、優しいから、美しいから、面白いから、賢いから、ゆたかだから・・・つまり他と違って「特別」だから、愛そうとしますよね。つまり、対象が取っている特定の「かたち」を愛でているわけです。

でもこの手の愛は、長続きしません。なぜなら、「かたち」そのものの中に、私たちを幸せにしてくれる幸福の源泉はないからです。幸福の源泉は、「かたち」を通して現れる存在の輝きの中にあります。

こんなふうに言ってもいいかもしれません。誰かがやさしかったり、美しかったり、ユーモラスなので、「この人を愛してる!」と思う時、
あなたが本当に愛しているのは、
その人のやさしさや美しさやユーモアさというより、
そのやさしさや美しさやユーモアを通して輝きでる、存在の光なのですね。

人をランプにたとえれば、
その人が愛おしいのは、ランプシェードの「かたち」がすばらしいからというより、
その内側から輝き出る光が、私自身の内側から輝き出る光と一つに溶け合って、たった一つの愛として輝いているおかげなんです。

もちろんこの存在の光は、その人のあらゆる「かたち」(ランプシェード」)を通して輝き出て、
それらの特性を素敵で、愛すべきものに見せます! 
それ自体、すばらしいことですよね!

ただ、問題なのは、その後、この愛の原因が、分かち合われたこの存在の光にあることを、
私たちはしばしば忘れてしまうことです。
そして、「かたち」の方に、愛の原因があるって、信じてしまうことです。

それが、誰かが、あるいは何かが、たとえば、優しいから、美しいから、面白いから、賢いから、ゆたかだから・・・つまり他と違って「特別」だから、愛しているって、信じ込んでいる状態です。

これを、奇跡のコースでは、「特別性」の問題と呼んでいます。
かたちを過大評価して、そこに、愛の原因があるって信じ込むことです。

それは、あるランプシェードが、あまりに立派だったり、美しかったりするので、それ自体に、ランプを輝かす力があるって、信じ込むような、エラーですね。

でも、このエラーを正してくれる、とてもシンプルな実験があるので、ちょっと紹介させてください。ルパート・スパイラさんに習ったものです。

特別性を突破するための実験

目をつぶって、大好きな人を思い浮かべてください。
その人と自分が、ともに同じ空気の中に身を浸しているように、
同じ存在、同じ愛の中にすっぽり包まれていることを感じてみましょう。
だんだん安らいでくると思います。あなたとこうして一つでいれるこの愛の中が、私の我が家。

そう思えてきたら、今度は、その人の隣に、一番嫌いな人、苦手な人を思い浮かべてください。

その上で、その人が、その隣にあなたが思い浮かべている愛する人と全く同じ愛の中にいて、その二人と、あなたが、それをシェアしている様子を感じられるでしょうか? 

その二人が全く同じ、一つの愛の中にいて、そしてその愛を、あなたともシェアしている様子が実感できるまで、ただただ、愛の中、分かち合われたこの存在の中に、安らぎながら、二人を眺め続けてください。

大嫌いな人、苦手な人が、大好きな人と同じ愛の中に包まれている様子をイメージするのは、
初めは結構大変。というか、心理的な抵抗が湧くと思います。
この抵抗こそが、まさに、「特別性」からできているのですね!
つまり、かたちを、そして、かたちの違いを過大評価して、
私たち全てが共有してる存在の光を見えなくしているわけです。

でも、もしこの存在の光の方を、しっかり見ることができたら、
好きな人も嫌いな人も、そして自分自身も、同じ光に浸されていることがわかります! 

この光を、ルパートさんはよく、私たちの人生という映画が映し出される「スクリーン」に喩えています。スクリーンは映画の内容に関わらず、いつも真っ白で、安らぎと愛に満ちています。たとえ、どんな人、どんな出来事を前にしても、そこに本当にあるのは、このスクリーンだけ。

人生というこの映画の内容として現れるものにではなく、この映画全体がそこに映し出されるこのスクリーンそのものと合流することにだけに、幸せを求めるようにすると、アップダウンは少なくなると思います。

だからといって、それぞれの違いがなくなるわけではありません!
ランプシェードは依然として、元のままのかたちをとどめているかもしれません。
ただ、光に透けて、度外視できるほどになる、
あるいは、それぞれの、独特のいい味を出しているように見えてくるんですね。つまり欠点は欠点のままで、可愛らしく、愛おしく、感じられてくるわけです。

そうやって、特別性を消すことで、嫌いな方の人との人間関係が良くなるのはもちろんですが、
好きな方の人との関係も、よくなります。「私を幸せにして!」といった脅迫的な期待や、
これからも、自分を幸せにしてくれる特性を持ち続けるように、
相手をコントロールする気持ちが消えるからです。

抵抗と探索の行動パターンを癒す

このヴァリエーションとして、私が良くやるのは、
たとえば、どこかに行きたいとか、何か新しいことを始めたいとか、別の人たちと一緒に暮らしたいと思った時に、
すかさず、たとえば、行きたい場所と、去りたい場所とか、
始めたいことと、止めたいこと、
一緒にいたい人たちと、今一緒にいる人たちを思い浮かべて、
両者が、全く同じに見えるまで、共通の分かち合われた存在の中に安らぐ実験です。

そうやって、両者を比べることで、どこにいても、何をしていても、
この存在の中に安らいでいるという点では、全く同じなんだってことをはっきりさせるんですね。
そうすると、特別性、「かたち」に対する過剰な期待が、消えます。
「かたち」そのものが消えるわけではないのですが、
それに、「私を幸せにして!」と、頼って、しがみつく感じが消えるわけです。
でも、「かたち」には、私たちを本当の意味で幸せにしてくれる力はありません。
だから、原理的にできないことを、「やれ!」と迫っているのと同じなんですね(笑)。

これに対して、私たちを本当の意味で幸せにしてくれる、存在の光は、どんな「かたち」を通そうと、いつも同じように輝いてます。ということで、まずは、その中に、すっぽり浸ってしまおうというわけです。!

「今、ここ」のありのままに、不足を見て、
それが「いつか、どこか」で、叶うと信じて、行動し続ける様子を、
私は、「抵抗と探索のパターン」と呼んできました。
私たちのエゴを形作る、この活動のパターンを抜け出るためにも、
この実験は、抜群の効き目を発揮します。

抵抗の対象と、探索の先にあるものが、全く同じだとすれば、やる価値、なくなりますものね!

ただ、ここで忘れちゃいけないのは、
私たちが、どこかに行きたいとか、何か新しいことを始めたいとか、別の人たちと一緒に暮らしたいと思った時、
その100パーセントが、エゴの抵抗と探索のパターンの支配下にあるとは、限らないからです。

本当の私からの促し、インスピレーションとして、それがやりたいのかもしれません!

ただ、今自分が感じている促しが、どちらから来ているのか、迷うことってありますよね。

この実験は、重宝するって、私がつくづく思っているのは、それが、エゴの声を一掃して、本当の私の声を識別してくれるようにしてくれることです。特別性が去り、抵抗と探索が去った後、そこにあるのは、ただ、本当の私だからです。

だから、実験が終わって、今ここのありのままの自分の状態と、自分が促されていることをやっている状態が、全く同じなんだって、感じられた後、
私が必ずやっているのは、
その後で、自分がまだそれをしたいかどうかをもう一度、確かめることです。

それが、単にエゴからくる抵抗と探索の所産であれば、その時点でやる気は全て失せているはず。
だから、この時点で、それでもなお、そうしたい気持ちが残っていれば、それは、本当の私からの促し、インスピレーションです!

たとえば、そうすることで、誰か、そして自分を助けることができるのかもしれません。新しい、素晴らしい出会いが待っているのかもしれません。私自身、しつこく抱きつづけてきたエゴの思い癖を自覚して手放すためのレッスンが待っているのかもしれません。

本当の私からのインスピレーションに従った時待ち受けているのは、大体、その混合状態ですね!


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