神、天使、スピット、ハイヤーセルフ、大いなる存在、純粋な気づき、ジョン・スミス(?)などなど、名前は何でもいいので、
しっとり系の自己愛の担い手、しっとり系の自己愛しか知らない本当の自分
この世界から、影響を受けることは、
呼び名をつけて、自分を空っぽにして、
私は何もわかっていませんと素直に認め、
自分の思考、知覚、感覚を全て明け渡し、
と、すべて明け渡し、
あなたの目で見せてください
と祈ることを、おすすめしました。
でも、リア王を自分だと思ってるジョン・スミスも、
本当はジョン・スミスであることには変わりがありません。
そういう意味では、どんな言葉で呼びかけようと、自分自身なわけで、
まるで別人のように呼びかけること自体、矛盾を含んでいるわけですが
この時点では、全く別人のように感じられるので、仕方ないですよね!
それに、まだ、リア王の世界を現実だと少しでも思ったり、リア王を自分だと思ってる限り、
つまり、この世界の中で自分が担っている心身を本当の自分だと思い続け、
この世界のストーリーの中で、影響を受けて、たとえば幸福になったり、悲劇の主人公になったりし得ると思ってる限り、
この時点で、「自分は神だ」と思うのは狂気の沙汰(笑)。
逆に、この世界の一切合切を明け渡す道を塞いでしまいます。
それに、名付けることで、対話も始めやすくなるというのもありますね!
実際、この存在に対して、絶えず呼びかけて、たとえば、
「このやり方で今、私はやろうとしてる。でも、それでいいのかしら? あなたはどう見えるの? 教えて!」と、
心を開いて、問いかける癖をつけただけで、
「私にはわかってる! 正しいのは私! だから私のやり方でやらせて」という専横的な思い癖は、
いい具合に緩んでいきます。
そうやって立ち止まり、問いかけては、心を鎮め、聞き耳をたてる。そして、安らぎがじわっと心に沁みてくるのを待つ・・・そんな習慣をつけるにつれて、人生がやさしさと、安らぎに満たされてくるのに、気づくことになるかもしれません。
周りの人や、出来事がやさしくなったって感じることが多いのですが、実はあなたがやさしくなったからなのです。
*
ただ、こうした内的な対話や、祈りの中で、
そうやって、安らぎに心が満たされ、
大きな私に合流した感触があったら、
そこから発する安らぎに身をまかせ、
全て忘れてください。
この世界のことも、そして、この存在を、あなたが、何という名前で呼んでいたかも。
安らぎの、忘却の作用まかせて、忘れてしまってください。
というのも、そこで次第に感じられてきた本当のあなたに、あなたがどんな名前で呼びかけていたにせよ、
その名前は、忘れるためにあるからです。
だって、「あなたの目で、すべてを見せてください」という祈りが実現した瞬間、
その「あなた」は、私と面と向かっているのではなくて、私の中にいて、私の目で見る主体になっていますから。
建物の中に入ると、建物は見えなくなりますよね。
これと同じように、その「外」にいると思いこんでいる限り、
自分の外にあるものとして、名指しで呼ぶことができます。
でも中に入ると、それと視点が一つになるので、もう見ることも、指差すこともできません。
建物と一体化した私の視点が、そこにあるばかりです。
ここが、二元の祈りと、非二元の祈りが、袂を分かつところだと言えるかもしれません。
祈りの対象が、名づけれるような存在、自分と分離した存在として残っている間は、そこに二元性があります。
非二元の祈りが、聞き届けられ、成功した兆候は、
祈りを捧げる相手から、客体性(自分の外にある性質)が失われることです。
この客体性のゼロ値、二つのものがない状態を、
言葉にすることはできません。
だって、そこでは、思考やイメージが、すべて消失していくところなのですから。
ただただ、一体感により、絶対の安心、安らぎがある場所
それは、本当に、言葉にしようがない。
言葉にすると、そこに分裂が生じ、特別なものと、そうではないものの分離が生じ、
探索が始まり、苦悩の中に逆戻りしてしまいます。
たとえば、「神」と言うと、
どうしても、「神」という特別なものがあり、
「神と一つ」であるという特別な意識状態がある。
でも、今の私はそれが体験できない惨めな状態にある(抵抗)
だから、頑張って、神とともにある、特別な意識状態に到達するんだ(探索)
というモードに入りやすくなってしまいます。
「神はどこ?」ってまるで、自分の「今、ここ」の外にそれがあるように探しまってしまうかもしれません。
逆に、この探索モードを完全に解除しない限り、見つからないのが、「神」であり、私たちの本来の姿なのですね。
だから、あえて言葉にすれば、「なんだ、それは、自分自身だった」とと気づくとしか、
いいようがありません。
リア王の世界から出れなくなった、ジョン・スミスの例えで言えば、
ある日、「な~んだ、自分はジョン・スミスだった」とはっきりと思い出すということです。
その瞬間、これまでは「神」のように見えた「ジョン・スミス」の記憶は、
実は、本当の自分に他ならなかったことがわかるし、
それまで天国のように感じられた、記憶の中のジョン・スミスが住う場所は、
実のところわが家に過ぎなかったこともわかるわけです。
そのときはもう、「神」、その他、どんな呼び名も必要はなくなります。
そんなふうに、祈りの相手は、出発点で、存在するのは構わないし、不可避だともいえる。
でも、終着点では、自分と一体化して、そのたびごとに、忘れ去られるというのが、
正しい道を歩んでる証拠になるのではないかと思ってます。
*
たとえば、キリスト教の背景があって、非二元には惹かれるけれど、「神」に呼びかける習慣は手放し難いという方におすすめなのは、二元性が崩れざるを得ない形で、神に呼びかけ、祈る方法です。
先程からおすすめしている「あなたの目で見せてください」というのもその一例です。
あるいは、ルパートさんが、イタリアのある修道士が口ずさんでいているのをみたことがあるという
「神よ。あなたは、あなたに向ける私の愛です」という祈りも、参考になるかもしれません。
これも、その場で、二元性を解消させてくれます。
神を愛する私の心の中に、神がいる・・・そんなふうに、絶えず、自分の中に立ち戻り、
「神」と言う言葉で前提としてる対象性、客体性、特別性が消えて行くからです。
そうするうちに、あなたの内側に愛が、太陽のように、自律した存在として、自分自身を愛する愛そのものとして感じられるようになったら、
どうぞ、その招きに応じて、安らいでください。