アートとしての人生

「私にはわかってる!」と思うのも、愛に対する抵抗 〜 その解除には、祈りが効く!

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存在のゆたかさを受け取ることに対して、どんなふうに、抵抗するかは、さまざま

そのパターン別に、それを、ちょうど、ほぐしていくように働きかける方法、ご提案させていただいていました。

たとえば、「今、ここ」にある幸せとか、愛とか、美しさなどの受け取りを拒否する形で、抵抗が出ている状況では、感謝の念が効くし、

自分に対して、厳しくて、セルフ・ジャッジメントが止まない場合は、自愛の習慣が効くお話をしました。

と同時に、習慣を徐々に矯正するアプローチは、
飛行機で言えば、滑走路を走る部分。
離陸点、つまり、しっとり系の自己愛がここから始まる地点に近づくことはできますが、
その先は、こつこつ努力を積み上げることとは、別のプラスα、一種の跳躍が必要になる話もしました。

習慣を変えようとする努力は、心がなすものですが、
存在のゆたかさは、心をこえたところにあるからです。

存在のゆたかさを受け取ることに対する、
ここで、もう一つ付け加えさせてください。
「私にはわかってる、だから私のやり方でやらせて」と思うことです。
私自身は、この抵抗が、一番根深くて、解くのに一番苦労したものです(笑)

そのどこが悪いの? と思われるかもしれませんね。

身近に見られる例からお話ししましょう。
たとえば、何にかけても、「私が、一番わかっている。だから、私のやり方でやらせて」という態度でいる人、自分はいつも正しいと思っている人と、暮らし始めると、結構きついですよね。その人の流儀に全て合わせて、いかなければならなくなります。

「私にはわかっている」態度は、対話を拒絶します。そしてその拒絶の背後には、表には出ないものの、攻撃性がたくさん含まれているんです。

どこからくる攻撃性でしょう? 私の場合、心を見つめて、最初に気づいたのは、
幼児期に由来すると思うのですが、話を聞いてもらえない、言い分が通らないことに対するものすごい怒りが、秘められましたね。

すかさず、抑圧から解いて、気づきの側に立って、しっかり感じていくと、
怒りの下から悲しみが現れ、
悲しみの下から、愛されたい、一体になりたいというやけつくような気持ちが現れました。
それも、じっくり、やさしく、気づきですっぽり包み込んでいるうちに、その中へ溶けていって、
後には、「な〜んだ、もうすでに、愛されてるし、愛してる、ここにすべてがある。戦略、間違ってたんだ。わかってもらう必要なんて、全然なかったんだ」ってことに気付いて、しばらく、大笑いしたものです。

その後は、「正しい私の言い分を聞いてちょうだい!」みたいな切羽詰まった感じは、消えてしまいました。

もちろんそのことにかけては、自分には、たくさん経験があるから、それを役立てたいという気持ちからなされる、「私にやらせて!」は、別です。

そういう、「私にやらせて」は、今も、ありますね。

欠如感からくる「私にはわかっているの」と、そうではないものの区別の仕方は、またしても、身体感覚です。欠如感からくる場合は、切羽詰まって、何かにしがみつくような感じがともないます。「正しいのは私」「私が権威なの」といった、正当性の争い、権力闘争めいたところもあります。

実際、何かの専門家だと、専門家というか、「先生」の態度が、板についてしまって、
専門領域を超えて、何にかけても、自分が一番知っているという態度で、接しがちです。
私自身もそうでした(笑)が、そういう場合は、欠如感から来ている場合、多いですね。

実際、私が会った、本当のすぐれた研究者、専門家は、とてもとても謙虚な人でした。私が大学時代にお世話になった哲学の先生など、「教育が成功するってのは、学生がわかった気になることにあるんじゃない。全くわからないと思うことにあるんだよ」といつも言ってました! 謎や、驚異を感じる感覚を、育てようとしていらっしゃるのが、伝わってきました。

これに対して、

これは、大学も研究も専門も関係ない日常茶飯の出来事ですが、

たとえば、男の家族が、たまに台所に立って、料理しようとしたりすると、時々、私の目からすると、とんでもないって思われることを、したりします。

「せっかく、質のいい、新鮮な食材を手に入れたのに、こんなことをすると、台無しになってしまう!」といったことですね(笑)。そのたびに、お説教したくなってしまう。

そこには、欠如感満タンの「私にはわかってる」が、隠れている場合、多いです。「台所は私の管轄、ここでは私が権威」って言いたいわけですから(笑)。

話を戻しましょう。「私にはわかっている、だから私のやり方でやらせて」が、
存在のゆたかさを受け取ることに対する抵抗だという話でした。

人間関係では、対話の拒絶の形であらわれますが、
この拒絶の相手は、他にも、考えられるんですね。

たとえば、本当のあなたとの対話も途絶えてしまいます。

小さなあなたから大きなあなたへ
分離した心身こそ自分だと思っているエゴとしてのあなたから、純粋な気づきとしてのあなたへと
アイデンティティの引っ越しが済むにつれて、

古いあなたが知っていたことは、全て、例外なく全て、リアリティを失っていきます。
「そんなの当然でしょ、わかってるわ」「私には私のやり方がある」とこれまで思っていたことが、どんどん揺るがされていきます。

「私にはわかってる」という態度に、いつまで固執し続けるのは、
そのプロセスを妨げることになってしまいます。つまり、まぎれもない抵抗になるんですね。

アイデンティティのこのお引っ越しを速やかに進めるには、だから、
「私は何にもわかってない」「知らないんだ」ってことを、謙虚に認める必要があるんです。

そして、不断に、「私には何もわかっていないの、教えて」と、

この本当の私、純粋な気づき、スピリットに向き直り、対話に対してオープンになれると、心強いです。

私の話を聞いてくださったり、書いたものを読んでくださった方の感想でよくあるものに、
「私にはわからない」というのがあります(笑)。
そこに込められたニュアンスは、さまざまですが、
私自身、究極的には、「わからない」と思うのって、全然悪くない、とてもいいことじゃないかって、思ってます(笑)。

結局、本当の私たち、「純粋な気づき」、スピリットの働きは、私たちエゴには、はかりしれない、わからないものだからです。

逆に「わかる」ときは、エゴが、全体のプロセスを乗っ取っている可能性があります。

などと言うと、このブログの中では、すでに、私がお話ししてきたこは、全て「わかる」ためのものではなかったの? という返事が返ってきそうですが、
「わかる」ことも、結局は、体験のための跳躍台にすぎない。それくらいの距離感でいてくださると、ありがたいです。

そこに書かれていることを踏み台にして、実際に跳んで、自分で体験してみないと、意味はないのですよ。楽譜が、演奏されるまで意味がないのと同じような意味で、です。

というのも、「わかる」のは、心ですが、
その本当の内容は、心を超えたところにあるからです。

だから、いくら「わかった」と思っても、実際に体験してみると、
全く予想と違うことが多いです。そして、まさにそれが、成功してる印なんですね。

「こんなものだ」って、あらかじめイメージ持たないほうがいいです。
むしろ、わからない、教えてください・・・みたいな、未知に向かって開かれた態度でいるほうが、うまくいきます。

普段の生活の中でも、
「私にはわかってる」「私は知っている」と思ってる部分を手放して
「私には何もわからない」という状態をキープすることができると、
本当のあなたへのアイデンティティのお引っ越しも、速やかになります。

目の前の誰かを、どうしてもジャッジしたくなってうずうずしてきたときなど、
一瞬でいいので立ち止まって、「私には何にもわかっていない」かもしれない、
そう思う習慣をつけられると、いいかもしれません。

たとえば、私はもう子供じゃないのに、いつまでも、自分のことを心配してばかりいる親に、辟易したとします。
そんなとき、あえて、親は、本当にうるさい人なのか? 
そもそも、本当に心配しているのか? 
私は自分の思い込みを見てるだけじゃないか?などなど。

そうやって、「本当のところ、私はここで何が起こっているのかわかってないんじゃないか?」という空白を、
常に保持するようにするんです。

私には「さっぱりわからない、教えてください」という態度でいつもいると、
その空っぽの部分を、気づきが満たしてくれるようになります。

その空っぽの分からなさの中に、
安らぎとか、感謝とか、全体がユーモラスに見えてくる感じなど、
「これはどうみても普段の私から来たのではないぞ!」みたいな心の動きが流れ込んできたら、
大切にされるといいと思います。本当のあなたからの便りであるかのせい、高いからです。

たとえば、「ダメ出しする親に私はもう辟易してる!」と思っていた場合、
アイデンティティが、大きなあなた、本当のあなたへとお引っ越しをすませるにつれ、
親の背後に、大きな大きな愛が見えてくる可能性があります。
ただ、とても苦労してきたこれまでの人生でついてしまった条件付けから、
たとえば、あなたのことをあれこれと心配する形でしか、表せないのかもしれません。

とはいえ、ここで重要なのは、そこで得られた理解そのものではありません。だってそれも、あなたの条件付けを通って得られた理解にすぎませんし。

ただ、その内容はともあれ、「わかった」と思った瞬間、感じられる一体感、これは、本当のあなたからの便りですから、大切にしてください!

すでに、愛が見えてきたあなたに重要なのは、その愛と合流して、感謝の中で、一体感を感じることだけ。

ランプの灯が強く光り始めると、ランプシェードが透けて見えてきて、他の光と一つに輝き始めます。
それと同じように、相手の背後の愛が見えてくると、
小さな違いは、その光に透けて、気にならなくなるでしょう。

これについては、「二人組セッション」のところでお話しした通りです!
誰であれ、あなたの目の前の人と、一体であることを感じるための一番の鍵は、
「私にはこの人のことは、何にもわかってなかった」と、まっさらな状態になることでした。

存在のゆたかさ、純粋な気づき、スピリット、天使、守護霊・・・何と呼ばれていても、いいのですが、
自分が時々、対話したり、頼りにしたりしているものが、本当に、本当の自分かどうか、確かめてみる一番の方法は、人間関係に注目することだと思います。

もしそれが、真正なものであれば、それは、他のあらゆる人と共有しているものです。
だから、それとの関係が整い、深まり、そこに浸されれば浸されるほど、
人間関係も整っていきます。

アイデンティティの引っ越しを徹底させるのには、「明け渡し」が欠かせない

少し前のところで、ゆたかさを受け取れない抵抗に、感謝が効き目を発し、
自分を責めるくせには、自愛の習慣が、効き目を発するといいました。

では、「私にはわかってる。私のやり方で生きていくわ」という思い上がりに一番効くのは、何でしょう?

明け渡しと、祈りだと思います。
わかりません、助けてくださいと、自分を投げ出し、心を空っぽにして祈れることです。

「明け渡し」とか、「祈り」という言葉を聞いて、「何だか急に宗教っぽくなってきたんですけど・・・」とびっくりされた方もいらっしゃるかもしれません。時代遅れのもののようにも見えます。

でも、エゴから、大きな私へと、アイデンティティのお引っ越しを何としても済ませたい!
そう思っている人には、実は、ジェット機より効率よく、目的地に運んでくれる、最新テクノロジーのようなところ、あるんですよ。

この辺をはっきりさせるために、いくつか確認しておきたいことがあります。

私たちの心は、純粋な気づき、つまり本当の私たちでできています。
でも、私たちの心が、この純粋な気づきを捉えようとしてなす、あらゆる努力は、役にたたないことです。

この辺の事情は、先にお話しした、リア王を演じるジョン・スミスのたとえを使うと、わかりやすいです。

俳優ジョン・スミスは、家族関係にも恵まれ、幸せに暮らしていたのだけれど、ある日、リア王を演じた時、役にのめり込み過ぎて、リア王の世界から出れなくなってしまったお話しです。

これと全く同じように、この人生で、たまたま身に纏うことになったこの心身、たとえば、私は、堀田真紀子という心身をまとっていますが、「これが、自分!」と思い込んだときに生まれる心の活動がエゴです。

ただ、いくら自分をリア王だと思い込んでも、ジョン・スミスはジョン・スミスであり、他の人になることはできないという意味で、私たちはいつでも、純粋な気づきなのです。
ただそのことを忘れてしまってる。それだけが問題なのですね。これを非二元では、存在忘却とか、無知と呼んでいます。

とはいえ、エゴの「役柄」との同一化をゆるめて、本当の自分を思い出すのは、一仕事。

ジョン・スミスのたとえに話を戻すと、彼は、舞台を降りて、
平穏で、愛に溢れた日常生活に戻っても、
自分をリア王、悲劇の主人公とみなす妄想からなかなか抜け出せません。

時々、正気が少し戻ってくると、ジョン・スミスも「リア王」以外の人生が自分にもあることを思い出します。闇夜に一条の光がさすようなものです。

その状態は、リア王の世界に囚われている自分が今味わっている絶望的な状態からは
ほど遠いもののように感じられます。
そこで、地上と天国のように、二つの世界があるって考えたくなってしまいます。

でも実際には、天国、つまり、ジョン・スミスとしての生活は、すでに、ここにあるんです。
ただ、リア王が自分だって思っている視点からは、なかなか感じることができないだけなのです。

でも、時々おぼろげに思い出す、ジョン・スミスとしての自分の記憶を、
たとえば、「神」と呼んだりして、
そこから流れてくる微かな記憶をたよりに、
少しずつ自分のものの考え方や、生活の仕方を、
この記憶に一致するように、調整したり、再編成していきます。
要するに、スピリチュアルな修業がはじまるわけですね。

ジョン・スミスとしての記憶から吸引力のようなものも、生じてきます。
私たちのケースに当てはめれば、スピリチュアルな、体験ですね。たとえば、ハイヤーセルフ、天使、聖霊、守護霊・・・からの導きを感じる瞬間です。

といってもそれは、行きつ戻りつのプロセスで、
時々また、リア王の意識がぶりかえし、圧倒的になり、これまでの努力を一掃していくように見える時もあります。

あるいは、リア王の世界は問題でいっぱいですが、この世界の内部で、山積している問題を解決しさえすれば、
たとえば娘と仲直りしたり、もっといい王様になろうと、膨大な努力をはらえば、
いつかジョン・スミスの記憶として、時々自分が垣間見るものになれると誤解してしまうかもしれません。

でもそうした努力はすべて、「自分はリア王だ」という全ての前提にある幻想をますますリアルにしてしまうだけですよね! 

山積しているように見える問題からの出口はただ一つ。この問題もその中に含まれる、リア王の世界の一切合切が、夢だってことに気づくこと、それだけなんですね。

これと同じ間違いを私たちもよくやります。

エゴの視点からみた問題解決をいくらはかっても、エゴから覚め出ることはできません。逆に、エゴをますますリアルにしてしまうだけです。
この本の中でも、すでに、欠如を満たすために動き出すことで、欠如の信念は強化されて、ますます欠如が目につくようになるお話をしました。それも、この一例です。

スピリチュアルな癒しや達成が、どうしてこんなに困難で、稀に見えるのか、
その理由は煎じ詰めればとてもとても単純なことで、
小さな私(エゴ)は小さな私を癒せない!
ということに尽きます。
それはたとえて言えば、自分で自分の髪の毛を引っ張って、宙に浮かせる努力のようなものです。

リア王が、リア王の世界の中でどんなに頑張っても、ジョン・スミスにはなれません。その努力の自体が、彼がリア王であるという幻想を強める働きをしてしまうからです。
この絶望の底を極めない限り、すべて、紛い物のスピリチュアルだと思います。
幻想に発する苦悩を、別の幻想で慰めているだけだからです。
そうやって、幻想に幻想を固めることで、一時的な慰め、あるいは慰めの約束を与えるだけのもの。長期的には苦悩が強めれれてしまいます。

というわけで、ジョン・スミスは、リア王の世界で、リア王としての自分に山積する問題を解決しさえすれば、
自分が時々思い出す、ジョン・スミスの記憶、幸せの記憶に戻れると、勘違いして、
良き王でいようと努めたり、娘との関係を修復しようとしたり、自分なりに努力を続けています。

でも実際には、そうすることで、ますますリア王の世界をリアルにしてしまって、この夢から覚められない状態へと、自分を追いやっているのに気づきません。

ここからの抜け道は、明らかですね。

リア王の世界の全て、役柄、小道具、台詞の全てを、一切合切、きっぱりと、手放す必要があるということです。 

そうやって、完全にリア王の世界を去らないと、ジョン・スミスだったことを、思い出すことができないのです。その際、リア王の世界に属するものは、何一つ、持っていけないのです。

リア王の世界にまつわるものは、全て手放し、徹底的に空っぽになって、
「神」のように感じられる、ジョン・スミスとしての記憶へと、自分を明け渡す必要があるのです。

リア王としての自分が知っていることは、すべて、無効になる体験を経る必要があります。

「私は、何が正しいのか、全くわかりません」と素直に認めて、自分が「わかっている」と思ってきたこと全てを疑ってかかる必要があるというわけです。

本当の私になるために、小さな私、エゴに属するものは一つも持っていけないというのは、リア王のたとえよりも、夢の主人公のたとえばの方がわかりやすいかもしれません。

夢の中で、夢の主人公としての私は、夢全体を夢見る意識に至ろうとして、
そこからくる、体験内容によらない安らぎ、幸せを手に入れようとして、
あらゆることを試みています。
初めは、究極のものを手に入れようとするし、
もう少し成熟すると、究極の意識状態を手に入れようとしはじめるかもしれません。
そのために、聖地を訪れたり、山に籠ったり、いろんなことを試みます。
このストーリーの終局に、求めるものがあると、信じて・・・

でも、夢全体を夢見る意識は、夢のストーリーの中には決して現れません。
夢から覚め出るためには、夢全体に別れを告げる必要がある。

では何をしても無駄なのでしょうか? 「自分の本当の幸せのために、何をすればいいのか。「私には全くわかりません」と、ただ、降参しつづけるしかないのでしょうか?

宗教的な伝統の中で、神、仏、スピリットといった自分より大きなものに帰依して、
「私にはもうできません、あとはすべてお願いします」
それに、自分のすべてを明け渡す・・・
サレンダー、降伏とか、献身と呼ばれているものです。

明け渡す・・・というと、なんだかとても宗教的な感じがします。
信仰心の強い人たちの専売特許で、自分には縁がないと、私も思ってきました。

でも、本当の私に、本当に戻るためには、古い小さな私を文字通り、全て手放す必要があること。
この手放しの対象の中には、モノの見方、考え方、何が正しく、間違っているかについての基準、価値観などの、一切合切が含まれていることを痛感すればするほど、
どうしても、必要な方法なんだってことが、腑に落ちました!

リア王としての、エゴの意識、あるいは夢の主人公の意識を一掃するのに、
実は超効率的な方法なのですね。

古めかしく見えますが、実はとても効率のいい。ジェット機よりも速やかに、小さな私から大きな私へと、一瞬で運んでくれる、最短の道なんです。

前近代的な、時代遅れのもののように見えて、
実は、科学者のような精密さで意識を切り替えてくれるものだったんです!

逆戻りする道も封じ込む

エゴとしての自分は、何一つ知らない、わかっていないことを認めて、
とにかくその一切合切を明け渡す姿勢。
これが、どれほど助けになるか
それは、苦しんでいる時に、この苦しみに対する抵抗をゼロにすることが、
それ自体、エゴの根本的な生理に反するので、
とても難しいことをとことん味わったら、
わかります。

とりあえず、苦しみは抑圧せずに感じなければならないことはわかった、
でもそれは、苦しみを「除去」するために、必要なことだから・・・などというふうに、
微妙な形で、抵抗、というか、エゴのロジック、リア王の意識は忍び込んでくるからです。

気づきであることが、生活のほとんどを占めるようになっても、
分離した意識の闇に戻ってしまうこと、よくあります。
深い一体性の体験があればあるほど、
今の惨めな状態と、その時の自分の至福感とついつい比較してしまったり
焦りが出たり、惨めな気持ちになって、自分を責めはじめたりと、
どう考えても、分離した心身の側の意識、エゴの方に、心がさらわれてしまうことがあります。
つまり、ダメな現状を補うための、
「特別」な意識状態を求める抵抗と探索の罠にはまってしまうのですね。
気づきとしての私は、私の本性であり、真の姿を思い出すだけ、全然特別なものではないことは、重々わかっていても、そうなること、あります。

その中で、いくら、そこから出ようとしても、
そうした現状に対する抵抗感そのもの、つまりそこから出ようとすることそのものがエゴの側にあるので、
まるで、もがけばもがくほど落ちこんでいく蟻地獄にはまったような気がすることもあります。
私も、数え切れないほど、そんなことありました。きっとこれからもあるでしょう。

というわけで、エゴによる、抵抗と探索の癖が、どれほど根深いかを痛感すればするほど、
完全に自分を空っぽにして明け渡す全面降伏が欠かせないのも、見えてきます。自力でやろうとするあらゆることは無効なわけですから!

自分の全て、物の見方、考え方の枠、知っていることすべて
リア王の意識のすべてを、
自分より大きな存在に明け渡す必要があります。

そういうとき、私は、藁をもすがるように、「あなた」に呼びかけています。
闇の中の一条の光に目をこらすように、
夢のただ中で、目覚めの記憶をさぐるように。

助けてください、私には、何一つ、わかりません。
ここで何が起こっているのか、何をすべきなのかも、わかりません。

小さな私から大きな私、特別性の自己愛から、しっとり系の自己愛へ・・・
この旅路の中で、辛い体験があるとすれば、
すべて、何らかの形で、両者の間でどっちつかずの宙ぶらりんの状態のなることからきます。

後にした世界にはもう戻れないけれど、何らかの理由で、
小さな私の思い癖にとらわれてしまって、そこからも、抜け出れない。

でも、大きな私でいるときの、優しくて、楽な感じの味もしめているだけに、それとのコントラストから、自分の状態をとてもおぞましく感じてしまう。

そういうときには、自分の全てを投げ出して、

「私は何も知りません」
「あなたの視点で見せてください」

と祈れると、本当に強いです。

なりふりかまわず、藁をもすがるように、自分の全てを投げ出して「祈る」のは、
小さな私、リア王の意識で、見るもの、聞くもの、考えるものの一切合切を完全に捨てて、
ジョン・スミスとしての自分を思い出すために、必要なことなのです。

その際、何より重要なのは、

「私は何も知りません」「わかっていません」
だから「どうしていいかわかりません」

と、リア王としての、エゴとしての自分の今の意識の無効性を完全に、認めることです。
その上で、

ここに本当にあるものを見せてください。

と祈れたら、世界が一変します!

メルヘンの中で、よく、旅の鼻向けに、いつか役に立つだろうと贈り物をすることがありますよね。これが、私の皆さんの旅路への贈り物です。

非二元的祈りの本質

祈りと言っても、この世界願いを叶えてくださいという祈りではないんですね。

その手の祈りは、夢を、リア王の世界をリアルにするだけです。

そうではなくて、ジョン・スミスであることを思い出させてください。そして、ジョン・スミスの視点からのみ、振る舞わせてくださいと祈るわけです。

それは、ただ、

本当の自分、正気の自分に戻るための祈りです。

本当にそこにあるものだけをみるための祈りです。

欠如の信念からくるあらゆる幻想を見透かして、

「そこに本当にあるものだけを見せてください」と祈る祈りです。

つまり、あらゆる幻想を晴らして、とことんリアリストになるための祈りです。

ジョン・スミスはたとえに過ぎないし、純粋な気づきというと、抽象的で、今ひとつピンとこないという方は、夢を夢見る意識のことを考えて見られるのもいいかもしれません。

以前の記事でも、少し触れましたように、「奇跡のコース」によると、天国は、いい行いの結果、将来私たちが行くところなのではなく、今、ここに既に存在するものです。

私たちが求める一体感、理解、安らぎ、美など、全てが、今、ここに、すでに実在してる。というよろ、それこそ、本当に存在するもの。

なのに私たちはこの天国で、眠りこけて、悪い夢を見てる。人生はそういうものだって、考えるんですね。

究極の幸福、安らぎは、人生全体を夢見る意識に達して、

ああ、これは夢だったと覚め出るところにあります。

自分が夢見ていることを知らず、

夢の一部をなすに過ぎない、夢の登場人物の一人にすぎない「私」だけが自分だって思い込んでる時、私たちはエゴに囚われています。これが、本当は、天国にいるにもかかわらず、私たちに悪夢しか見えなくさせている張本人です

とはいえ、夢の中で、「これが私」と思い込んでるこの、人物も、

もとをただせば、夢全体を夢見る意識でできていますよね。その証拠に、夢から目覚めてみると、全て消滅しますものね!

この私、何でできているんだろう、どこからきたんだろうと、遡行すれば、夢見る意識にいたれるというわけです。

祈りと言っても、特定の願いを叶えてもらうための祈りではありません。

リア王が、リア王の世界の中で、知覚している問題を解決してもらうための祈りではないということです。

この手の祈りは、逆にこの世界をリアルにしてしまうので、

そこから覚め出ること、つまり自分はジョン・スミスだったって気づくことを、阻んでしまいます。

切羽詰まった願いがあって、それを叶えて欲しいという気持ちがどうしても拭えない時には、

「私には、自分に何が必要なのか、わかっていません。どうぞそれを教えてください」と祈ります。そしてその答えはいつも、自分が今、囚われている夢から覚め出ること。ジョン・スミスの意識に至ることです。

非二元的な祈りの本質は、そうやって、心身と同一化している、エゴの立場で見えること、考えていることを、徹頭徹尾一掃して、空っぽになっては、本当の私に、明け渡すこと、そして、この夢から覚めでた目で、すべてを見直すことにあると思っています。

通常の祈りの前提を崩していくことこそ、この祈りの目的だ・・・といってもいいかもしれません。

というのも、普通私たちが、祈るときには、「今、ここ」に「無い」と思っていることを、実現したいという欠如感が、前提にありますよね。

非二元的な祈りでは、この前提そのものが、癒されていくのです。

この祈りの前と後、外的には、何の変化もないことが、ほとんどです。

これこそ、一番すごい祈りだと思ってます。

祈りが実現して、信じられないようなことが起こっても、

たとえば、天地がひっくり返ったり、冬の雪景色が一変して、花咲く風景に変わったとしても、この祈りにはかないません。

というのも、祈りの結果、どんなに途方もないことが実現しても、祈りの前提になってる、望むべきものがここに「無い」、ここには何か「欠けている」ものがあると思う感覚自体は、癒されないからです。

奇跡のコースには、「祈りの歌」という美しい別冊があります。そこの言葉をかりると、

本当の祈りは、自分が何について祈っているかを、忘れてしまうことにある。

ってことですね。

祈りの実験

なんとなく気分がすぐれない時を捉えます。
まずは、なぜ気分がすぐれないかについて、考えてみてください。

たとえば、私は、軽い頭痛と疲労感があって、
こんなコンディションでは、何をやるにしろ、うまくいきっこないし、
やる気も起きないと思ってます。

なぜ、こんなことになったのか? まず、天気がひどすぎ。
それから、睡眠不足なこと。なぜ睡眠不足かというと、夜中に大声で寝言をいう人が隣にいたこと(笑)。
また、朝から、貸しているお家の住人の一人が、私が先週渡した光熱費の請求に間違いを見つけて、計算し直すように、言ってきたので、
苦手な細かい計算を朝から長い時間したせいで疲れたとも、思ってます。
一種の被害者意識さえありますね(笑)。

そんなふうに、その理由と思われることを、こんなふうに思いつくまま、一通りあげていくと、
「私ってまだまだ、ダメね」などと思いたくなるし、
その内容をいろいろ分析して、もっと深い心理的な理由を探りたいと思ったりしますよね。

でも、ここでは、そういうことは、全然、する必要ありません。
必要なのは、ただ、
この一切は、自分がたまたまこの世界で、今演じている役柄に関わることにすぎないことを、確認することだけです。

実際そうですよね。私の場合、本当にそうです!

次にもう一つ確認して欲しいのは、
今、「気分がすぐれない」と思って、そのためにいろんな人ことや人を責めてますが、
これもすべて、この役を自分だと思わないと、ありえないことだってことだってこと。

さっきの例でいえば、全て、リア王の世界の話なんです。

では、これを演じてる当人はどう思ってるでしょう? 
つまり、自分はリア王だと妄想しているジョン・スミスではなく、正気に戻ったジョン・スミス。リア王役は、たまたま自分が演じてる役にすぎないって、ちゃんと知ってるジョン・スミスです。

でも、「自分はリア王だ」という悲劇の主人公になりきってる視点からは、ジョン・スミスの幸せな生活は、想像もつきません。
リア王の世界に属することを全て忘れてしまう必要があります。

同じように、本当の私が、どんなものなのか、今の私の心からは、想像もつきません。
少しでも、心にその世界の要素を残している限り、そこへとアクセスできません!

だから「私ってまだまだ、ダメね」などとジャッジしたり、
その内容をいろいろ分析して、もっと深い心理的な理由を探ったりしても、この世界を長引かせるだけ。逆効果なんですね。
今の私を解放してくれるのは、この世界の外にあります。

この世界を、どんなにくまなく探しても、深く探っても、そこにあるものを適切に正しくジャッジしても、この中には、決して見つかりません。

というわけで、覚悟はついたでしょうか? この世界に属する一切合切を忘れて、空っぽになる覚悟です。

何もかも忘れて、この本当の私、ジョン・スミス、純粋な気づきに向かって
次のように祈ってみましょう。

「私は何も知りません。ただ、あなたの視点で見せてください」

どうでしょう?

この手の祈りは、必ず、叶えられます! 大言壮語しているのではありません。そうならざるを得ないからです。
というのも、思い出してください。リア王はすでに、ジョン・スミスだからです。誰か別の人になるんだったら、難しいかもしれませんが、自分が自分だってことを思い出すだけなんですよ。

それに、先程の
ジョン・スミスであることを思い出させてください。そして、ジョン・スミスの視点からのみ、振る舞わせてください
という祈りは、誰に向けて、祈っていたのでしょう?

ジョン・スミスに向けてですね! 自分自身に対して、何かをお願いして、聞き届けられないことがあるでしょうか? 他の人にお願いするんだったら、わかりませんけれど(笑)。

分離した心(リア王)は、純粋な気づき(ジョン・スミス)を決して捉えられない。でも、純粋な気づきからできている。このことを思い出しても、いいかもしれません。本当の幸せ、純粋な気づきを自力で捉えようとしてもうまくいかない。でも、そんな自分が何でできているか、どこから出てきたか、その起源、素材、なつかしいわが家に戻るための祈りなのです。それはすでに、ここにある。目隠しを取るだけ。だから、うまくいかないはずがないんです。

具体的にどう切り替えてくれるのでしょう?

たとえば、優秀で、しっかり者の兄弟といつも比較されて、
劣等感や無力感の中で、育ったという友達がいました。

たまに実家に戻って、家族と会うと、その古傷が疼いてきて、
母親が、緊急連絡先として、兄弟の連絡先は控えているのに、自分の連絡先は書いていないことなとなどに、動揺してしまいます。

私が彼女に言ったのは、実際、小さな私から大きな私へと、移行できるようになるにつれ、
全体が、事実はそのままにして、全然違うふうに感じられること。
そして、それは本当のあなたから来るものなので、
ある意味、すでに、今も、深いところで知っていらっしゃるはず

そちらに道を譲って、そちらが意識に浮上しやすくなるように、とりあえずは、
「私には本当のところは何もわかっていない」というオープンな態度でいると、いいってことです。

そういうふうに、「わからない」空っぽな状態にいることが、道をひらいてくれるんですね。

と同時に、大きな私の側から、全体を見直すことができると、どうなるか、
いくつかヒントも、言わせていただきました。

たとえば、「今、ここ」で直接体験できること以外、色あせていくことなどそうです。
実際、彼女の悩みのほとんどは、既に過去の話、
「今、ここ」のどこを探しても、見当たりません。
緊急連絡先として、自分の連絡先が書かれていなかったことに、「今」気づいたとしても、
過去からの思いを背負っていなければ、それが動揺の種になることはないはず。

もう一つヒントになるのは、全体だけを、見ていること。
たとえば、一人一人の心身には特徴があって、それぞれ向き不向きがあるけれど、そのこと自体、良くも悪くもありません。

たとえば、緊急連絡先にお母さんが兄弟の連絡先を書いたのは、
彼らの方が、そういうときの対処が、的確で、頼りになるから、要するに、自分よりその手のことに向いているから。だったらそうされるのがベストだって喜んでる。

そのこと自体は、自分自身や、兄弟の本当の価値とは、何の関係もないって知っているので、それが悩みの種になることはありません。

もちろん、そうされる母親の側にも、これまでのいろいろな記憶に基づく、条件付けがあるのかもしれません。
それはそれで、お母さんの本当の価値とは何の関係もないので、
笑って許していると思います。

そして、何より、この「本当の価値」、気づき、愛、大きな私・・・どの言葉を使ってもいいのですが、

それをみんなと分かち合っているのを喜んでるわけです。

祈りの実験 2

誰か、あるいは動物でもいいのですが、心配だったり、気がかりだったりする機会を捉えてください。

でも、本当のところ、その人の本当の姿を、自分は全く知らないという可能性に、身を開いてください。今、自分がそこに見ているものには、自分が投げかけた投影の分厚い雲に覆われているかもしれません。

そこで、目をつぶって、「その人の本当の姿を見せてください」と祈ってみましょう。

祈りの相手は、本当のあなた、一番自分にしっくりくる言葉で呼びかけてください。

様々な感情や、胸をキュッと締め付けるような身体感覚などが、出てくるかもしれません。

やさしく、気づきに包んであげてください。

その人の強さや光、完璧さが感じられてきたり、

自分との一体感が感じられてくるかもしれません。

少しでもそうした兆しが感じられたら、

それにに浸ってみてください。

だんだん、心配や気がかりが和らいできませんでしょうか?

誰か心配な人がいたり、誰かと人間関係がギクシャクしてきた感じがするたびに、

私はこの祈りをしていますが、その度に、

心配やストレスがごっそりと抜け落ちたり、

孤独感がなくなったりするのに気づきます。

その人の弱さではなく強さ、それも状況によらない、スピリットとしての強さが感じられてくるのですが、それと同時に、自分の中からも力が湧いてきます。

「ジョン・スミス」としての、本当の私たちは、一つにつながっています。

誰かの本当の姿を見ることは、自分の本当の姿を見ることと区別がつきません。

誰かと自分を比べて、どちらかが優れていて、もう一方はダメだとジャッジするのは、エゴ特有の働き方ですが、本当のあなたは、両方を同時に持ち上げることしかしません。逆に言えば、誰かと自分が同時に、素晴らしいと感じられてくるとき、あなたはそちらの側にいます。

知る必要がないというのは、安らぎそのもの!

ゆたかさを受け取ることに対する抵抗の中でも、
「私にはわかっている」と、心を閉ざす癖が、私の場合、一番強かったです。

だからこそ、「私は何も知らない」と認めるたびに、
さ〜っとすごい勢いで、浄化されていくのを身に染みて感じるようになりました。
なんとも言えない爽快感です。

と同時に、安堵の喜びも感じられるようになりました。

このよろこびを、言葉でいうのは難しいです。謙遜と自信がまざりあってます。強いて言えば、

「私は何も知る必要はない。あなたが、全てを知っているから」

「あなた」というのは、ジョン・スミスの意識ですが、
その「あなた」は、私の中にあり、いつも私と共にいる。
失われることは絶対にない。
だから、そこにゆだねきっていれば、大丈夫という感覚ですね。

「私には、何一つわかっていません。教えてください」と、祈るたびに、
この安堵の悦びが感じられるようになってから、つくづく思うようになったことがあります。

「何でも、知っていなければならない」というのが、どれほど、重荷だったかです!
教師として、実際、専門に関わることは、何でも知っていなければならない立場にあったわけですけれどね(笑)。

心身を自分と思っているエゴの意識、リア王の意識は、本当の意味で、本当に実在するもの、リアリティを知ることはできません。

それにもかかわらず、自分は知らなければならない、知っているんだと言い張りながら、生きるのは、矛盾を抱えたこと。耐え難い重荷です。よくぞこんな立場に、何十年も耐えてきたものだと、自分自身を褒めてあげたくなるくらいです(笑)。

でも、今は、自分には、何もわからないこと、そして、知る必要もないことを知っています。それは、何て楽なこと、安堵させてくれることでしょう!

「私は知らない」と思うことから、この安堵の喜びが、少しでも感じられるようになったら、積極的に、

「私は何も知らない」という空っぽな感じと、
「でも大丈夫、あなたが知っているから」という満たされた感じが、
交錯しながら、共存してる・・・・
そのせめぎあうところで、日々を送ってみてください。

すばらしい体験が待っています!