アートとしての人生

自己愛を、対処療法に終わらせないために必要なこと

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私自身もそうですし、私がこれまで、ご縁があって、お話を聞かせてもらったりした方で、一番多いのは、

自分を責めたり、過小評価する癖がついていて、

存在のゆたかさが受け取れないケースでした。

そういうときに、即効性があるなと思ったのは、自分自身を無条件に愛し抜くこと。

自己卑下を謙遜の徳の現れとして尊ぶ日本文化の中にいる私たちには、

難しく感じられるかもしれませんが、

欠如の信念に対して、素晴らしい効き目を発します。

それでも抵抗のある方は、こう考えて見られるといいかもしれません。

私たちをナルシシストにしたり、自惚れ屋にする自愛は、条件付きの愛で私たちを愛するときだけなのです。美しいから、賢いから、頑張ってるから、素晴らしい人や家族やものに囲まれているから、「そんな私、好き!」という愛だけです。

これに対して、「役立たずで、失敗ばかりで、叱られてばかり、スタイルも容姿も、いまいち」あるいは、「取り返しのつかないようなこと」まで、してしまった。

それでも、自分を愛してる、無限に愛している・・・・

そんな無条件の愛で、自分を愛しきる愛は、

鏡の中でポーズをとるような、形のあなたをすり抜けて、

ただ、あなたの存在をゆたかにするだけ。

ナルシシスティックな自惚れとは、何の関係もありません!

というわけで、自分を責めてるのに気づくたび、

疲れたと思うたびに、

「愛しているよ、愛してるよ」と自分に愛を注いでみてください。

たとえば、「こんなに怠け者の私はダメだ」といった、反論が湧いてきたら、

「まさにそこがいいんだ!」と、そんな自分に、また愛を注ぐ。

そうやって、自分の太ったところも、それにもかかわらず、ついつい甘いものに手が伸びてしまうところも、いつも叱られているところにも、まんべんなく、同じように、愛をそそいでください。

そして、傷ついたところに、よく効く薬がしみ込んでいくように、その愛が作用しているのを確かめてみてください。

馬鹿みたいに感じられますが、私が一番お勧めしたいワークの一つです。

自分を責めているからこそ、人も責めずにはいられないこと、

自分をどれだけ深く愛せるかが、人や人生を愛する力の基礎体力になることにも、気づかれると思います。

ただ、ここまでだと、話半分にすぎません。ここでおわってしまうと、エゴの痛みに、絆創膏を当てて、対処療法を施しただけで終わってしまいます。

というのも、分離した心身こそ自分と思うあなたの部分、エゴは、いつも欠如を、不足感を、傷を抱えています。

エゴでいると、この欠如感が高まるばかり、時々、耐えがたくなるものですが、

自愛の習慣のおかげで、そこに、一種の痛み止めが与えられるというわけです。

痛み止めで痛みが止まっても、病巣がなくなったわけではありませんから、しばらくすると、また痛み出します。

それをただ繰り返すばかりの連鎖に陥ってしまう可能性があるんですね。


では、そうならないためにはどうすればいいのでしょう?

心の痛みを抱えていても、その一番痛むところに、愛を注ぎこむ自愛が

ピークに達して、

痛みを抱えた自分をジャッジメントを一切知らない、無条件の愛で、すっぽり包み込むことができたときをねらいます。

その瞬間、

痛みを抱え、愛で包まれている側から、

愛で包んでいる側へと、自己感覚を、徐々に移していってください。

ネガポジ反転するのに似ています💜→💟

私は、このちっちゃなエゴちゃんの側にいるのではなくて

この子を無条件で、無限の愛で包む、果てしない存在だって、はっきりと、感じてください。

そして、この自己感覚の中に、しばらく浸って、安らいでください。

そんなふうに、この本当のあなたを十分に満喫した後、

今度は、もう一度、あなたが抱きしめている、欠如の痛みを抱えたエゴちゃんを振り返って見てください。

何かリアリティのあるものがそこにあるでしょうか?

エゴちゃんの言い分を聞いてあげてください?

真に受けることができます? 子供の愚痴みたいに聞こえませんか?

今のあなたの状態や条件付けによって、さまざまな体験をされると思います。

たとえば私がよく体験したのは、

大袈裟な身振りで演技している俳優のイメージです。

いつまでも、この俳優になりきって、たとえば、犠牲者や、悲劇のヒロインを演じ続けること、やろうと思えばできます。

それも面白いかもしれない・・・・

でも、何だか馬鹿馬鹿しいし、こんな疲れること、もういいわ・・・そんな感じですね。

あるいは、もっとリアリティが失われていくと、

誰もいない、自動仕掛けの人形みたいなものが、ただ、同じポーズを何度も繰り返してたり、

壊れたスピーカーが、エンドレスに、同じ言葉を再生するのをやめられないイメージが、よく見えました。

シュールレアリズム系などのアート作品に、よく人形や機械のイメージが出てくるのがなぜかわかった気がしました。離れる前、エゴって、そんなふうに感じられるんです。

ただ、それは、イメージの一例。そんなイメージを含んだ、体験をしなければならないというわけではないので、安心してください。

エゴって、本当の私たちである、気づきの無限の海の、ほんの一部についた、妙な癖。

条件づけられたままに、哀れなほど忠実に、機械的に動く、妙な癖にすぎないという洞察が

そのときに訪れるというだけなんですね。

それは、どんな体験、どんなイメージを持たれる場合にも、共通していることだと思います。

どんなイメージが感じられても、自愛の姿勢を崩さずに、愛情深く見つめ続ければ、静かにあなた自身である気づきの海の中へと溶けていきます。

自愛の姿勢を崩さないわけですから、そこに、ジャッジメント、批判、嫌なモノを除去したいという姿勢が入る余地はありません。あるのは、愛ばかり。この愛だけが、癒しのプロセスをすすめてくれます。

エゴちゃんの置き土産として、胸や、みぞおちのあたりに、きゅっと締め付けるような身体感覚が残ることがあります。

身体感覚があるとどうしても、そこに私があるように、感じがちですよね。

でもそうしてしまうと、心身と同一視することになり、エゴが戻ってきてしまいます。

そこを、あえて、

「私である気づきの海の中に、他のさまざまな思考や知覚と同じように、身体感覚が浮かんでいる」と、

やはり、ネガポジ反転するように💜→💟感じ続けることができれば、

この置き土産が悪さをすることはありません! 

というわけで、

自分自身を無条件に愛するって、即効性のあるセラピーになると思うけれど、対処療法で終わらせたり、

エゴに痛み止めを与えることで、逆にエゴを永続化させる罠にハマらないためには、その都度、

1、本当の自分がどこにあるかを確認すること

2、そこから、エゴには、何のリアリティもないことをしっかり見届けること

この2つのプロセスをしっかり踏むのが、欠かせません。

つまり、何を自分と見るかという、アイデンティティのお引っ越しを済ませる

と同時に、旧い自分のお弔い、お葬式もできると、万全です。

ルパートさんの言葉を借りれば、

むずがる子供を、なだめて寝入らせるだけではなく(また起きて泣き出すのは、時間の問題)、

その子供が、よろこんで死んでいくところまでいかないと、

根治に至るセラピーとしては、機能しないというわけです。

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