アートとしての人生

感謝の念は、ゆたかさの受取り拒否を解除する

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「あなたは、幸せであること、ゆたかであることを恐れていませんか?」 などというと、「そんなこと絶対ないわ」という人がほとんどだと思います。

でも、心を探ると、これが結構見つかること、多いんですよ。

たとえば、褒められた時、「いいえ」と言いながら、自分を卑下する習慣として、それはあらわれることあります。日本では謙遜が美徳とされていて、自慢はタブー。その集合意識から来ているから仕方がないと言えば、それまでですが。

でも、褒められているときに、「いいえ」と言いたくなった時、心の中を観察してみてください。

身体感覚に根ざした、不快感がそこに見つかったら、欠如感からくるものです。

同じ「いいえ」でも、伝統を重んじる心や、社交辞令的な思いやりなど、

愛から、この言葉が出ている時は、この不快感は、見つからないと思います。

そういう場合は、心の訂正は、特に必要ないので、大丈夫です!

ただ、たとえば、私の場合、そんなときには、心臓から鳩尾あたりに、ざわざわとした特大の身体感覚がよく見つかったものです。そして、それが、「私はダメなの、私はダメなの」と大合唱してるように感じられることさえありました(笑)。

そんな時にはあえて、騒ぎ立ててるこの感覚を、やさしく、愛情深く、なだめながら、

「いいえ」の代わりに、あえて、

「ありがとう」って、にっこり笑いながら言うことにしています!

「ありがとう」という言葉には、ゆたかであること、幸せであることに対する受取拒否を瞬時に解除する魔法の力、ありますよね。「いただきました」ってことですから。

ブレーネ・ブラウンさんが、著書のDaring Greatlyで話されてる受取拒否はもっとドラマチックです。幸せの絶頂にいるときに、それに耐えられなくなって、急に、最悪のことが起こったときのことを心配する癖です。

たとえば、愛しい子供の寝顔を見ながら、愛情に圧倒された瞬間、この子が死んだらどうしようと心配になったり、

家族との楽しい遠出の最中、その楽しさがピークに達した後、交通事故にあったらどうしようと心配しだしたり・・・

私は子供がいないので、直接追体験することはできませんが、

幸せに耐えきれなくて、そこから逃げようと、防衛や探索を始める心の動きはわかります。

たとえば、働きすぎで、家族とゆっくりする時間がない人、いますよね。

無意識のうちに、「今、ここ」での、幸せの受取拒否をしていないでしょうか?

「今、ここ」で、愛する家族と、本当に幸せになるのが怖くて、

「いつか、どこか」で、家族が貧困にうちひしがれないように、

あるいは、お金持ちになって楽ができるように・・・といった防衛や探索の方に

逃げてるのかもしれません。

* 

幸せであること、ゆたかであること、愛そのものの中にいることに対する、

この手の受取拒否の背景には、自分には、不幸がふさわしいの・・・といった、自己評価の低さ、つまり無価値観が隠れていますね。

今、ここで、幸せや、愛にひたるより、

心配なところ、気がかりなことを、どうにかしたい!って

この無価値観を防衛するための探索が始まってしまいます。

そんなわけで、今、ここにないことの方にばかり、心が向かって、

ますます、今、ここにあるものが、どんなにゆたかで、愛にあふれていて、美しいかに対して

完全に盲目になってしまいます。

今、ここにないものばかりに、注目する癖を矯正するのに、

たとえば、感謝の日記をつける方法があります。

毎日、少なくとも5つ、感謝の対象を見つけて、それについて書くというものです。

これをしばらく続けると、欠如の信念が、執拗に見せようとする「そこにないもの」から、

「そこに既にあるもの」にフォーカスを移す習慣が身についていきます。

そして、「そこに既にあるもの」を味わい、完全に受け取り、その良さを評価できるようになったときに、自然に湧き上がるのが、感謝の念です。

だから、感謝の日記をつけることは、受け取る練習になるのですね。

他にも、何かに感謝の念を感じるたびに、それに対する感謝の言葉をメモ用紙に書いて、

それを畳んで瓶の中につめていく「感謝の瓶」Gratitude Jarという方法も流行ってるみたいです。瓶がいっぱいになる頃には、幸せや愛や、美の受取り上手になれるかもしれません。

あるものを楽しみ、受け取る力は、旅をするスタイルなどに、よく現れます。

スケジュールぎっしりの旅程で、目的地についても、次の行き先に、時間通りにつけるかとか、帰った時にみんなに渡すお土産の心配をしたりして、その場にあるものを、本当に楽しんでいるように見えない人、いますよね。

欠如感が、まとわりついて、とれないのです。

とはいえ、まさにそこから解放されるために、旅をしたりしているのですが。受け取り拒否の癖がまだ解除できていないのですね。

この心の癖が矯正されていくと、旅は、道草たっぷり、予想外の出来事たっぷりの、ぶらぶら歩きに近づいていきます。

これまで、先を急ぐあまり見落としていた道端に咲く花の美しさに、はっとしたり、その匂いをかいでうっとりしたりなど、そこにあるものに、いろんな形で魅了されてしまうからです。

感謝の念のすばらしいところはもう一つあります。将来のゆたかさではなく、「今、ここ」のゆたかさに気づいた時にしか湧かないことです。

というのも、ゆたかになれるように願うのと、ゆたかであるのって、似ているように見えますが、実は全然違うってことだからです。

ゆたかになれるように願う時、私たちはいつも、ありのままの状態に不足を見ています。

あれが足らない、これが足らない、あれさえあれば、これさえあれば。

「足らない」「足らない」と言い続け、アフォーメーションしているのと同じなので、そちらの方が、現実化されてしまいます。つまり、ゆたかになれるように願うのは、実は、貧しくあることと、表裏一体なのですね。

実際、ゆたかさを引きつけるのは、ゆたかであること、ゆたかさばかりが、目に入り、それを素直に受け取り、味わう力の方なのですね。

そのために必要なのは、ゆたかになれるように願う力ではなく、

すでにゆたかであることに気づく力です。

そしてそれは、どれだけ与えられたものに感謝できるに、現れます!

とはいえ感謝の念を高めることで、受取拒否を解除するこの方法も、非二元の見地からいえば、

諸刃の剣なところ、あります。

というのも、これは、心(思考し、知覚し、感じる力)がなす努力に過ぎないからです。

ゆたかさの本当の源泉である、スピリット、純粋な気づきを、心は捉えることができなかったことを、思い出してください。

別の言葉で言えば、「努力している」「頑張ってる」感じがそこにある限り、

そこにゆたかさはないんですね。

とはいえ、感謝の念を高める、ここでご紹介した訓練が、全て無駄だって言う意味ではありません。

「これは助走にすぎない」ってちゃんとわきまえながら、

助走した後、その先に広がっている本当のゆたかさの源泉に、跳びこんで、そこに安らう・・・

そこまでちゃんと行くようにすればいいんです。

この瞬間は、わかります。今、感謝している特定の対象だけでなく、あらゆるものに対する圧倒的な感謝の念と、安らぎが湧いてきますから。

純粋な気づきを、心は決して捉えることはできませんが、

心自体、純粋な気づきでできているので、

純粋な気づきという素材の中へ戻り、溶けていくことは、懐かしいわが家に戻ること。

この帰郷の瞬間そのものは捉えられなくても、

その後、気づいてみると、何ともいえない安らぎに浸されていることでしょう。

たとえば、私が感謝の日記を書いていた時、最初は、「なぜ5つも、感謝の対象を書かなければならないの?」ってぼやいていました。その日たまたまあった、ラッキーなこと、親切にしてもらった体験を書いても、1つか2つで終わってしまいます。

5つも書こうとすると、どうしても、その日にあった特別な出来事だけでなく、

これまで、あたりまえだってみなしていたことに対しても、感謝できなきゃ無理です。

たとえば、きれいな空気が吸えること、水が飲めること・・・・

そうこうしているうちに、ただ、今、ここでこうしていることが、どれほどたくさんの人やものに支えられているかが見えてきて、感謝の念に、文字通り、心が押し流されていくような、体験になります。

禅語で、「冬に花が咲くのが奇跡ではない、春に花が咲くことが奇跡である」といったものがありますよね。そんなふうに、あたりまえのことに奇跡が見えてきたら、存在のゆたかさの中へと、自然に落ち込んでいきます。

というわけで、「感謝しよう」とする心の努力も、

それを、助走として捉えて、そこで終わらず、

その先にあるものに、きちんと着地して、

感謝を、頭でではなく、体験として感じるように心がければ、

良い助けになると思います。

とはいえ、「私はどうしてもゆたかになりたいって、考えてしまう」「現実に不足ばかり見てしまう」という方も、心配しないでください。

それでも、全然OKです。

こうした思いの背後にある、欠如の痛みをしっかり、身体感覚として感じながら、

そんな自分のありのままを、ゆるし、愛してあげてください。安心するまで、抱きしめて、次の節でご紹介している、自分自身に無条件の愛を注ぐというのをためしてみてください。

癒しが感じられてくると、安らぎと、満ち足りた感じと、感謝の念が湧いてきます。

すると、「今、ここ」にあるゆたかさも、自然に見えてきます。

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