非二元のエッセンス

知覚を通して、家へ帰る〜美の道についてのメモ

  • LINEで送る

美の道 知覚に一番やりたいことをさせることで、知覚を超える

空を飛ぶ鳥たちが、無限の喜びに満ちているのを、どうして君は知り得よう。五感によって閉じ込められていながら」

見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、味わったり、触れたりといった五感の働きを超えたところに、無限のよろこびがあるというわけですね。

でもこれも、五感の働きを止めようとするより、

五感がやりたがっていることを、のびのび、やらせながら、

それが本当に望んでいるものを実現させると、

自然に五感を超えて、無限の歓喜、純粋な気づきへれるというのが、ルパートさん流です。

美しいものを見たり聞いたり、自然の中を散策したり、美味しいものを食べたり、いい香りを嗅いで感動したこと、みなさんあると思うのですが、その時のことを思い出してください。

そこに共通点、ありますか? 

うっとりとした感じ。何もかも忘れてしまう感じ。

たとえば美味しいものを味わうことで、本当に私たちが求めてるのは、単に、美味しい料理を味わうと言うのを超えてますよね。

たとえば、私は、神さんという、すごい料理人を知っています。彼女の料理を食べること自体、ヒーリングの体験で、食べてる途中で、ああ幸せと、泣く人がいます。

味がいい、体が喜んでると言うのも突き抜けて、

分離の傷によって、硬直していた心身が溶けていき、ほっとしたところに、

そこにどっと、気づきの海が押し寄せて、安堵感と喜びに満たされるのですね。

そんなふうに、五感を全開にすることで、五感を突破して、気づきの海に至ることができます。

ルパートさんも言っているように、

思考を通して思考を超えて、「すべてがわかった」、「これでいいのだ」という真理の体験へと至る真理の道も、

感情を通して感情を超えて無条件の愛や幸福に至る愛の道も、

この美の道も、同じところに至ります。

そこでは、美と喜び愛と理解が、渾然一体と混ざり合ってます。

実験してみましょう

五感、知覚の働きを通して、これまで一番感動した体験を思い出してください。お料理や風景や、アートに感動した体験など、なんでも構いません。それは、愛や幸福に満たされた体験、共通点ありますか?全てがわかった、これでいいのだと思った真理の体験と共通してますか?

名人の力なしでそこに至るには?

もちろん、神さんのような素晴らしい料理人や、アーティスト、名人と呼ばれる人たちはそうした体験を誘発する名人ですね。

でも、普段も、子供のように、生まれたての赤ちゃんのようにまっさらな状態になって、

すべての記憶、とくに恐れの記憶を取り払い、

たとえば、りんごはりんごにすぎないといった思い込み、決めつけ、レッテルを剥がして、

未知のものに遭遇するようにものを味わうことができれば、

同じ体験をすることができます。

ルパートさんが、タントラの道の極意を表していると、よく引用するリルケの詩があります。

『オルフォウスへのソネット』の一節です。


りんご、ぽっちゃりとした林檎、梨、 パナナ、すぐり・・・

これらはみな、死と生とを、口の中へと語りこむ・・・

私は予感する・・・

読み取るがいい、これを子供の顔から、

子供が果物を味わっているときに。それは遠くからやってくる 。 口の中が、急に、名づけがたくなりはしないか?

いつもは言葉のあったところに、新しい発見が流れこんでくる。

 果肉から、驚きとともに、自由に解き放たれて。

あえて言うがよい、きみたちが林檎と名づけているものを。 

この甘さ、まず濃密になり、

そして味わうことの中で、しずかに鼓舞され、 明るくなり、目覚め、透明になり、

二重の意味を帯び、太陽の陽をはらみ、大地の、 ここのもの。おお、体験、感じること、歓喜よ、広大な!


ものが、「名づけがたくなる」こと。つまり、今自分が五感で知覚しているものから、言葉、ラベル、ストーリーを外すこと。

そして空っぽになったところに、「新しい発見」が流れこむ、その余地をつくること。

その辺に秘訣がありそうです。

ルパートさんが瞑想の中で繰り返している存在論があります。

純粋な気づき、純粋な知ることは、知覚を通して、形として現れる。

シェークスピアの言葉をかりて、「空気のような何者でもないもの」が、知覚によって、一時的な名前と定位置の住処を与えられるとも言ってますね。

つまり、それ自体捉えられない気づきの海が、人生を見る映画メガネのフィルターにかかると、

さまざまな形としてあらわれる。たとえば、「りんご」という名前を与えられ、定位置に置かれる。

でも、この詩では、その道筋を逆さに遡っていくんですね。

知覚されることで、たとえば「りんご」という名前を与えられ、定位置に置かれたものを、

知覚を超えたところにある、「名前をつけられない」「空気のような何者でもないもの」「純粋な気づき」、「純粋な知ること」へと戻る。

人生という映画のフィルターをかけられる以前の、気づきの海に至る。

そのために必要なのは、子供のように素直でまっさらな状態になって、

言葉を忘れ、ラベルを忘れ、ストーリーも忘れ

ただただ体験に没頭すること。

知覚を全開にすることで、知覚を超え、知覚のフィルターをかけられる以前の純粋な気づき屁突破する、この美の道とどれだけ、深く関わるか。人によって様々だと思います。

ほとんどの人たちは、偶発的な体験の積み重ねで、歩んでいきます。

時々、美しいものを目にしたり、耳にしたり、美味しいものを口にして、我を忘れて、幸せな気持ちにひたったときなど。美の道を歩むわけですね。

でも、同じように美味しいものを口にしたり、美しいものを目にしたり、聞いたりしても、同じように感動できるとは、限りません。人によって、状況によって、ものに驚き、感動しやすい状態になれたり、なれなかったりします。

たまたま、偶然が重なって、子供のように、素直で、まっさらで、からっぽな心の状態ができていたときに、そこへと誘いかけるようなものと出会ったときに、驚異の念に満たされたり、感動して、美の道を歩むことになるのでしょう。

ただ偶然や出会いに任せるのではなく、いつでも美の道を歩めるように、普段から修練することもできます。さまざまな技能、アートのジャンルが、様々な方法を提唱していますが、

共通のポイントとしてあげられるのは、

1、恐れを手放す

2、知覚を言葉や、時空による限定から解放する

ではないかと思います。

恐れを手放し流れに身を委ねる

ルパートさんは、生徒さんたちに、音楽でもスポーツでも、技能を磨くお稽古事をするようにすすめています。

私たちは、身体の皮膚の境界に囲まれた、ちっぽけな、分離した存在ではない。

それよりも大きな存在だってことについては、繰り返しお話ししてきました。

ただ、それがはっきり理解できた後も、自分が身体だって信じていた時の身体をきゅっと収縮させてた癖が、身体にしばらく残ってることがほとんどです。

これが残っている限り、ちっちゃな、傷つきやすい身体と自分を、無意識のうちに同一視してしまいます。

そんなわけで、私は、身体ではないってとっくにわかったはずなのに、

今感じている恐れは、悲しみは、どうみても、自分は身体だってことが前提になってるぞ・・・

なんてこともあるわけです。

分離した自己はいないのに、その遺品が身体に残ってるみたいなものだとも話しました。

この遺品をどれだけ、大きな私の方に溶け込ませて、遺品整理していけるかが、

本当の幸せになれるかと関わってくるとも話しました。

そのために、これはどうみても、エゴからきてる・・・そんな感情が沸くたびに、そこから、ストーリーを外して、身体感覚に還元して、単なる身体感覚として見つめるのをお勧めしました。たとえば、怒ってる時、はらわたが煮え繰り返るといいますが、実際、そのはらわたが煮え繰り返るような感覚だけを、「この怒りは誰のせいだ、何のせいだ」といったストーリーなしで、単に「ああ、こんな身体感覚があるな・・・」と見つめるんですね。

すると次第に、それが、分離した自己、皮膚に閉じ込められた身体こそ自分だと信じていた頃に身についた身体の収縮癖、おそれの塊が、表に浮上しただけなんだってことがわかります。

それを気づきに浮かべて、良い悪いといったジャッジメント抜きに感じているうちに、だんだん気づきの海に溶けていきます。

そうすることで、かなり遺品整理進むのですが、

このプロセスを、もっと加速化させる奥の手があるんですね。

いわゆるお稽古事をして、芸術やスポーツなどの技芸を磨くことです。

誰かが、音楽を演奏していたり、ダンスを踊っていたり、スポーツをしているのを見ていて、

かなり硬いな、ぎこちないな、緊張してがちがちになってるな・・・って思うこと、あります。

身体の中の恐れの塊が出てきて、身体の動きや、そこで生まれるパフォーマンスの流れを、阻害してるんですね。

普段無意識のままで、普通に暮らしていると、気づかずに素通りしていたおそれも、

音楽を演奏したり、ダンスをしたり、スポーツをすると、

身体の動きに、鏡で移すように映し出されます。パフォーマンスは嘘をつきません。

そこで意識にのぼった「ぎこちなさ」をとっていくプロセスが、

身体の中の恐れの塊を解き放っていくのにとても効果的なんですね。

ルパートさんはテニスをされるそうですが、心を観察しながらテニスをしていると、ボールが来るたびに、恐れが出て、ボールが近づくにつれて、恐れがだんだん高まって、そのボールを打つ瞬間、最高値に達するのに気づいたそうです。

それをどうにかしたいと思っていたら、アメリカのあるテニスコーチが、古いいらなくなったラケットから、ネットを取り去って、空っぽのラケットを作ってごらん。誰かにボールを投げてもらって、それを、この空っぽで打つ練習をするといいですよとアドヴァイスしているのを、YouTubeで見つけたそうです。

ネットのない空っぽのラケットでボールを打っても、ボールは、ただすり抜けていきますよね。恐れが最高潮に達して、ラケットが、ボールを打とうとするまさにその瞬間、ボールは、抵抗なく、すっとすり抜けていくわけです。と同時に、身体にほっとした、安堵感が広がります。

普段だったら恐れが最高に高まる瞬間に、ほっと安堵するこの感覚を、身体に覚えこますことができれば、ボールを打つ瞬間の恐れが消えていきます。

恐れが去っただけ、流れに乗れるようになります。

スポーツには流れがありますよね。スポーツの試合を見てると、このチーム、流れに乗ったなって、はっきりわかる瞬間、ありますよね。

この流れこそ、気づきの流れなのですが、それはいつも、恐れによって阻害されます。だから、自覚にのぼったおそれをどんどん手放すことで、どんどん流れに乗れるようになります。

ルパートさんは結局、空っぽのラケットは作らなかったそうですが、なぜかというと、言われた通りに空っぽのラケットで自分がボールを打っていて、ボールが抵抗なく、スッと通り抜けている様子をイメージするだけで、みるみる恐れが消えていくのを感じたからだそうです。

どこでどれだけ、おそれが出てきているかを自覚しながら、スポーツでも音楽でも、練習する習慣をつけると、身体から恐れの塊を一掃していく、いいヨガメディテーションになります!

たとえば、私はピアノを弾くのですが、「ここではいつも、つまづいてしまう」と自分が思い込んでしまっていて、実際に、いつもつまづいてしまう、つまづき癖がついている部分があったりします。

心を見つめながら弾いていると、その部分に近づくにつれて、だんだん身体が硬くなって、少しずつ恐れのレベルが上がっているのも感じられます。身体に残ってる恐れが、この箇所に集中的に投影されてるな・・・ってはっきりわかります。もちろんそれは硬さとして、演奏に反映しているのもわかります。

あ、恐れが出てきたぞと思ったら、とりあえずやめて、深呼吸して、今度は、同じ箇所を、テンポをずっと遅くして、リラックスしながら弾き直します。だんだん安堵感が身体に広がってきたと思ったら、少しずつ、テンポをはやめて、元に戻していきます。

身体全体が、ものすごく硬くなってると思ったら、背中から天使のような羽が生えているようにイメージしたりすることもあります。どんなイメージでもいいので、恐れの塊が溶けていってると感じられれば、ひとまず成功だって思ってます。

ルパートさんは、リコーダーを吹くそうですが、とても静かで柔らかな楽章も、力を入れて演奏してしまう癖がある。それを取るために、自分の笛に、とても綺麗な蝶々が止まっていて、その蝶々が止まり続けるように、蝶々を驚かさないようにしようってイメージしながら演奏するんだそうです。

イメージを用いる方法は、思考に照らせば、馬鹿馬鹿しく感じられます。でも、実際、恐れの塊が溶けていくのを、感じることができるならば、使わない手はないと思います。

そうやって、試行錯誤しながらも、パフォーマンスから、恐れを取り除き、ぎこちなさや、攻撃性を取り除いていく繰り返しが、恐れの塊、分離した心身との無意識の同一化を取り除いてくれるんですね。

恐れの塊が手放されれば、手放されるほど、身体は透明になり、気づきに向かって大きく開かれ、流れに乗れるようになります。

このとき私たちが乗ることになる、音楽やダンスやスポーツの試合の流れは、純粋な気づき、スピリットの流れです。インスピレーション、つまり、スピリットの中にある状態です。

この流れに乗る力が高まるにつれ、それをますます深く感じ、深く、精妙にシェアする力、表現する力も高まっていきます。

というわけで、お稽古事も極めていって

恐れを手放しては、気づきの流れを受け入れる力を高めていくと、

だんだん、そのプロセスや、その成果を、不特定多数の人たちと分かち合い、

他の人たちが美の道を歩む手助けができるようになります。

それがアーティストや、卓越した料理人や、スポーツ選手や、あらゆる技能の達人の役割ですね。

知覚から言葉による限定を外す

美の道を、もっと進むと、知覚から、名前や形をはぎとって、すべての素材、すべての源泉である、純粋な気づきに戻していく段階に入ります。

難しく聞こえるかもしれませんが、このプロセスも、

私たちはすでに何らかの形で知っていて、

それに対する憧れや郷愁があるんじゃないかって思ってます。

あらゆる恐れを手放して、ただ、インスピレーションの流れに乗って、思いっきり音楽やスポーツのパフォーマンスに没頭して、一緒にやる人、みてる人、聞いてる人と一体になるのを、私たちが、本当は望んでいるのと全く同じように、

心の底で一番望んでいたことを、思いっきりやるだけなんじゃないかって思ってます。

知覚から、言葉や時間、空間の限定を外していくプロセスは、とても気持ちいいものだからです。

たとえば、大人になっても、おとぎ話が好きだったりする人、いますよね。

私自身、おとぎ話が、大好きなのですが、何が一番いいかというと、「昔々あるところに、ある・・・」とはじまるところですね。

たとえばこれが普通の物語だと、「西暦何千何百何年に、何々という国に、何々という名前の・・」と、言われるところ。そんなふうにいちいち限定され、規定されると、冷たい感じがします。自分とは関係のない、よその話だなって気がします。

こういった、時空を限定して、みんな名前をつけていく働きをあえてしないで、

いつか、どこかわからないところに、「ある」少年が、少女がいました・・・と言われると、何だかほっとしますね。

もしかしたら、自分のことなのかな・・・って一体感も感じられてきます。

英語で言うと、定冠詞the(その、有名な、特別な・・・)ではなく、不定冠詞 a, an (ある、何らかの・・・)がつけられた世界です。

おとぎ話では、万事、そんなふうに、ゆる~く、ぼかして始まるところに、とても安らぎを感じていました。

時間的には、単に「昔」場所的には、「あるところ」ということで、時空の限定も、ゆるめていきます。

知覚を、知覚以前の純粋な気づきへと戻していくプロセスと同じなのです。

共通点はそれだけではありません。

おとぎ話では、動物や植物も、擬人化されて、人間のように振る舞ったり、話したりしますよね。それも、すべてが一つで、動物や植物とつながっている状態に対する郷愁をかきたてます。

そんなふうに、なぜ私は、おとぎ話が、こんなに好きなんだろうな・・・とその好きな気持ちを深く見つめていくと、言葉による限定を知らない、すべてが淡く溶け合ってる世界に対する記憶や予感が、すでに自分の中にあるんだって感じられてきます。

どこだかわからない、いつだかわからない、誰だかわからない・・・そんなふうに、知覚から、名前や、形を、外し、限定をゆるめていくほど、

そこから、まるで家に帰ったかのような、安らぎや魅惑や、輝きが感じられてくるとき、

その安らぎや魅惑、輝きは、気づきの海から来るものです!

美術の中に見られる知覚のゆるみ

おとぎ話はそんなに好きじゃないんですけど・・・という方もいらっしゃるかもしれません。

他にもいろんな入り口、あると思います。たとえば、スナップショット的なさりげない写真とか、日常の細部を撮った写真とか、好きな方、いらっしゃるんじゃないでしょうか? 

写真って、みんなでポーズをとったり、構図も考えたりして計算づくでとること、できますが、本当にいい写真って、自然でさりげない瞬間をとらえたものですよね。その点、被写体の同意を取らずに、いきなり撮った方が、うまくいったりすることもあります。

the がつけられた特別なものではなく、a がついた、そこに偶然、さりげなくあるものの魅惑を発見する感覚。ここにも、知覚から、限定をゆるめていくプロセスがあると思うのですが、

これは、日本では浮世絵の中にも感じられますが、

西洋の美術史では、印象派あたりで出てきた感覚です。

印象派の画家たちが出てきた頃、美術の権威を担うアカデミーでは、歴史的名場面、偉い人、宗教的な名場面、神話の重要なモチーフというふうに、かの有名なもの、the 絵画ばかりが描かれてました。重要な主題の絵を描いて、一端の画家と認められる風潮もありました。

そんな中で、印象派の画家たちはどこにでもある、見慣れたもの、何の特別なところがないものを、描き出すんですね。ただの道とか、そのへんにいるおじさんとか。名のないものの世界です。「ある女性」「ある男性」「ある風景」というふうに、a がついているものばかりからできた世界です。スナップショットのように、偶然目にしたような、ささやかで、さりげないものを、絵に描くようになります。

例えば、これ、モネの作品です。みんな後ろ姿だし、どこにでもありそうな風景だし、一体どうして、ここを選んだのかな・・・って思ったりしますよね。でも、実はそこがいいのですが。

art-monet.com

絵にするに値するような主題が、そこには何にもないじゃないか!

と保守的なアカデミーの人たちには貶されて、仲間に入れて貰えません。

でも、鋭い人たちは、

印象派の人たちが、特別の主題を描くのをやめただけでなく

知覚の働きそのものからも、特別なものを見出そうという働き、ものにからthe をつけたがる性行を手放して、

名もない人、名もない風景に向かうにつれて、

逆に、私たち全てが分かち合っている存在の輝きが、絵全体から溢れてくるのに気づきます。

たとえば、モネの積み藁の絵をみた時のカンデンスキーは、そこで大発見をすることになりました。

あまりにもさりげない、どこにでもある風景で、

それもただ、光の中で見えるがままに描いているので、

一体、何の絵なのか、しばらく理解不能。

でもだからこそ、存在のひびき、輝きが、溢れている・・・

名前や形に閉じ込められた知覚を、

限定が外して、解放することで、知覚は、全ての素材、源泉に戻っていく。

そして、安らぎ、愛、喜びに浸されていく。

そのことに気づくんですね。それが、抽象美術誕生の引き金を引くことになります。

実験してみましょう

何でもいいので、目の前にあるもの、普段から見慣れている眺めをとりあげて、

それを、「私は本当のところ、それが、何なのか知らない」

そう思いながら、あらためて、今、ここにあるままに、眺めてみましょう。

まるで初めて見るかのように。

人に対してでもいいと思います。

本当のところ、この人は誰なのか、私はさっぱり知らない。

そう思いながら、知覚の限定をゆるめてみてください。

どんな感じがしますか?

エドワード・ウェストンの写真などから、知覚の限定を緩めて、初めて見るようなまなざし、学ぶことできます。彼の写真は実際、何を撮っているのか、しばらくわかりませんものね。でも、実際はどこにでもあるもの、というのがオチです。

「わからない」と思うほど、安らぐ

スピリチュアルな道進むにつれていろんなことが起こるのですが、

私にとって忘れられない変化として、わからないことが、うれしくてたまらなくなるというのがありました。

教員をしてたせいもあって、わからないというのはタブー。わからないというのは屈辱とか、不安と結びついていました。エゴの反応ですよね。

それが、ある時期から、わからない、わからない、ここにあるのは、いったいなんなのかわからない・・・と思えば思うほど、

そこから安らぎとか、存在のあたたかさが、感じられるようになってきました。

これは、何なのか、いいものなのか、悪いものなのか、役に立つものなのか、何をするためのものなのか、自分が知っているとこれまで思ってきたものを、手放して、

知覚から言葉や名前、概念によるゆるゆるに、ゆるめていけばいくほど、

窓が開くように、その奥から光が差し込んでくるのです。

安堵感も広がってきます。

私はさっぱりわからない、その分、あなたが全てを知っている。そのあなたにおまかせしますという感覚です。そしてそのあなたというのは、全ての素材、真理美愛として体験される純粋な気づきなんですね。

今思うと、知覚から形や名前による限定をゆるめて、

全ての共通の素材へと戻して行ってたからなのですね。

エゴの側に心が傾いていると、わからないこと、はっきりしないことは、おそれを引き起こします。気づきの海の側にいると、逆にそれが、新しい発見が流れ込み、喜びに満たされるチャンスとして感じられてきます。

芸術でいうと、やっぱり、具象的な表現が崩れて、抽象化していくプロセスにとてもそれを感じます。

たとえば、カンディンスキーの、「芸術における精神的なもの」を読むと

文化の違う、見知らぬ国を旅していて、ぶらぶら歩いていると、「この人たち、一体、何のために、何をしているのだろう?」と首をかしげたくなるような、不思議な動作をしている人たちを見かけることがある。何をしているか、全く理解不能だからこそ、それは、私たちを、不思議な世界に引きずりこんでいくような、何とも言えない魅力を持っている。

でも、会話がはじまって、それが何をしているのかが説明され、種明かしされると、安心はしても、先程まで感じていた、不思議な国に引き込まれていくような魅惑は消えてしまう。

といった話が出てきます。これも、動作が何なのか、全くわからないことが、知覚から概念規定を外して、その手前にある世界を垣間見せてくれたからですね。

あるいは、赤という色が本来持っているパワーを絵の中で解き放つにはどうすればいいかについて、書いてある箇所があります。

たとえば、赤い夕日を描いた場合。ああ、夕日だから赤いんだなって思う。知覚は完全に概念的な説明の中に閉じ込められているので、ことさら、赤が、意識されることはない。

でも、赤い服を着た女の子を描く場合、服はいろんな色であり得るし、もうすこし自由度が増す分、インパクト出てくきます。

それがとても悲しい場面で、他の色調が暗く沈んでいると、赤い服が逆説的に際立ってきます。

赤い牛を描いたら、私たちの期待に反しているので、ので、えっなぜ? と赤のインパクトをもう少し感じるようになります。

でも一番、赤をそのものとして体験できるのは、、赤をどんな輪郭から、どんな説明からも外して、ただ、宙に浮いた赤い斑点として描く時のみ。そのとき、一番赤が強烈に体験される・・・

そうやって、抽象芸術の制作が始まったと、彼は言っているわけですが、

これって、知覚を、名前、ストーリーによる概念的規定、限定から解放させていくるプロセスそのものですよね。

恋愛と知覚の変容

抽象という言葉とは正反対のこのゆたかさをどうにかして伝えたいなと思って、

「恋は盲目」と言う言葉をキーワードにして、講義をしたことがあります。

愛を入り口にして、知覚から限定が外れていく気持ちの良さ、感じてもらうこともできるかなって思って。

誰かが好きになると、あばたもエクボに見えてくるっていいますよね。恋は盲目にするともいいます。でもそれは、悪いことでしょうか? 愛に溺れ、相手と一つになるに従って、相手の輪郭は消えていくんじゃないか。

たとえば、どんなに、現実をありのままに描くリアリスティックな画家も、

自分が本当に愛している人は、うまく描けないと言う話。見えるままに、正確に描こうとすればするほど、姿が愛の中に、光の中に、霞んでいく。

同じように、現実を愛しすぎると、現実から、輪郭が消えていき、

抽象的な芸術が始まる。

恋愛も、自分や人から限定を外して、すべてが一つに溶け合う世界への入り口になりますね。

恋をするとその人の周りのことに、興味を持つようになりますよね。全然興味のなかった縁遠いことに、興味を持ち出したりしますよね。どんどん知覚が変わっていきます。これは好き、あれは嫌いといった線引きがゆるんで解けていきます。

ただ、遅かれ早かれ、所有欲、コントロール欲が出てきて、このプロセスが阻害されるのですが、

相手に自由を与えて、手放せる関係、無条件の愛の状態をキープできれば、知覚から限定が溶けて、全ての素材、全ての源泉に戻っていくプロセス、進みます。

 とは言え、相手の問題ではないこと

美は、対象の問題ではないって繰り返し言われていますね。

逆に対象から、限定がはずれて、全ての共通の素材、源泉へと戻っていく。

それが自分自身だったって確かめるプロセス。

美の体験をすると、次回もこれを手に入れることで、同じ喜びを感じたいと思いがちです。

この幸せな体験をくれた、料理人の料理を、再び味わいたくなったり、

同じ風景を見に行きたくなったり、

同じ人を追いかけたくなったり。

でも美は対象の側にあるのではない。

対象が限定を解かれて、全てのものと、私自身と、同じだったってことをあらわにすることです。

そこに特別なものは何もないことをあらわにする体験です。

美の体験のこの本性に忠実でいようとすれば、

逆にどんなつまらない、普段と同じ日常のあらゆる瞬間に、そこから限定をほどき、覆いを外し、たった一つの、同じ体験ができるようになることです。あらゆるものをその入り口にすることです。

というわけで、何を見たり感じたり、味わっている時も、これがなんだかわからない。初めて、まっさらな状態でそれを知覚しながら、その奥から、たった一つのものが、その安らぎ、輝き、愛をあらわにするのを、みとどけてください。

世界全体が優しいトーンの中であらわれてきます。

  • LINEで送る