非二元のエッセンス

心に好きなことをさせることで、心をしずめる〜「あなた自身への三つの道」のおすすめなところ

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この瞑想「あなた自身への三つの道」がおすすめなわけ

本当の私たち、私たちの本性、スピリット、気づき、なんと呼んでもいいのですが、

それに達するには、

思考を止めなきゃいけない、感じたり、知覚したりする心の働きを止めなきゃいけないって言いますよね。

それは正しいのですが、直接それをやろうとしても、とても難しいですね。

ルパートさんがこの瞑想ですすめているアプローチは、ちょっと違うんですね。

私たちの本性は、本当の私たちなので、私たちすでに、ある意味、知ってるんですよ。

どんなふうに知っているかと言うと、私たちが、結局のところ、心の底で、一番望んでいること、憧れていることとして知ってる。

ちょっと時間をとって、私は、結局のところ、何を一番望んでるんだろう? って自分に問うてみてください。

幸せになりたい。安心したい、愛し愛され、一つになりたい。溌剌とした生命に溢れていたい・・

ではそれ自体を目指せばいいんじゃないの? 

だってその中に入っていくと、私たちの心の働きは自然に止まるし、

心の働きが止まった奥から、私たちが目指す、私たちの本性が姿を表すのだから・・・

そんなふうに、とても単純に考えるんです。

あまり単純すぎて、説得力がないと思う方いらっしゃるかもしれません。

そんな方のためにも、心の働き、一つ一つ、検討してみていくんですね。

たとえば、思考の働き。何かものを考える時って、いつも、気がかりなこと、心配なこと、問題がありますよね。それを解消するために、ああしなければ、こうしなければ、って考えますよね。

では、考えてる時、私たちは結局のところ、心の底で何を望んでいるかというと、

気がかりなことが解決して、安心して、もう、あれこれ心配して考える必要がなくなることですよね。

つまり考えるってこと、そのものの中に、

「考える必要がなくなって、安心して、安らぎたい」

という憧れが含まれています。

それは思春期の頃、片想いの人がいて、「あの人は、私をどう思っているんだろう」「あの微笑みは、まなざしは、どういう意味なんだろう?」「どうしてあんなことを、私にしたんだろう?」などと、際限なく、あれこれ考えながら、そのすべての思考が、その人と相思相愛だってわかって、その人と抱き合った時、無用になって消えていくのに似ています。

そんなふうに、思考の中には、自分が無用になって、安らぎの中に溶けていきたい・・・という

「飛んで火に入る夏の虫」のような衝動が含まれています。

では、思考が自分を解消するために引きつけられているこの「火」は一体なんなんでしょう?

そこにいけば、全てが「わかった」と、安心できる、すべての問いの答えがそこに含まれているような究極のもの。その中にある一体感と、安らぎ・・・ですね。

じゃあ、最初から、そこにまっしぐらに向かうよう、いつも思考すればどうなの? 結局それが、思考がいちばんやりたがってることだし・・・

そのすすめなんですね。

何でも好きなこと、頭に浮かんだことを考えていいんです。ただ、そうやって思考しながら、その際に、思考すること、そのものの中に含まれているこの憧れも、同時に感じるんですね。わかった、大丈夫だって安心して、すべてと溶け合い、安らぎたい・・・

その憧れに、思考の動きを添わせて、この安らぎがいや増す方向へと、思考をぐいぐい進めていきます。すると、自然に、思考はしずまって、この「火」の中で、安らいでいるのに、気づくかもしれません。

つまり、思考を止めようとするのではなく、

逆に、思考に、自分が一番やりたがっていることを思いっきりやらせる。

そうすると、自然に思考はしずまり、思考を超えたところに行けるというわけです。

感情でも同じことがいえます。

あらゆる人を、あらゆるものを、愛しなさいって言われても、難しく感じられます。

でも、いわゆる悪感情もふくめ、どんな感情を抱いている時も、

「結局のところ、自分は一体何を望んでいるんだろう?」って自問自答してみると、

「無限に愛し愛されていることがわかって、心底安心したい」

という思いが見つからないでしょうか? 

もちろん、その思いは、いくらでも、ひねくれた形で表現されること、ありますね。

ふられた相手に当て付けるように、自殺しようとする人とか、

一番好きな子を、いじめようとする子供のように、

相手をためすことで証明したいと思って、相手を困らせるような形で、この気持ちが現れることも多々あります。

傷つくことに対する恐れから、防衛的に無関心を装ったり、関係を避けることもあるかもしれません。

でも、もつれた糸をほどくように、心をさぐっていくと、

愛されたい、そして、心から安心したいという焼けつくような憧れが、その奥に秘められはいないでしょうか? 

では最初から、素直に、無限に愛し愛されること、愛そのものへ向かって、あらゆる感情を解き放っていけばいいんですね。

実際、それが、どんな感情を抱く時にも、私たちが、結局のところ望んでいることなのですから。

そんなことをすると、相手がびっくりするし、迷惑する!って思うかもしれませんね。

でも、心配無用です。

愛は、つきつめると、形を超えた、無条件なものになるからです。

たとえば、愛そのものの中で、誰かを見るために、何をする必要も、何を言う必要もありません。だから、相手に、表面的な意識のレベルで、気づかれる必要さえありません。

愛は無条件になることこそを、望んでる

ちょっと寂しい感じがするかもしれませんが、

無条件の愛として、無限性の中で解き放たれることこそ、私たちが感情を抱く時、心の底で望んでいること。

だから、諦めというよりは、本当に欲しいものだけ、最高のものだけを、求める贅沢な態度だって思ってます。

ルパートさんがこの瞑想の中で、あらゆる欲望の中には、幸福そのものからの吸引力、恩寵の作用が含まれていると言われているのはそのせいです。

欲望を抱いた時に、この吸引力に従うと、幸福そのもの、愛そのものの全体性にいたります。

あなたの欲望を深め、広げて、幸福そのものだけがそれを満たせるようにしなさい。

と言う彼の言葉も、そこから理解できます。

これに対して、欲望の対象、特定の人やもの、状態を所有したり、

期待通りにコントロールする方に心を向け続けると、

欲望は、限定づけられたまま。

それが本来望んでいるはずのこの無限性へ向かって解き放たれることができません。

そこから閉塞感や倦怠感、停滞感が生まれます。

望んだものはすべて手に入れたはずなのに、心満たされなかったりするのはそのせいです。

コースで「特別の関係」とか、「偶像」と呼ばれるものを求める時につきものの、幻滅状態が待ってる可能性もあります。

それは幸福そのもの、愛そのもののゆるぎなさの中に溶けいって、消え去りたいという、

すべての感情の中に秘められた衝動が、塞き止められたことからくる、フラストレーションの表れれでもあるんですね。

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