非二元のエッセンス

ターニングポイントを超えたら引き算あるのみ

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スピリチュアルな道を歩んでいて、目から鱗が落ちるような体験をしたこと、何度かありますが、
中でも重要だったって、今、思えるものに、
足し算ではなくて引き算なんだ
って、悟った瞬間があります。

最初は、こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけない・・・
あの方法を学べば、これをすべて読めば、やれば、実践すれば、うまくいく・・・
といった足し算の発想で、取り組みがちです。
実際それが必要な時期もあります。

ただ、ある時期をすぎると、だんだん、目指しているもの、純粋な気づき、スピリットなどと言われるものが、
今、ここで、直接体験できるようになってきます。
何とも言えない安らぎ、やっと家に戻ってきた安堵感に満たされると同時に、
この中にい続けること、それだけが、問題であること。
ここ以外のどこにいく必要もないこと。

また、これは、私の本来の自然な状態であって、
これまでもそうだったし、今後も失われることはないこと。
私自身が、そこにわざわざ、覆いをかぶせて見えなくしたり、
この状態以外のどこかに、欲しいものがあると思い込んで、また探索をはじめることだけが、
ここにいるのを邪魔してきたことがわかります。

そうすると今度は、こうした、覆い、邪魔、つまりこの安らぎ以外のあらゆるものを、この安らぎの中へと明け渡していく、引き算のプロセスがはじまるんですね。

このターニングポイントは、いつの間にか過ぎていることも多いかもしれませんが、
かなり厳密にまだその手前にいるか、後にいるかは、見分けることができます。

これをとってもわかりやすく説明してくれるルパートさんの喩えをご紹介しますね。
身体が何か不自然なポーズを強いられているとします。たとえば手をぎゅっと握りしめていなければならない。そんな状態が長〜く続くと、それがどんなに不自然で、どんなに疲れるポーズでも、普通の状態になってしまいます。

そこに、誰かが通りかかって、そんな不自然で疲れることはやめなさい。たとえば、握りしめた手を緩めなさいとすすめてくれるのですが、あまりに長いこと、ぎゅっと握りしめていたせいで、緩める動作が逆に痛く、苦痛に感じられます。それまでの硬直状態がひどければひどいほど、努力のいることになってしまいますね。いろんなメソッド、テクニックに従う必要も出てくるかもしれません。

ただ、それでも根気強く緩め続けると、ある時点から、「なんだ、これが私の自然な状態だったんだ」と分かる瞬間がきますよね。

その後は、もう努力はいりません。ただ、この「自然で、楽な感じ」に身をゆだねるだけです。
痛みの記憶が疼いてきても、今、ここで直接体験される、この自然で楽な感じだけを信じて、そこに、あらゆる痛みの記憶を溶かしこみ、忘れていけばいいのです。

この瞬間が、ターニングポイントになります。
第二の天性になるまでになってしまった、
不自然な硬直状態からの解放は、
何か努力のいることというより、
自分の本来の自然で楽な状態を取り戻すことへと向かっているんだっていうことが、腑に落ちた瞬間のことです。

というわけで、あなたの本来の、自然な姿である安らぎが感じられてきたと思ったら、
何もかも忘れ、ただその吸引力に、まかせてください。
そうすること以外、その状態であること以外、もうなんの努力もいらないことを、認めてあげてください。

よくあるのは、この楽な感じが、あまりに自然で、あまりに楽で、わが家に帰ったようなくつろぎに満ちたものなので、
えっ? これが私が目指してたものなの? と疑ってしまって、
また何か特別なことをはじめたくなることです。
でもそれは、せっかく開いて、自然な状態に戻ってきた手に対して、また変なポーズを課すことになりかねません!

それよりも、ただ、徹底して、この楽な感じに身をゆだねて、
あらゆる期待、先入観も捨てて、ただ、この状態にいた時、何が起こるか、試してみてください。
「本当にこれでいいの?」といった疑いの念
幸せになるためには、これがいる、こうでなければならないといった、救いのための自分の計画、あるいはそもそも、自分が正しいと思っていることとか、
私はこのやり方でやる、この人についていくといった帰属意識も含め、
全部、まっさらな初期状態になるまで手放して、
どんどん深まっていくこの安らぎ、幸福に、明け渡していってください。この楽な感じ、平安の吸引力の中に、明け渡し、溶かしこんでいくんです。

自分はまだターニングポイントの手前にいる気がする
緩めるはずの努力が、まだまだ、どちらかというと苦痛のように感じると思われる方いらっしゃるかもしれません。
そういう場合、しばらく、努力に見えることが続くかもしれません。

ただその際、肝心なのは、その努力が、あなたが今とっている不自然なポーズを解除する方向に向かっているか
それともさらに、また一つ不自然なポーズを付け加えるものか
だと思います。

信頼できるメンターに、指導やアドヴァイスを求めることで、見分けることもできます。
適当な方が身近に見つからない場合は、とにかく、長期的にみて、人生楽になってきたな、特にこれといった理由もなく、幸せだって感じる時が増えてきたな・・・という感じを大切にして、そちらに向かうようにしてください。
あれもこれもしなきゃいけないのにできていない・・・・といった、罪悪感や懲罰のおそれが増すのではなくて、
逆に、問題探そうと思えばいくらでも探せるけれど、
そんなのと関わりなく、自分は大丈夫なんだ・・・という無根拠な自信、無根拠な安らぎ、いわゆる能天気さが増してきたら、正しい道を歩んでいる証拠になります!

このターニングポイントを、他にも、いろんな言葉で言い換えること、できると思います。
たとえば、doer「する人、行為主体」の消失、ただ、being 「あること」の始まり・・・などなど。コースでも「あなたは、何もしなくていい」という節がありますね。

ルパートさんは、
Meditation is what you are, not what you do.
瞑想はあなたが『する』ことではなく、あなた自身で『ある』ことだ
とよく言われます。
ターニングポイントの前までは、瞑想は、そのままではダメな現実を補うためにことさら、「する」ものかもしれません。
ターニングポイントを過ぎると、ただ、自然な本来の自分であるだけ。みんなと繋がった、欠如をしらない、自分であるだけ。それが瞑想なんだってことがわかります。

たとえば、私はみんなで瞑想して一体性を確かめるのが大好きで、それはしょっちゅうやりますが、一人での瞑想の時間は、ほとんど持たなくなりました。
瞑想が常態になってきたからです。
その代わり、あらゆる瞬間、あらゆる状況下で、どうすればこれが瞑想になるだろう、瞑想であり続けるだろう? と思い、少しでも逸れたと思ったら、本来の自分に立ち戻るようにしています。

自分の本来の状態である、純粋な気づきに触れると、
状況を問わず、ゆったりリラックスして、
目の前の人や状況に対するジャッジメントが受容や理解、愛におきかえられ、
しっとりとしたつながりの感覚、安堵感に満たされはじめるのですぐにわかります。

とはいえ、欠如感が残る限り doer は生きてる

このターニングポイントを超えたら、「このままじゃだめだ」という声に従って、また何か特別なことを始める「足し算」は自然にしなくなっていきます。

といっても、ほんのわずかでも、「このままじゃだめだ」という欠如感が疼くのを感じながら、「私はなにもしなくていい、ただ自分であるだけでいい」と自分に言い聞かせて、動かないのも、自己欺瞞をおかすことになります。欠如感が少しでも残っている限り、私たちはdoer ですから。

とはいえ、欠如感が(これが、実際の必要からではなく、事実無根の信念からきている限り)、「これをしろ!」と、命じていることを、やる必要は、ありません! 
むしろ、この欠如感そのものを癒すのに集中してください。気づきですっぽり包みながら、そこに隠れている欠如の信念をまずは貪欲に感じて、その素材、気づきに明け渡していきます。
欠如感が消えて素材に戻ると、自然に安堵感と、「このままでいい」感じが心に満ちてきます。

欠如感からくる声は、ありがたい存在だともいえます。心の大掃除のチャンスを与えてくれているのですから。

このチャンスを生かし切るためにも、
その声が出てきた思いを、その前提、前提、前提・・・になった思い、信念ともども(遡るだけ遡って、身体感覚に還元して、一切合切、気づきに明け渡していきましょう。
何もしなくても満ち足りている、あなたの存在、beingが現れるまで、「引き算」することです。

それらの思いや信念は、あなたの本来の姿である無条件の愛、絶対的な安らぎにかけられた覆いのようなものです。
だから、それを手放して、気づきの中へと溶かしこめるようになればなるほど、
愛と安らぎの体験が深まって、この引き算のプロセスを進めるのも、簡単になっていきます。

「あなたは何もしなくてもいい」とわかった後も、実は忙しい

というわけで、ターニングポイントを超えると、ただ、「自分であること以外に、何もしなくてもいい」といっても、実は、やることはたくさんあるのですね。まず、軌道修正に忙しくなります。

というのも、「本当の自分であること」のどんどん楽になっていく感じは、既に知ってる。
だから、そこからちょっとでも逸れた時の、欠如感、doerの疼きも、ちゃんと自覚できる。
そんな段階に達したら、今度は、「あっ逸れた」と自覚するたびに、そこで直接体験されることを、気づきで、しっかり包んで、軌道修正することが大切になってきます。
それが結構忙しいことに気づかれるでしょう。

この軌道修正を根気強く続けて、習慣に落としこむにつれて、だんだん、飛行機の自動操縦の様な状態になり、無意識のうちにこれができるようになります。

そういう意味で楽になるのですが、そうなると今度は、みんなとの一体感が増して、人の身になれることからくる、奉仕的な仕事が自然に増えてきます。

いろんな形で、人と会う機会が増えて、会いながら自然に、その人を助けているのに気づくかもしれません。あるいは、自分はただ、インスピレーションのおもむくままに、やりたいことをやっているだけなのに、感謝されるので、驚くようになるかもしれません。

あるいは、言葉や音楽や身振り、料理やものづくりなど、あなたの心身にとって一番自然なチャンネルで、溢れる愛や喜びを、表現して、みんなと分かち合っているのに気づくかもしれません。

「私は何もしなくてもいい」という自覚は、正しくなされるとき、必ずそこに「私はあらゆる人、あらゆる生き物、あらゆるものだ」という一体感の深まりと並行して起こります。そしてその一体感は、自然にそれを祝福し、分かち合う場を見出してきます。

というわけで、正しい道を歩んでいれば、「私は何もする必要はない」、「何をやっても無駄だから」といった、スピリチュアルなニヒリズムや、無気力状態に陥ることは、まずありません。もしそんな兆候が現れたら、心のどこかにまだ欠如感、doerの名残を抱えていて、そこから逃避しようとしていないか、抑圧していないか、チェックしてみてください。そしてそれが見つかったら、それをまた、気づきの中で「貪欲に」感じてあげてください。

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