非二元のエッセンス

感情が気づきに溶けるまで その1 「遺品整理」

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思考は、やってきては過ぎ去りを、かなり目まぐるしく、くり返します。

気づきの空間にも、比較的溶けていきやすいです。

ただ、根強くいつまで、心に居座る思考、

なかなか溶けようとしないものもあるのに気づかれるかもしれません。

そんな思考は大体、「嫌なこと」に関するものか、逆に「大好きなこと」に関するものです。

一言で言うと、感情的な反応がつきまとっているのですね。

感情は思考よりも、変化も、気づきへの溶け方もゆっくりです。ルパートさんの喩えをまた拝借させてもらえば、気づきを大空とすれば、思考はそこを飛ぶ鳥のように、飛び回っていますが、感情はそこにかかった雲のようです。変化はしますが、ゆっくりとしています。

といっても、感情の種類によって差があります。

安らぎや愛、幸福など、気づきと親和性のある感情は、すぐに溶けていくのに気づかれるかもしれません。

エゴからくる感情は、頭が痛い、胸が痛む、ハラワタが煮え繰り返る・・・というように、

身体にぐっとくる感覚を伴うこと、多いです。

そこから、直接体験されることだけを残して、

ラベルを剥がし、ストーリーを剥がしていくと、

実際、身体の感覚が残ります。

この身体の感覚も、ジャッジメントを知らない、やさしい気づきで受け止めてあげているうちに、気づきの空間的な質の内に、溶けていきます!

エゴからくる感情の奥に潜むこの身体感覚を、どれだけ、しっかり手放せるかが、

幸せへの、しっとり系自己愛への鍵です!

というのも、この身体の感覚こそ、身体に私たちのアイデンティティをがっしりと、縛りつけてきた、張本人だったからです!

本当の私たちは、無限大に膨らむ風船のようなものなの。

皮膚の境界線を超えて、大きく広がっています。

ただその一部が、紐でぎゅうぎゅうに締め上げられ、縮みこんで、身体に縛り付けられているんですね。この締めつけが、

エゴからくる感情の奥に見つかる、こうした身体の感覚なのです。

その中には、自分が心身だと信じ込んでいた、これまでの間に積み重なった

おそれの記憶、トラウマや罪悪感が刻み込まれています。

これが、エゴからくる感情の本質です。頭が痛い、胸が痛む、ハラワタが煮えくり返るなどなど、

感情表現にいつも身体が伴うのは、偶然では、ないのですね。

いくら、「本当の私は身体の皮膚の境界線を超えて広がっている」と頭では知っていても、

身体の奥に刻まれ、無意識に押し込められたこのおそれの記憶、トラウマや罪悪感が、

繰り返し繰り返し、エゴの感情を呼び起こし続けるので、なかなか、私たちに本来備わっている幸せを、いつも実感することができなくなってしまいます。

だからこそ、それとご対面できたというのは、またとないチャンスなわけです!

身体の奥から、エゴの感情が、表に出てくるのは、

いつも深海に潜んでいる深海魚が、

ふと水の表面に顔を表したようなものですから。

とはいえ、この対面にはちょっとしたコツがあって、

ほんのちょっとしたことから、その後の進展ががらっとかわります。

そのコツを、一言に圧縮するなら、

すべてを忘れてただ感じること。

ルパートさんの奥さんのエレンさんは、No agenda! とよく言われるのですが、

ようするに、下心を持たない。そこに何があるかを知ること以外の別の隠れた動機を(癒しのため、スピリチュアルな達成のため・・・も含めて)一切、持たないこと

すべて忘れて、無心になることです。

何かの「ため」にやろうとすると、エゴにプロセスを乗っ取られる可能性があるからです。

美味しいものを味わうときの感じに似てます。そんなときって、何か別に目的があるわけでも、下心があるわけでもなく、ただ、味わうために味わいますよね。もちろんエゴからくる感情は美味しいものとは、とてもいえないかもしれませんが、そんな具合に、

ただ、そのことのために、やる。

と同時に、全て忘れることも肝心です。

なぜこんな感情を感じることになったか、その経緯だとか、

私は絶対正しい、悪いのはあっちだとか、

自分は犠牲者だとか、

こういう性格だからしょうがないとか、

感情についてる説明書きを、全て外すんですね。

そこで出てくる、剥き出しの、生の感情を、ルパートさんがよく使う言葉で言えば、

devour する。つまり、貪欲に、貪るように味わいつくすんです。

するとどういうことが起こるかというと、

いつそれが、どんなふうに起こるかは、場合によると思うのですが、

遅かれ早かれ、

そこにある感情が、気づきの中に溶けていきます。

その度に、「私」の感覚が、身体へのこの「締め付け」から解放されて、軽くなり、ふわっと膨張して、周りのものを包みこみながら、大きく大きく広がっていくのに気づかれるかもしれません。

エゴからくる感情の奥に見つかる、この身体感覚、罪悪感の塊を一つ手放すたびに、

「私」の感覚が、ふわっと、膨張して、風船の様にふくらんでいきます。

「私」という気球をこれまで地上にがっしりと縛り付けてきた重石が、一つずつ取り除かれて、ふわっと宙に舞い上がるような感じです。

それは何とも言えない心地よさです。

その解放感の味をしめると、

怒りや悲しみといったいかにもエゴからくる悪感情であれ

疲れや退屈さといった、微細な、それでもやっぱりエゴからくる感覚であれ、

大歓迎したい気持ちになってきます。

これを気づきの中で、しっかり感じてあげて、気づきの中に溶かすことができれば、

心がまた一段、軽やかになり、愛情深く広がっていくことを知ってるからです。

つまりしっとり系の自己愛のゆたかさが、増えるというわけです。

さらに身軽になるための、チャンス到来! そう思うようになります。

感情の奥から現れる身体感覚を自覚するための実験

まずはウォーミングアップから。感情の奥にある身体感覚がどんなものか、実際に探ってみましょう。

比較対象として、まずは、もう一度、どうってことのない中立的な思考をとりあげてみましょう。個人的なところのない、お天気のような思考がいいです。

たとえば、「今日は・・・・いい・・・・天気だな」など。

それに、ゆったり、やさしく気づいているうちに、

この気づきが、これらの言葉がその中にぽっかり浮かんでいる、空間として感じられてくるかもしれません。

思考そのものではなく、思考をとりまく気づきの空間こそ自分だと思ったら、

実際に、リラックスしながら、この空間、フィールドの中に、すーっと沈みこむように、身を浸してみましょう。

すると、安らぎや、やさしさが、感じられて来ると同時に、

だんだん、その中に浮かんでいる思考も、このやさしさに浸されて、だんだん溶けていく様子を確認してください。

今度は、悩ましい思いについて同様のことをやってみます。

これは欠如の信念からきているぞと思われる何か気がかりな思考、一つとりあげてください。

実際に、今、ここで何か困ったことがあるわけでもないのに、

何となく最悪の事態を想定したりして、焦ってしまっていることなどあれば、

格好の材料になります

その思考が、その中に現れて入る空間を感じてみます。

さっきのように、それを言葉にして、ゆっくりと唱えてみられるのもいいかもしれません。

だんだん、思考を取り巻く、気づきの空間が感じられてきたら、

気持ちのフォーカスを、思考そのものから、この空間の方へと移して、

そこから、悩ましい思い、ストレスになる思いをすっぽり包みこむようにして、

何もかも忘れてただ、ありのままを、感じてみてください。

どんな感じがしますか? 

この実験をやる前と後とでは、どう違いますか?

そのまま、気持ちが、和らいでくる時もあるかもしれません。

ただ、その直前に、胸がキュンと締め付けられる様な気がしたり、お腹に重苦しさを感じませんでしたか?

あるいは、この身体感覚が感じれるところまでいったけれど、それ以上先には進めなかったという人もいらっしゃるかもしれません。

でも、身体感覚として、感情が感じられてくるだけでも、実は大したことなのです。

今の時点で重要なのは、この身体の感覚を癒そう、溶かそうとすることではなく、

「これは身体感覚に過ぎないんだ」と見限ることです。

たとえば、「お金が足らなくなったらどうしよう」という思いは、「胸を締めつけられる感じ」「仕事がうまくいかなかったらどうしよう」という思いは、「頭を圧迫する感じ」。

こんなふうに、感情を身体感覚に還元すること

これはわたし自身いつも、重宝しているテクニックです。

「身体感覚にすぎない」と思うと、そこから思考が、これ以上生まれなくなります。感情的になったとき特有の思考のどうどうめぐりがぴたっと止むんですね。

と同時に、こんなふうに「とりあえず、身体感覚だけにしておく」と、気づきの中にも溶け入りやすくなります。

そしてこの身体の感じを気づきの中にありのままに、ゆったりと浮かべることです。

そして、気づきをひたひたに浸透させることです。よく効くお薬を染みこませるように。

そうすることで、身体の感覚は、和らぐかもしれませんし、そうでないかもしれません。

ただ、いずれにしろ、ここまでくると、私たちを心理的に悩ませることはなくなります。

身体の奥に隠れたエゴの「遺品」

悩ましい思い、たとえば、おそれ、不安、孤独、怒り、悲しみといった、俗にネガティブな感情を引き起こす思いの共通点は、「私は皮膚の境界の中に閉じ込められた身体にすぎない」という信念を、背後に抱えていることです。

身体は、傷つけられるし、守る必要があります。時間の中で、刻々と老い、朽ちていく運命にあります。また、一人一人分断したかたちで所有していますので、孤立もつきまといます。ちっぽけで限られた命を持ち、いつも崩壊しつつあるこの身体を自分だと思うのは、おそろしいことです。それで、たとえば、これを何とかして守らなければならない・・・と思ってしまいます。

だから、こういった身体の方に、アイデンティティがあって、自分も人も、身体だと思い続ける限り、防衛的にならざるを得ません。喪失の不安や悲しみもつきまといます。

これらのネガティブな感情が、すべて、もとをただせば、「私は皮膚の境界に閉じ込められたちっぽけな身体に過ぎない」という信念に根ざしているとすれば、

この信念が完全に消えて、自分は、無限の気づきの空間だ・・・とはっきり理解できるようになった後も、

エゴからくる感情にさいなまれることが、あります。

たとえば、自分の身体の欠点をとやかく言われても、

自分は身体ではないことがはっきりしていると、動揺することも少なくなるなずですよね。

あるいは、自分は、みんなと繋がっていることを、心底感じていると、みんなと競争する必要なんて何にもないし、人の成功は自分の成功だと思えるはず。

嫉妬したり羨ましく思ったりもするはずありませんよね。

でも、なかなかそうはいかなくて、

「私はとっくに、気づきの方こそ自分だと思ってて、とっくにそちらにアイデンティティが移っていると思うのに、でもそんな感情に陥ることがある。これはなぜ?」と思ってしまうことがあります。 

身体が自分だと思っていた時に感じた悩ましい記憶の倉庫の働きをしているからです。

というのも、この手のティーチングに触れるまで、私たちは、これまで長いこと、「皮膚の境界の中に閉じ込められた身体こそ私」と思って生きてきましたよね。

そうして長いこと、身体と自分を同一視してきたうちに味わったあらゆるネガティブな感情のうち、様々な理由から、処理されず、抑圧されたままになったものが、身体には記憶として刻み込まれています。

そして、それとちょっとでも類似しているせいで、それを刺激するような状況があるたびに、無意識の倉庫から出て、心の表面に浮上するのです。

ルパートさんはこれを、エゴの「遺品」と呼んでいます。エゴはとっくにいない(死んだ)と知ったあとも、身体の中に仕舞いこまれているからです。

身体に刻み込まれたこの記憶、と、思考が出会ったとき、感情になります。

感情を伴わない思考が手放しやすいのは、

思考は過去に学んだことの寄せ集めだからです。

今、ここで直接体験されることだけに集中すると、

平面的な白黒画像のようにリアリティ希薄に見えてきます。

頭だけで考えた世界は「灰色」に感じられるというのは、みなさん、おなじみの感覚かもしれません。

だから、割と簡単に気づきの中へゆだね、溶かすことができます。

でも、思考がたまたま、身体に埋め込まれた記憶を呼び起こして、感情がかきたてられると、

みるみる、身体にぐっと迫る迫真感を帯びてきて、3Dの超リアルバーチャルリアリティとして体験されるようになります。それで、ついつい引き込まれ、夢中になり、その中に我を忘れてしまうというわけです!そんなふうに私たち、怒りや悲しみのとりこになってしまうのですね。

これが、「私は身体ではない」ことをはっきり理解した後も残る、

ネガティブな感情の正体です。

でも、大丈夫。

エゴからくる感情を、「身体に刻み込まれたエゴの記憶」、「遺品」にすぎない、

つまりそんな「身体感覚にすぎない!」と見限ることができて、

それに、気づいていることができれば、

もう悪さできなくなりますから!

感情の奥に隠れている

この身体の感覚が私たちの自己感覚を身体に結びつける役割を果たせるのは、

私たちがその正体と、その存在に無自覚なときだけなのです。

慣れてくると、「あっ遺品が動き出したぞ!」「また来たか!」って感じです。

そしてとにかく、身体感覚だけにして、それをただ貪欲に感じる・・・

それを繰り返す毎日が始まります。

ルパートさんはこれを「遺品整理」と呼んでいます。

でも次第に、その頻度も少なくなっていくことに、気づかれるでしょう。

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