非二元のエッセンス

体験を気づきという素材に溶かしては受けとる・・・大冒険のはじまり

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体験を素材に溶かす

ただただ、体験される全てをゆるしていたら、まるで植物的な生き方。何にもすることなくなるじゃないのって思われるかもしれませんね。実は、やること大ありです。

存在論的な大冒険がはじまります。どういうことかというと、私たちの全ての体験は、素材に溶かすことができるんですね。

体験のこの素材は、純粋な気づき、純粋な知ること、純粋意識、本当の私たち、スピリットとして知られています。

体験が素材に戻っては、この素材の状態から再び受け取り直す時、理解や、愛や、よろこびや、美しさに心が満たされます。

それに溶かしておしまいというより、溶かしてから、また受け取ることもできる素材に半分溶かしたまま、体験を続けることもできる

そんな生き方へのお誘いです

それは、静観的な断念の生活とは正反対。

むしろ、私たちが心の奥底で本当は願い、憧れてやまないものを、実現することなのです。

たとえば、思考が働いているときに、その思考の働きにやさしく気づきながら気づきの空間的な質の中に溶けいらせては受け取り直すと、

「ああ、わかった」「そうだったのか」・・・といった一体感の満足をともなう理解が感じられて、これ以上、もう考える必要はない安堵感に心が満たされます。

感情が働いているときに、その働きが気づきの中に溶けいらせては、また受け取り直すと、一体感や愛に満たされます。

身体感覚が主に働いているときに、その働をが気づきの中に溶けいらせては、受け取り直すと、「ああ幸せだ」という感じが広がります。

ものを知覚しながら、その働きが気づきの中に溶けいると、「なんて美しいだろう」という感慨に満たされます。

実際には、もちろん、これらの体験は混ざり合っていることが多いですね。美しさに感動し、幸せになり、愛と理解に満たされ・・・という具合に。いずれにしろ、人生が理解や愛、よろこびや美に満ちてくるというわけです。

しっとり系の自己愛の秘訣はそこにあります。

「特別」なもの、「究極のものを追いかける必要なくなる

そのどこが、すばらしいか。とても言い尽くせませんが、

私がつくづく、ありがたく思っているのは、何か特別なもの、究極のものを追いかける必要がまったくなくなったことです。

というのも、あらゆる体験は、その内容のいかんにかかわらず、平等に、等しく、気づきに戻るからです。

どんなに馬鹿馬鹿しい、とんでもない思考も、高尚高邁、深遠な思想と同じように気づきに溶けていき、真理の同じ深みを露にするとすれば、

どんなに激しい憎しみも、怒りも、悲しみも、投影からなる覆いを外せば、その奥から、完璧な愛が顔をのぞかせるとすれば、

いわゆる醜いと思われているものも、美しいと思われているものも、全ての知覚を気づきに溶かしていくまなざしの下では、同じ壮麗さをあらわにするとすれば、

特定のものを避けて、特定のものを歓迎する理由がまったくなくなります!

一見惨めな状態も、溶かせば、宝の山だってわかるとすれば、状況に左右されず、満ち足りていることができるようになります。

ジャッジメントのしようがない!

子供や精神的な障害を抱えた方、認知症の方や、自分と全く信条の異なる人など、話を聞くのに、ちょっと忍耐力のいる人を前にした時、とくに効果を発揮します! そこで湧き上がる思いすべてを、溶かしながら、気づきの中でのその人との一体感ばかりを確認して、ただ、ニコニコと、聞いていればいいのですから! 

そうして溶かした思考は、ひらめき、インスピレーションとして受け取り直すことができます。それは、その人も、自分も、助けてくれることが多いです。「ジョン・スミス」から「リア王」への、真理そのものから、真理の断片にすぎない私たちの心身への便りのようなものですから。

あなたの思いを素材に戻して、その奥にある智慧に触れたら、こんな宝物が戻ってきたわ・・・と感謝の念が湧いてきます。

つまり、どんな思いを前にしても、ジャッジメントする必要が全くなくなるんですね。クリアリングが自然体でできるようになります。

24時間アクセス可能 失われることはない

もう一つ、ありがたいこととしてあげられるのは、

この理解や愛や美を味わうために必要なことといえば、

ひたすら、ありのままの体験を、気づきの中へ明け渡し、溶かしていくだけ。

それをどこにも探し求める必要がないことです。

だってそれは、私たち自身なのですから。

覆い隠されることはあるかもしれないけれど、失われることは、決してない

24時間、いつでもアクセス可能なことです。

特別な精神状態にいる必要さえない。悲しみのどん底や疲弊のただ中からでも、同じようにアクセスできます。

驚異と恩寵に生きる

驚きにも満ちています。

というのも、なぜ、今、この状況で、

理解や愛や美に突如満たされるのか、

体験の内容の中には何の理由も見当たらないからです。

もちろんその引き金になった体験はあります。

ただ、どうしてこの体験が、こんなに私を感動させるのか、

体験内容の中には、因果的な関係がまったく見当たりません。

たとえば、理解の体験の引き金になった人は、とんでもない、自分とは正反対の考え方をする人かもしれません。

愛の体験の引き金になった人は「敵」かもしれません。

幸せは、修羅場や戦場の直中で、突如訪れるかもしれないし、

見慣れた、お世辞でも美しいとはいえない、日常的なしょぼくれた風景が、突然、しみじみとした美しさをたたえて見えてくるかもしれません。

体験が、気づきに溶けたということ以外、私たちを満たしてくれるこの驚異の念の理由は、どこにも見当たらないんですね。

でも、だからこそ、それは、揺るぎない、絶対信頼できるものになります。

私たちの心の働き、エゴがお膳立てして、計算づくで得られた体験ではないってことですから! 驚異の念にひたされるのも、無理はない!

だいいち、もしそれが、「特定の」体験内容からきたものであれば、

至福が去った後、光が消えた状態に対して「抵抗」しながら、同じ至福を引き起こす体験を「探索」し続けなければならなくなります。

この驚異の体験が大きなものであればあるほど、その後、それこそ、特大の欠如の信念の虜になってしまいますよね!

それが、出口のない迷路への道だってことはすでに確認しました。

これといった理由もなく、突然、気持ちが落ち着いてきたり、幸せや愛や、洞察に満たされた体験、ありませんか?

オーストリアの作家、ローベルト・ムージルの自伝的な小説の中で、第一次世界大戦中、火榴弾が鼻の先をかすめて、主人公が吹き飛ばされて、危機一髪で助かる話がでてきます。意識が戻ったとき、地面に横たわっていたのですが、最初に目にしたのが、目の前のモグラ。その瞬間、彼は、強烈な一体感をモグラと感じ、それは、全てのものに広がって、愛そのものの中に抱き止められる様な体験をします。

これも、なぜ、よりによって、この瞬間に? モグラから? と説明しようとしても、説明できません。

もちろん、危機一髪の体験が、心を空っぽにしてくれて、今、ここで直接体験されること以外のものを、吹っとばしてくれたから・・・・とは言えると思います。

ただ、私たち、意図的にそう仕向けることができます。

直接体験されることだけ残して、心が空っぽになるまで、全てを気づきに明け渡し、溶かしていけば、いいだけ。

危機一髪、臨死的な体験をくぐらなくても、

さまざまな偶然によらなくても、

あらゆる体験が、あらゆる瞬間に、その素材に戻り、同じ真理や愛、よろこびや美しさを解き放つ可能性を秘めているのです。

このことが腑に落ちると、自然に、状況に不平をいったり、ジャッジメントすることが、全くできなくなります。だって、何が引き金になるかわかりませんから!

すべてのものが、この意味では、全く平等だってことも、わかってくるからです。

とはいえ、最後の一押しは、自力でコントロールすることはできません。

恩寵としかいえないようなものの力がいります。

というと、稀な体験に聞こえてきて、また、特別な体験への探索が始まってしまいそうですが、

日常茶飯、ごく普通に起きます! 私がここで言いたいのは、

この驚異に近づくために、自分でできることは、コツコツやって・・・それは、まさに「自分」を気づきに溶かしていくことなのですが、あとはおまかせ。

「果報は寝て待て」と言われている様に、あとは忘れてるというのが、一番、いいってことです。

いろいろ期待したり、いつそうなるだろうと、予期して待ったり、

期待通りじゃないぞと、ジャッジしていては、プロセス全体がエゴに乗っ取られてしまい、うまくいきません。

そんなふうに、半分以上は、おまかせ、

わたしはただ、できることをやる。

そんなのんびりした態度で、体験を気づきの中に溶かしながら、受け取り直す・・・

それにつれて、「気づいてみると」、「そう言われてみれば」最近、安らかだな、焦ることなくなったな、感動すること多くなったな・・・

という具合に、理解や愛、安らぎ、そして幸せ、美しさが、生活全体に浸透していきます。

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