非二元のエッセンス

欠如感がなくなると、プー太郎になるんじゃないかと、心配な方へ

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何だか浮世離れするんじゃないかって心配になったかもしれませんね!

私たちの今の文化は圧倒的に、欠如の信念を機動力に動いてます。時間が足らない、お金が足らない・・・から始まって、不足ばかり、問題ばかりを見て、それを何とかしようと日々忙しくしています。こちらの動機で動かされているからです。

だから、それがだんだん癒されてくると、一時的、過渡的に、
「何を目指して、私、これから生きていけばいいの?」と思う時期、あるかもしれません。

そんなことがあったら、いつかもお話ししたように、思い出してください。

自分は、何かいいことがあって、上機嫌の時に、思わず、通りですれちがった見知らぬ人にまで微笑みかけたことはないか? 何かそれ自体をやることが楽しくて楽しくてしかたがないので、やったことはないですか? 仕事をお金のためにというより、それが面白いのでやっていたことはないか? そういう動機は、ますます高まってきます。

欠如感を動機に動くのをやめると、生活全体がシンプルになり、気持ちの上でも、時間の上でも余裕が生まれてきます。

ただ、だからといって、生産性が下がるとは、必ずしもいえません。

実際は有能になることの方が多いはずです。なぜなら、結果をおそれなくなるからです。

うまくいけばうまくいったで、うれしいのですが、それに自分の全てがかかっている感覚がなくなります。成功することで、自分の欠けた感じを満たす必要がなくなるからです。

すでに満たされたところからはじめているので、成果を上げることで自分をこれ以上満たす必要はないのですね。

そんなふうに、結果を気にしないところから、物事をシリアスにとりすぎない感覚、遊びの感覚も生まれます。自由な感覚や、怖いもの知らずの冒険心も出てくる。そうした全てが、あなたのやることなすことの質に反映します。とりわけ、クリエィティビティを発揮できるようにしてくれます。

気づきであることができたあと、次の段階として、気づきであることの本性を探究する段階を踏むようにとルパートさんはすすめています。

すると最初は微かなのですが、噛めば噛むほど味の出るスルメのように、安らぎや愛が奥から滲み出てきます。それが、さまざまな情熱の種になります。

非二元的な癒しが進んでも、活動的な生活は、残ります。

ただ、その主体が、個人的な(分離した)自己から、非個人的な、大きな私になるだけです。

罪悪感がなくなるので、逆に、大胆になったり、冒険を厭わなくなるし、

犠牲者意識もなくなるので、本当の意味で、献身的にもなれます。

私がまず、気づいたのは、エゴが何か決めると、必ず後から罪悪感(自分の意思を通した時)か、犠牲者意識(相手の意思を尊重した時)がつきまとうのですが、

気づきとしての私、もっと大きな私に決定権をあげて、インスピレーションに従うと、淡々と、さっぱりやれることです。

気づきでいる時間が増えて、分離したエゴと自分を同一視することがなくなるにつれ、

厭世的になるどころか、これまでより有能な働き者になることがわかります。

理由は、ずばり、恐れがなくなるからです!

結果を恐れなくなるし、失敗も恐れなくなるし、人がどう思うかも恐れなくなるし、

守らなきゃいけないセルフイメージやプライド、自分にふさわしいこと、ふさわしくないこと・・・もないし、

個人的な嗜好やこだわりもなくなるし、

これまで、視野を狭めて、状況をクリアに見るのを妨げていた感情的な目隠しがごっそり取れるからです。

私の経験からいっても、分離したエゴと同一化することが少なくなるにつれて、

これまで、なんとなく気持ちを重くしてきた気苦労がなくなる分、

余剰エネルギーがたくさん生まれるので、エネルギッシュになれる気がします。

もちろん、エゴと同一視することがなくなると、

いわゆる成功の野心というか、分離を深めて、自分を特別にしようという欲もなくなるので、やる気がなくなるような感じがしますが

でも代わりに、非個人的な全体のために、働く意欲が湧いてきます。

とくに、一体のよろこびを深めたり、確認したり、表現する情熱が湧いてきます。

この情熱も多分、どんな状況下でも、表現できるんじゃないかと思います。

ただ、もし、この移行がどっちつかずに滞ってしまうと、「私はこれから、何のために生きたらいいの?」という心の空白状態が、必要以上に長引いて、苦しいこともあるかもしれません。

脱皮に失敗して、エゴの皮を引きずったまま、膨張した状態へ突入するのは、苦しいです。

そんな自分に気づいた時に私がいつもやっているのは、心の一切合切をリセットする祈りです。エゴの「皮」は、実際、特定の見方、考え方感じ方のセットですから!

自分の見るもの、聞くもの、感じるもの、考えるもの、イメージするもの・・・その全てを、疑うことです。

そして、「私は何にもわかってません。何にも見えていません。ここで本当に起こっているのは何か、見せてください、教えてください」と祈りながら、待機状態で生きます。

祈りの相手は、本当の私、気づきとしての私です。すると忘れた頃に「皮」が外れていることに気づきます。そんなこと、地道に繰り返してきました。

エゴとしての私はいない。たとえば、堀田真紀子は存在しない、・・・名前を持ったあなたは存在しない・・・というのは非二元の決まり文句ですが、

そんな話を聞くと、ニヒルな気分になる人もいるかもしれません。

実態は全然違うし、活動的な生活は残るどころか、ますます活動的になることについて、ルパートさんは、こんな喩えで話しています。

川が勢いよく流れていて、その中にはいろんな渦がある。その一つ一つの渦が、私たち一人一人の心身。たとえばこの渦はルパート、あの渦は、あなたって呼ばれてる。
でも、その渦を一つ一つ取り出して、隔離して、独立した物として、見ることはできるかい?
「存在する」existは、ex-外へ向かって、sisto 立つ。だけど、どんな渦も、川の外へ出して、立たせるわけにはいかないね。渦の一つ一つを、川の外に取り出して立たせられないように、私たちも、全体から、取り出して、立たせられない。

渦が川の全体から切り離せないように
全体から切り離し、境界づけ、それと自分を同一視できるような
エゴは、どこにも「存在」はしないっていえる。

そんなこと、実際にはできないのに、あたかもできるかのように振る舞う時、私たちはエゴに投資することになるんですね。
特別性の自己愛もそこからはじまります。

一つ一つの「渦」を、あたかも、川の流れ全体から取り出し、分離し、「これが私!」って同一化できるかのように振る舞ったり、その仮定の上で、いろんな努力をすることで、どれほど多くのエネルギーが無駄になっているか、考えてもみてください。

そんなことはやめて、全体の意思、川の流れの中で、今、この渦を巻くという、自分の役割を果たしていれば、いいんですね。それが、自然なことでもあるし、楽なことでもあるし、究極的には一番全体のためにもなるという意味で、生産的なことでもありますね。

その時私たちのアイデンティティは、川全体の流れにあります!
だから、他の無数の渦を含む川の流れ全体との一体感が強まり、そこから、安心感と、愛と、情熱が湧いてきます。
これがしっとり系の自己愛です。

心身が、この全体、つまりより大きな私を、
制約を抱えながらも、自分のできる枠内で、ただただ無心に表現する媒体になったとき、
心身も、変容していきます。
川の流れ全体に抵抗せず、それに身を任せる、オープンなしなやかさなものになっていきます。

ルパートさんはそれを、「ヨガ」と呼んでいます。

今の世の中、ヨガといえば、「私は心身」というエゴの前提のもと、
自分のアイデンティティ、プライドや命運の全てがかかっている
心身に、美しく、健やかになってもらうためにやるものだと思われてますが。

もともとは逆で、「私は心身ではない、もっと大きな存在である」と言う前提に、
よりそって働ける、オープンでしなやかな心身をつくるためのものなのです。

そうすると、具体的にどうなるかというと、
非個人的なインスピレーションの流れに乗った生活がはじまります。

私自身は、それが全体の意思なのかどうか、究極のところわかりませんが、とにかくその時その時に、一番しっくりくること、自然に思えることを、流れにのるように、やってます。

結構忙しいです。1日のほとんどを仕事か、仕事のための情報収集や勉強にあててます。外から見ると、ワーカーホリック気味にさえ見えるかも。

でも、何が一番ありがたいかっていうと、やっぱり、エゴで動いていたときのノイローゼ的な感情が、なくなることです。

たとえば、頑張りすぎ、尽くしすぎて自己犠牲意識を持ったり、逆に人を利用してしまったと罪悪感を持ったり、思ったほどいい成果が出せなかったからといって自己嫌悪に陥ったりすることが、少しずつですが、無くなっていきました。

たとえば、こうした文章をどんどん公表することも、以前の私だったら、もっと葛藤あったでしょう。

今、本を仕上げながら、時々思い出して、心の支えにしている言葉は、

「下手くそな本は、書かれなかった名作よりも、ずっとまし!」

って言葉です(笑)。どこで見たか、忘れてしまいましたが。
全体の流れに寄与するって意味では、別に「下手くそな本」で十分なんですね。重要なのは、下手くそな言葉の一つが、それでも誰かに伝わって、共に流れていけること。

本もまた、流れの外に取り出して、独立した物として見ることはできないのですから。

書かないと、私は自分の価値を証明できないから・・・と欠如感から書いてる場合と、
ただ、あふれる幸せを分かち合いたくて、自然に書いてる場合とでは、全然違います。

後者の方が、ずっと楽です。

その違いは、例えば、誰か、「この文章はダメだ」といった批判をしたとしたときに、本領を発揮します。

欠如感から、自分の価値を証明したくて書いてる場合は、承認が得られないと、大ショックです。もうこれ以上文章書いたりしないと思うかもしれません。

幸せをシェアして書いている場合は、もっと距離感のある、冷静な対応ができます。
相手の言うことから学べることがあれば、「指摘してくれてありがとう」と、素直に学び、必要なところは改めるし、
誤解からきてるなとか、単に趣旨を受け入れたくないんだな・・・と思う時には、「ありがとう、でも、私大丈夫です」って感じです。

前者から後者へのプロセスは、徐々に徐々に進みます。私にはまだ進行中のプロセスですが、ただ、以降が進むほど、多産になりました(笑)。気持ちが楽だからです。

もう一つ、普通の人と違うかもしれないのは、忙しくしながら、それがお金になるかどうかはあまり気にしないところかもしれません。実際、ほとんどがボランティアワークです。それでもなぜか、いろんな人や状況に支えられ、生活していけています(笑)!

お金の不安は、欠如の信念の中でも、集合意識からくるものも多く、とても手強いです。私自身、随分、悩まされました。

ただ、それを感じるたびに、次の瞬間には、そこから、全ての説明書き、ストーリーを落として、その時に感じられる身体感覚、「お腹のきゅっとしまった圧迫感」だけ残して、
気づきにゆだね、
この能天気な大丈夫な私の中に、ぷかぷかと浮かべてあげる・・・
本当にそればかり、やってます。

そのうちに、たとえば、不慮の大出費があっても、それまでのようにパニックになったりせずに、
びっくりするほど、リラックしして、
まるで他人のためにやるように、淡々と、冷静に、金策を練っている自分に気づいたりなどするわけです。

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