自己肯定感を高める方法として、私が依拠しているのは、非二元の考え方です。
非二元についてはほとんど知らない私としては、どこに連れて行かれるか不安だと言う人のために、
あらかじめ、簡単に説明しておきますね。
フランス人の非二元のティーチャー、フランシス・ルシールさんは、未邦訳ですが、『真理・愛・美』”Truth, Love, Beauty” という本の中で、宇宙に対するアプローチを大きく三つに分けています。
一つ目は、線の時間の中で変化していく三次元の物質的空間の中に、同じく物質でできた身体の中に、意識を宿らせた、人がいるというアプローチ。物理的な因果関係で動く世界です。
だた、その中にいる人がものを思う思考のパワーは相当なもの。実際、このパワーで、どんどん世界が変わっていくじゃないの? ってことに気づくと、二つ目のアプローチが始まります。
この二つ目のアプローチには、思いが、物理的なものもふくめ、あらゆる現象を作るという立場です。夢を抱いて、それを実現するためのプランを立てて、努力するという通常の方法も、もちろんこれに含まれます。他にも、祈りや引き寄せ、ヴィジョン・ボード、ヴィジュアリゼーションやアフォーメーションなどのテクニックを使って、思いのメンタルなパワーに直接働きかけることで、思いの力を解き放ち、願望を実現するやり方もあります。このあたりから、スピリチュアル系と呼ばれる世界に入っていきますね。
フランシスさんは、そこで起こることを「魔術」magicと呼んでいます。
不思議な世界が始まるからというより(思いの力が、現象に影響を与えるのは事実ですし、常識化するのも時間の問題だと思います)、心が「自分の思い通りの世界を作ろうとする」ことを本質とするものだからです。
自己肯定感を高めたかったら、普通、この一つ目の方法か、二つ目の方法を使いますよね。
それで、ゆたかさでも、賢さでも、やさしさでも、健やかさでも、美しさでも、
これがあったら自己肯定感を持てるものをたっぷり手に入れようとします。
でもこの本は、あえて、そうした方法はとりません。
とはいえ、この方法を、別に、否定しているのではありませんし、私はこのどちらかのアプローチで、頑張ってみたいという方がいらしたら、どうぞそうしてください、応援していますと言いたいです。
ただ、この二つのどちらのアプローチも、それを前提に、この本のテーマ、自己肯定感の増大を目指そうとすると、当たり前ですが、自分に関して、「特定の」望ましい結果を期待して、積み重ねていこうとしますよね。
だから必ず、「そうならなかったらどうしよう?」という恐れがつきまといます。
また、仮に望ましい結果が手に入っても、「いつまで続くかしら? 次もそうかしら? 失うことになったらどうしよう?」と思うことになってしまいます。
つまり、喜びや満足は得られても、その裏には、喪失の恐れや不満がひそんでいます。物質的なものにかかわらず、精神的なもの、たとえば、「幸せな気持ち」であれ、それと名指せ、捉えることができるもの、特定の形をとるものは、必ずそれが失われた時の苦しみと隣り合わせだってことも、だんだんわかってきます。
欲しいものが手に入っても、「何かが欲しい」という気持ちそのものは、いつまでもなくならないのに気づくかもしれません。
「あんなに欲しかったのに、手に入れれば、何てことはない!」と、もっと欲しくなったり、あるいは別のものが欲しくなってしまうというのも、ありますね!
何か究極のものを手に入れれば、あるいは、もっともっと多くを手に入れれば、この連鎖から出られるんじゃないかと、しばらくは、感じられるかもしれません。
それでも、何度もそれを繰り返すにつれ、「なんだか、疲れてきたわ」と思ったり、「なんか、もっと別の、もっと確かなものがあるんじゃないかな?」と思うようになる日が来るかもしれません。
そこで三つ目のアプローチです。
物理的な世界が、心の世界、メンタルな願望の世界が現象になったものであることがわかり、
直接メンタルな世界に働きかけようとするのが、二つ目のアプローチでした。
それと全く同じように、メンタルな世界のあらゆるものが、そこから生まれ、そこへと戻っていく領域があるのです!
そして、いつもそこにいることを目指し、そこを拠点にして生きはじめると、三つ目のアプローチがはじまります。
そこに達すると、「欲しいもの」「欲しくないもの」、「好きなもの」「嫌いなもの」といった区別がなくなり、そのいずれもの、あらゆる心の現象の素材である、二元性を一切知らない、その源に戻ります。私たちの心はそれ自体を捉えることができませんが、その余韻に浸ることなら、できます。
それは、愛や美、安らぎ、幸せ、思いやりに満ちた理解の体験です!
「ちょっと抽象的ね!」と思われるかもしれません。
でも、とても具体的に体験されるものです!
喜びも悲しみもひっくるめて、私の人生、その全てを受け入れます。愛してます・・・みたいな気持ちになったこと、ありませんか?
あるいは、普段通りの日、人生も問題だらけのはずなのに、理由はわからないけれど、すべては何とかなる、大丈夫だって思って、安心感と、静かな幸せに心が満たされたことはありませんか?
あるいは、見慣れた平凡な光景を目にしているだけなのに、
全てが、それなりの、しっとりとした、美しさをたたえて見えてきたことありませんか?
いつもなら醜いって思うものも「いい味出してる!」と思えたことはありませんか?
あるいは、それまで、大っ嫌い、どうしても、ゆるせないって思ってた人について、
そんなわけがあったんだ、無理もないわ・・・と共感に満たされた瞬間、ありませんか?
その瞬間、あなたは、この領域に触れています。
この領域の中では、
喜びも、悲しみも、幸福も、不幸も、美しいものも、醜いものも、あなたの好きなものも、嫌いなものも全て一様に、それからできている「愛」という素材に戻っては、
そこからまた、新たに現れ出ています。
いこの領域に触れた兆候は、すべてを受け入れ、肯定し、しっとりとしたつながりの感覚に満たされることです。
「日々是好日」って、禅語にもありますよね。
雨が降ろうと、風が吹こうと、ありのままにそれを生きれば、
全てが、しっとりとした調和と、つながりの感覚におおわれて、
それぞれの良さ、美しさをたたえて見えてくる。
全てが、そこに戻っては、現れる、この領域から見ると、
毎日が「好日」になるのです。
この非二元的なレベルに照準を合わせたスピリチュアルな教えは、数多くはありませんが、全ての偉大な精神的、宗教的伝統の核心に、しばしば見受けられます。禅もその一つです。
愛と美と、真理ーあらゆるものに対する思いやりに満ちた理解が、そこに、海のように、無限に広がる、
全てが、全てのものの素材に戻り、そこから新たに生まれるこの場所に、いつもいること。
そこにいると、自然に、あらゆるものに「YES」と言える、そんな場所に、いつもいること。
必要なのはそれだけだという、超シンプルなアプローチが、
この本が依拠するものです!
これが本当にできると、すべてが奇跡になります。
二番目のメンタルな願望充足のアプローチでは、期待通りのものを手に入れる魔術を発揮するのが、目標でしたが、
この三つ目のアプローチで手に入るのは、思いもかけなかったもの、想像もつかなかったものだからです。
なぜならそれはあなたではなく、普段のあなたを超えた全体の意思、ずっと大きな視点から現れるものだからです。
*
ちょっと、たとえ話をさせてください。
たとえば、ピアノで神々しい美しさをたたえた音楽が奏でられています。あなたはその手の中の一本の指です。この指の視点からすると、なぜ、こんなに忙しく動き回って、辛い仕事をしつづけなきゃいけないのか、さっぱりわかりません。もっと楽に生きたいなという自分の「願望」を実現するために、いろんなテクニックを使いたくなるかもしれません。
でも、その指に、一瞬であれ、そこで奏でられている、この神々しい音楽が聞こえるとどうでしょう? 心がとろけて、全ての疲れを忘れ、幸福に満たされるでしょう。
そして、「すべてはこれでいいんだ、これで完璧なんだ」ということも、わかるはずです。たとえば、なぜ、今、自分がこんなふうに、走り回っているか、その理由もわかります。この音楽のためになら、もっともっと、喜んで、鍵盤の上を走り回る気持ちも湧いてきます。
ほんの一瞬でも、これを耳にすることさえできれば、これを耳にする前に心に抱いていた、たとえば、もっと楽したい・・・といった個人的な願望のことなど、忘れてしまうでしょう。
あるいは、たとえ実現できても、ここまで深い喜びは与えてくれないってわかるからです。
この指は、これまでも、もっと楽したいという自分の願望を、実現したことはあるのですが、心の底から、幸せを感じたことは実はなくて、何となく満たされない感じが、後に残っていたのでした。だから、すぐに、別の願望を持ってしまい、キリがないなとも思っています。
それもそのはず。この音楽の一部であること、それを自覚しながら、受け入れること。それがこの指の本当の願いだからです。今は忘れてしまっているのですが・・・でも何となく、その幸福の余韻と予感はあるので、個人的な願望がいくら満たされても、なんとなく、物足りない気がしてきたのですね。
でも、今のこの指には、この音楽の神々しさは聞こえません。なぜでしょう?
いつも、いつも、現に自分がやってることとは、別のことをしたいって思ってるからです!「こんなに忙しく、鍵盤の上を走り回るのは嫌だ」、「それとは別の方法、自分のやり方で幸せになるんだ!」って、思いながら、そのことばかり考え、そのために奔走しているからです。
一言で言えば、「今、ここ」を受け入れることに対して、抵抗しているからです!
つまり、この指が、この指の視点で抱く「願望」が、本当の幸せである音楽を聴くのを、妨げてきたのです。
というわけで、非二元的なアプローチをとる時、
私たちは、個、つまり指一本の視点に由来する「特定の」願望を持つことはありません。
というのも、一本の指に過ぎない私、皮膚に囲まれた、この小さな身体こそ自分だって思っている私(そんな私は、この本では「エゴ」と呼ばれています)の視野は、狭くて、限られてますから。
そんな視点から、「自分には、これがぜひとも、必要だ!」と思っても、あまり、あてにならないからです。
私たち全てが、一緒に奏でているこの音楽全体の中で、今、この瞬間、どんな役回りをすればいいのかなど、たった一本の指の視点からはわかりようがありません!
この指が、個として考える「願望」、こうなれば楽になる、幸せになれるって考える方法は、
この音楽の神々しい美しさに浸されるという本当の喜びを、どちらかというと阻害して、音楽を台無しにすることの方が多いのです。
つまり、この視点から、これが必要って思われることをやっても、本当の意味で、幸せになると言う意味では、全て無効。つまり、そんなアプローチでいる限り、何をやっても無駄。
このことが本当にわかると、指は絶望してしまうかもしれません。
でも、それだけでは、話の半分にすぎません。
というのも、この指はすでに、この音楽を奏でてるからです。
すでにこの音楽を体現してるからです!
重要なのはそのことに気づき、そのことを受け入れるだけ。
そうすれば、幸せのあまり、自分がそれ以外にどんな「願望」を抱いていたか、何をしたかったかなど、忘れてしまう可能性、大です!
*
ピアノの上を走り回る指の話に戻りましょう。
ある日、この指は、状況の全体が理解できたとします。するとどうするでしょう?
この指としては、何か特定の願いが頭をかすめるたびに、「私は何が最善なのか、わかっていません」だから、「自分が何を望むべきなのかも、わかっていません」と告白するしかないことがわかります。
と同時に、「私はすでに、音楽を体現している。自分の求めるものそのものなんだ、それがどうぞわかりますように・・・」と祈るでしょう。
そして、この音楽がそこから生まれるところ、
指の一本にすぎない私の苦しみも、喜びも、願いも、おそれも全てひっくりめ、あらゆるメンタルないとなみがそこから生まれ、そこへと戻っていく
この音楽の海の中にいるという、たった一つの最後の願いだけを心に抱き続けます。
そうすれば、あとは全て、自ずとうまくいくと知っているからです。
だって、この「音楽」全体を知っている知性と合流するわけですから!
あとは成り行きと、インスピレーションの流れにのるだけです。
そこには、愛と美と、真理ーあらゆるものに対する思いやりに満ちた理解が、海のように、無限に広がっています。この海の中にいること、この海をいつも心にたたえていることこそ、
本当の自己肯定感の源泉だって、思うんです。
HSPに悩む方へ 非二元の発想が助けてくれる可能性大です!
包容力のある生き方ができるようになります。
私の周りに、とても感受性が高く、感性ゆたかで、過敏なくらいの人が何人かいます。
いわゆるHSP、ハイパーセンシティブパーソンと呼ばれるひとたちです。
「良い」ものを堪能したり、選んだり、つくったり、する力が並外れているし、素敵な世界を自分の周りに築き上げていきます。いわゆる、センスがいい人たちです。
その反面、「悪い」ものを、おぞましく、おそろしく感じる力も並外れている様子。会う人や、環境から、影響を受けやすく、
たとえば、エネルギー状態が「悪い」場所に行くと、体調が悪くなったり、寝こんだりします。
だから、ここは避けたい、あの人は避けたい、そういうことは避けたいと思うものを、どっさり抱えてるのが特徴です。安心して、ほっと一息ついて、生きることができる領域が、少なくなっていきます。
とても微細な世界、スピリチュアルなことや、アーティスティックなことに興味があることが多いです。
でも、アートに深く関わったり、スピリチュアルなことに興味を持って、ヨガや瞑想をすればするほど、敏感さは、強まりますよね。
そうやってますます過敏になりながら、同時に、「悪い」ものを避け、「良い」ものを選ぶ、二元性の世界にいるのは、喜びも多いけれど、生きづらいことも多いと思います。
なぜ、こんなに自信を持って話しているかというと、何を隠そう、私自身、そうだったからです!
私の場合、特にひどかったのは、
「悪い」と感じられるエネルギーを避けようとすればするほど、
ますます、そうしたものに対して、過敏に影響を受けるようになったり、
「悪い」と思われるものの範囲が広がっていったことです。
とにかく人に会うだけで、寝こむ・・・ちょっと変なものを口にしたら寝込む・・・
なんてこと、繰り返すようになりました。
それで、不特定多数の人の前に出るのは、とても無理だって思ったのも、大学教員をやめた理由の一つです。
でも、『奇跡のコース』をはじめとした非二元の考え方と出会って、
全ては愛でできている。どんなものも、どんなに「悪く」、おぞましく見えるものも、素材に戻れば愛になる・・・
「これすらも、愛でできていた!」と、感謝に両手を合わせることができる。
そのことだけを証明しながら生きるようになってから、
人生、一変してしまいました。
そのためにやったことといえば、
「悪く」見えるものを避ける代わりに、
自分の見方が、どこかおかしいのではないかと、
まずは自分の方に向き直る習慣をつけること、それだけです。
*
私たちは、自分を、先ほどのピアノの例で言うと、一本の「指」として、つまり、身体の皮膚の境界に沿って切り取った、分離した存在として捉えることができます。
ただそちらにアイデンティティがある時、私たちは、おそれにさいなまれることになります。だって、分離した身体としての私は、小さな有限の存在で、刻々と死、消滅に近づいているわけですから。
そのおそれを、私たちは無意識のうちに、自分の周りのものに投影して見てしまいます。
たとえば、どこを見ても、足りないところ、不十分なところが見える、
あるいは、どこを見ても、自分を脅かすような恐ろしいものが見えるといった具合に・・・
そこで、この足りないところを補わなければ、
恐ろしいものから、身を守るために、予防策を講じたり、防衛力をつけねばと、忙しく駆け回る人生が始まります。
自分は分離した身体だという前提を持ったまま、HSPの過敏さを抱えていると、投影からくるこのおそれも、どんどん巨大になっていきます!
普通の人だったら、何も気にしないものに対して、たとえば、
「この場所のエネルギーは、ひどいから」とか、
「この人のエネルギー、勘弁して!」と言う具合に!
逃げ回っていた時の私はその極端な状態にありました。
体質の問題だというと、「私には関係なさそうだ」とほっとする方も、いらっしゃるかもしれません。でも、スピリチュアルなことに興味があって、瞑想など普段からされていると、多かれ少なかれ、メンタルな、見えない領域に敏感になってくるので、他人事では済ませないかもしれません。
二元的な発想を持ったまま敏感になると、この手の投影も強くなる可能性大です。
*
でも、同じ過敏さ、感じやすさを、あちこちに「おそろしいもの」を見るためだけではなく、
ありのままの事実を検証するために使うこともできるはずです。
たとえば、自分がそこから逃げ回ってる対象は、本当にそこにあるのか?
自分の見方の方が、おかしいんじゃないか?
自分は本当は、何をおそれているのか? 本当のこの目の前の状況をおそれているんだろうか?
それとも、自分の中にある闇を、そこに投影しているだけじゃないだろうか?
そうやって問いただせば、ただすほど、私の話に戻りますが、
自分は実際、何も知らなかったことが、だんだんわかってきました。
「自分は知っている」と思っていた自分が、自分の投影に対してどれだけ盲目で、
そこからくる決めつけ、思い込みを、周りに押し付けるという意味でどんなに傲慢だったか、
知らず知らずのうちに、自分がどんなに攻撃的に振る舞ってきたかも見えてきました。
そして「悪い」、あるいは怖いと思われるものが見えるたびに、それを断罪したり、避けるためではなく、
そこに自分が投影したおそれを見破るために、自分の感じやすさのすべてを捧げることにしました。
そのやり方については別の記事で、詳しくお話ししていますが、ここでかいつまんでお話しすると、
自分の感じていることそのものを否定するのではなくて、逆に感じつくす。ただ、「今、ここ」で直接体験できることだけを、感じつくすんです。
すると、それに被せているジャッジメント、意味づけは、自然に外れて、不定形のエネルギーが残ります。それを、愛しか知らない、大きな私へ明け渡していくのです。
すると、「悪い」と思われるものを、そう見せている投影元にある罪悪感やトラウマが、少しずつ消えて、愛の中へと溶け込んでいきます。
すると、「え~ これすらも愛でできてたの?」という目から鱗だらけ・・・
やがて、どこにも、愛しか見えなくなっていきました。あらゆるものを、愛というその素材にもどしながら、そしてそこから再び、生まれたばかりの姿で受け取り直す・・・
そんな生活がはじまりました。
全てが素材に戻ったところにある愛、これが私の財産であり、自己肯定感の拠り所であり、私の全て・・・
そう思うことができるようになるにつれて、
怖しいものも見えなくなりました。
それができるようになったのも、恐れ、外に向けて投影するのを、一切止めるって決意したからです。
おそれを外に向かって投影することをやめると、その投影元になっていた、自分の心の闇と向き合うことになります。
これは本当に勇気がいることで、挫けそうになることもあるかもしれません。でも、これ以上、大切なことはないって思っています。
何より、それまで抱えていたおそれが、全て、愛に変わるというとびっきりのボーナスもついてます!
これらの文章が、その旅のお供として、少しでも役に立てば、これ以上、嬉しいことはありません。
特に変な人になる必要も、まわりと議論する必要もない
エゴ、つまり、「指」一本に過ぎない私としては、「何も知らない」謙遜をつらぬくことになるって、言いました。
謙遜・・・・なんていうと、自己肯定感を持つこととは、真逆のことのように聞こえます。
でも、エゴとしては空っぽに徹するからこそ、
本当の自己肯定感が、そこに流れ込む余地が生まれるんです。
このたとえで言えば、宇宙にみなぎる「音楽」が感じられてくる。
それは、本当の自己、本当の私が、自分自身を愛する働きそのもの
喪失の恐れを知らない、揺るぎないものです。
この自己肯定感は、他のアプローチによるものと違って、
いつか自分より優れた誰かに出し抜かれて、自信喪失するおそれもありません。
逆にその誰かも含め、あらゆる人の輝きは私の輝きでもあること、
その人のおかげで、私たちが共有しているこの富がますます露わになって、
共に自己肯定感をますますパワーアップできることに、
感謝します。
他のアプローチで自己肯定感を身につけた人は、
その根拠にできるものは、誰の目にも明らかな、実力とか、財産とか、美しさとか、性格の良さなど、はっきり見て取れることが多いです。
でも、このアプローチによる場合は、「どこから見ても普通の人。でも、なぜだかわからないけれど、この人のそばにいると、落ち着く」といった、説明のつかな不思議な魅力として、感知されることが多いです。形として捉えられるものの中に、その原因が当たらないからです。
説明がつかないから、たとえば、形ある自己肯定感の根拠、実力や富や美しさがふんだんにある時と違って、誰からも嫉妬されたり、反感をもたれることはない利点があります(笑)。
この道をきわめると、変な人になって、孤立してしまうのではないかとか、家族や身近な人になんて言われるだろうかと心配する必要もありません。
この本を開いて、単に、書かれてある読まれるだけではなく、実験をして、それが指し示している体験を積んでいく付き合い方をしてくださると、「月」を指す「指」ではなく、「月」そのものを、体現しながら、生きることができるようになります。
それは、どんな人にとっても、祝福になるものです。
だって、安らぎに反論できる人はいません。
ただ、「指」を持ち出すと、議論が始まる可能性、あります。
特に、「奇跡のコース」とか、「非二元」といった固有名詞、「神」といった宗教性の高い言葉などを使うと、いろんな人がいろんな投影(あらかじめその人が持っている先入観)を、そこに投げかけ始めますよね。どの道が究極かとか、これは怪しいとか・・・議論がはじまるかもしれません。
でも、それに付き合う必要は全然ないし、そういうシチュエーションをわざわざ自分で招く必要はないと思っています。
というのも、重要なのは、跳躍台ではなくて、跳躍した先だからです。
それぞれの人に一番適した跳躍台、つまり、道があると思います。もしこの本があなたに役立ちそうだったら、どうぞ、使ってくださいというのが、私の願いです。
跳躍した先に見えるものは、言葉にすることができません。体験してみて、もしそれが気に入ったら、24時間、それを生きることができるだけです。実は、それが、周りの人とシェアする一番いいやり方です。実際それは伝染力が強いので、受け取る準備ができた人には、自然に伝わっていきます! そのために、誰かと議論を始める必要も、説得する必要もありません。
私がお世話になった人の一人、イギリス人の非二元の教師、ルパート・スパイラさんは、「あなたに学んだことをシェアするために会合を始めようとしているのだけど、何かアドヴァイスしてくれますか?」とたずねられた時、「一緒に瞑想したり、教義について語るのもいいけれど、一番理想的なのは、一見、何の関係もないこと、たとえばみんなで美味しいものを食べるとか、ハイキングをしながら、いつの間にか、みんな、悩みが消えて幸せになってる、そんな状況をつくることだね」と答えました。
というわけで、学んだ言葉そのものよりも、その成果を生きてください!
全てがそれでできてる、愛というこの素材に戻るこの領域を、
私たちの心(思考や知覚の働き)は決してとらえることができません。
でも、少しでもそれに触れればわかります。
自分自身も含めて、全てがそこから生まれ、そこへ戻っていくことをどこかで知っているからです。我が家に戻るような、懐かしさが心にいっぱいに広がっていくからです。
それが、「どこから見ても普通の人」が発する「説明のつかない不思議な魅力」の実体です!