非二元のエッセンス

思考に気づいてることからくる恩恵さまざま

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思考が気づきのフィールドに浮かんでいるのを見届ける

もう一度、ルパートさんの気づきの定義に戻りましょう。彼によると気づきとは、です。

1、それによって私たちの体験が気づかれ

2、その中に私たちの体験が現れ

3、それで、私たちのあらゆる体験ができている。

体験が気づきの空間に現れるのは、何となくわかってきたけれど、そこからあらゆる体験が現れるという感じは、まだよくわからない・・・そんな方もいらっしゃるかもしれません。

気づきからできているのが、比較的わかりやすい体験として、私たちの思考があげられます。

思考は、他の様々な体験の中でも、気づきという素材に戻りやすく、気づきからできていることわかりやすいです。

思考を気づきのフィールドに浮かべる実験をしてみましょうか?

目を瞑り、何でもいいので、思いついた思考を、ゆっくり、一語、一語の間に間を置きながら、

心の中で、唱えてみます。

初めは、中立的で、無難な思考がいいかもしれません。

たとえば、「今日は・・・・いい・・・・天気だな」など。

その時、言葉そのものではなく、これらの言葉が現れる空間に注目します。

たとえば、メールがパソコンのスクリーンに現れるように、

雲が空に現れるように、

これらの言葉もどこかに現れるはず。

その空間をじっくり感じるように、ゆっくり、あなたの思考を、言葉で唱えてみてください。

言葉と言葉の合間、「今日は・・・・いい・・・・天気だな」の「・・・」に何があるかも、注意してみてください。

それは、言葉がその中に現れる、言葉を取り巻く空間と同じものでしょうか? 

同じものだって感じられてきて、すべての言葉が、この空間にひたひとに浸されているように感じられてきたら、もう一つ、確認して欲しいことがあります。

一つ一つの言葉は、言葉が現れる背景をなすこの空間から現れて、その中へ消えていくでしょうか?

それともどこか別のところからやってきて、別のところへ、去っていくでしょうか? 

はっきり感じられるまで、ゆっくりと、言葉を唱えるというのを、繰り返してみられると良いかもしれません。

次に確かめていただきたいのは、

あなたは、ここに浮かぶ思考でしょうか?

それとも、それが、そこから現れては消えていく空間でしょうか?

ということです。

思考は絶えず現れては消えていき、絶えず変化し続け、落ち着きがありません。

それに対して、この空間は、いつも不動のままです。

思考を自分自身だと思うと、しょっちゅう内容が入れ替わるので、実際、大変ですよね! 

思考そのものではなく、思考をとりまく気づきの空間こそ自分だと思ったら、

実際に、リラックスしながら、この空間、フィールドの中に、すーっと沈みこむように、身を浸してみましょう。

安らぎや、やさしさが、感じられてきませんか?

そしてだんだん、その中に浮かんでいる思考も、このやさしさに浸されて、だんだん溶けていく感じがするかもしれません。

雑念にとらわれたら?

よく、「私は雑念が多くて瞑想できない」あるいは、瞑想に限らず、いろんなことに「集中できない」という人がいます。

思いがいろいろ湧いてきたら、そうした思いを消そうとする代わりに、

様々な思いがそこから現れては消えて行くこの空間の方に注意を向けて、

私はこの空間だって感じながら、安らいでみるのはどうでしょう?

するとだんだん、一つ一つの思いから、私たちの心に引っかかるような、刺々しいところが失われ、心をかき乱したり、振り回したりする力が失われていく感じがします。

気づきの空間が、ショックを和らげる緩衝剤のように働くのですね。あるいは尖ったところを、丸く、なめらかにしていく気がします。

そのあと、私の場合は、思考が、思考の内容としてより、身振りとして感じられてきます。

たとえば、同じ物語も、芝居でみるのと、バレエでみるのは、随分違いますよね。

芝居の時は、言葉が主体ですが、バレエは、身振り主体です。

気づきの側から思考を眺めると、その内容が、だんだん、お芝居モードから、バレエモードで感じられてくるのです。要するに、そこから言葉で表されるようなはっきりした内容がだんだん後退して、ただただ、身振りとして感じられるようになるんです。

で、だんだん、ダンスを眺めて楽しんでいる自分に気づくわけですが、

で、このダンスは、いったいどこから現れているかな? と見てみると、

この気づきの空間を浸す、液状の光が、一瞬、一瞬、いろんな身振りをとっていることがわかるというわけです。

気づきのフィールドが、ダンスをしていて、それが、思考として感じられる。そのダンスを楽しんでいるうちに、思考の内容には、振り回されなくなって、最後には、気づきのフィールドのやさしさを感じるばかりになってる自分に気づくかもしれません。

私が、気づきの空間の側から思考を眺めたときに、よくある体験です。


思考別・気づきのフィールドへの溶け込み方

でもそれは、思考が気づきの空間の中へと溶け混むことで、その素材に戻るプロセスがはじまる一例にすぎず、それがどんなふうに、どれだけ速やかに起こるかは、人それぞれ、状況次第かもしれません。

また、ひとえに思考と言っても、いろいろあって、気づきというその素材ととる関係もさまざまです。

非二元のティーチャー、フランシス・ルシールは、思考を三つに分けています。

一つ目は、高次の思考。真理・愛・平安・美など、究極のリアリティの様々な特性をめぐる思考、一言で言えば、気づきについての思考です。とはいえ、気づきそのものはどんな思考内容も超えたものです。だから、この思考も、禅のたとえを使えば、月を指す指のようなものです。指は、月自身ではありません。

つまり、この思考は、気づきの体験そのものに至るための跳躍のようなものに過ぎない。この役目を終え、その思考が指すものと、私たちが一つになった瞬間、忘れ去られ、そして、気づきの中へと溶けていきます。

世界にさまざまなスピリチュアルな伝統があります。道そのものはとても多様です。でも、真正なものである限り、いつも同じリアリティを指しています。それは、それを体験した時に確かめられます。

たとえば、どのティーチングが優れているか、究極のものか、議論したがる人がいます。私がコースから、非二元の学習に集中し始めた時も、いろいろコメント、忠告してくれる人、いました(笑)。でも、いつも、「月」を指す「指」に関わる話だってこと、わかります。「指」が指す「月」、リアリティそのものを見ると、全く同じものを指していることがわかります。そしてその同じものの中で、異なるように見えた思考も、溶けて一つになっていきます。

二つ目は、生きていくにあたって必要なことにまつわる実用的な思考です。たとえば高度な思考を要する専門職についていらっしゃる方、いますよね。その思考は、職務を果たしている間、その思考は明晰である必要があるし、忘れたら困ります! 

ただ、こうした思考を駆使することに、自分のセルフイメージの維持や、プライドや、存在価値や、幸せがかかってると思うと、欠如の信念の磁場に入ってしまいます。

必要な時に、自分にできる必要なことを、全力で、でも、個人的にならずに、淡々とやる。

そして、必要のない時は、忘れる・・・

そんな、さっぱりした、非個人的な態度でいるのが、肝心なんじゃないでしょうか。

そうすれば、「自分の能力は、不十分じゃないか」と事前に悩んだり、

後になってから、やったことの結果を必要以上に気にしたりする、

欠如の信念からくるノイローゼに陥らずにすみます。

必要がない時には、忘れていることで、思考は気づきのフィールドに溶けていきます。

また、思考を活用している時も、「私が考えている」と思わないで、

気づきが気づきに気づいているように、

思考が思考に気づいている、思考することだけがただあると思うことで、

その思考は気づきのフィールドとの親和性を保ち続けます。

それはどういうことか、ここで思い出されるのは、ガンジーの受託主義です。

彼は、自分の持ち物、能力、すべて、自分の「所有物」ではなく、自分に「託されたもの」だとみなし、

それを上手に維持管理、できれば増大させて、全体のために役立てる義務を負ってるって考えるることを勧めました。

ただ、どうすれば、それができるかは、あくまで、その人の裁量に任されている。国家権力などが取り上げたり、指示したりはしない。そう言う意味で、「託されてる」わけですね。

みんながそう考えることができれば、自ずと、全てが全体の利益のために投入されます。

そんなわけで、ガンジーは、個人所有の概念は、信じていませんでしたが、社会主義のように、所得を取り上げて再分配するのも、すすめませんでした。

なぜなら、本当に全てを上手に管理できるのは、神的な意識であり、それは結局、あくまで個々人の心の中にある。国家などの集団の中、その権力中枢の中にはないからです。

この受託主義、外側だけを見ると、私たちが今いる資本主義社会とほとんど変わらないように見えます。ただ、本質的な違いは、財産や能力を管理したり使う主体を

その人のエゴ→その人の内なる神性(気づきやスピリットと呼んでもいいと思います)

へとシフトさせるだけなんですね。

話がずれたように見えますが、

この考え方、職業的・実用的な思考をどんなふうに、気づきの中で、気づきと親和性を保ちながら駆使するかについて、いいヒントになるって思ってます。

たとえば、今、私が今、この文章を書くにも、思考がたくさん投入されていますが、

その思考を、私は自分のものだと思っていません。気づきのフィールドに現れた思考を、とりあえず、預かり、託されてるって考えています。それを自分のできる範囲で、できるだけ、全体のために生かそうと思って、この文章を書いています。

山火事を消そうとするハチドリについての、インディアンの話、ご存知でしょうか? 山火事が起こっている時に、ハチドリは、水を一滴ずつ、一滴ずつ運んでは、炎の中に、ポトリと落としています。「一体何をやっているんだ!」とたずねられて「私は自分にできることをやっているのです」と答えた、あのお話です。まさにそんな気分でやっています。

ただ、このすべては、自分の仕事ではなく、自分に託された仕事

私の思考があるのではなく、ただ、私の目の前に現れ、託された思考がある

そう思うことで、

「できることをやる」前に、これっぽっちしかできないことについて、くよくよ悩んだり、

「できることをやった」後に、その結果を必要以上に気にしたり、それについてくよくよ悩むことがなくなります。

できることを淡々とやった後は、それについてキッパリ忘れる、さっぱり感がたまりません!

とはいえ、真剣です。私という、分離した心身の持つ特性、できること、全て、使ってもらおうと、いつも、宇宙の人材バンクに登録しているような気分でいます。そして、お呼びがきたと思ったら、それがどんなに自分のセルフイメージに反していても、淡々とそれをするようにしています。

三つ目は、まさに、この手のことを、「くよくよ悩む」ことにまつわる思考ですね(笑)つまり、欠如の信念から派生する思考です

欠如の信念に駆られながら、どうしたらこの欠如感が埋められるだろうと策略をめぐらせる思考などですね。

この手の思考を抱いているのに気づいたら、その思考が命じることではなくて、その思考が、そこから湧いてきた欠如感そのもの、くよくよ悩む悩みの核心、「ヒキガエル」を直視し、直に感じるのが一番です。

それについては、すでにお話ししたので、ここでは詳述はしませんが、

そこから、思考が、気づきの中へと溶けいるプロセスが始まります。

ただ、どんな場合も、共通点として言えると思うのは、

それは、努力してやるというより、自然に進むプロセスだということ。

雑念を消そうとすると、ますます雑念が湧いたりしますよね。あれは、自分でやろうとするから。エゴに抵抗するのはエゴ・・・の悪循環に入ってしまいます。

私たちとしてやるべきなのは、ただ、気づきの側から、自分の思いを眺める、それだけで、あとは、その気持ちよさの中で、安らいでいればいいのだと思います。

思いがなかなか消えなくても、どうぞ、気になさらないでください。

ただ、私がここでお話しさせていただいているヒントを活用しながら、気づきの側から眺める実践だけ、自分のペースで続けていらしてください。

自分が抱く、あらゆる思いや感情、感覚、知覚をいつも気づきの側から、気づきとしてホストし続ける、それだけを、コツコツやっていると、遅かれ早かれ、

それらがすべて、気づきの空間から現れては、その中に溶けこんでいく、広大な海のように感じられる時が、いつかやってくると思います。

この海は、愛と安らぎと美しさと、理解・・・でできています。この海の水嵩、思いや感情、感覚や知覚を一つ、そこに溶けこますごとにますます増して行く水嵩が、しっとり系の自己愛で生きる人たちの財産です。この財産が増えるにつれて、これと言った理由もないのに、心に安らぎや、やさしさや、よろこびが満ちてくるのにきっと気づかれると思います。それは、周りの人にも伝染していきます。「あなたといると、なぜか落ち着く・・・」という人が、きっと増えていきます。

思考と自由な関係を持つ

自分の思いを、気づきの空間の方から包みこむときに感じられるやさしさと、安らぎ・・・

この感じが大好きで、いつもいつも、

何を考えるにせよ、思考そのものよりも、思考がその中に現れる、この気づきの空間の方に意識を置くようにしています。

思考に対して、ゆるやかで余裕のある、安らかな関係が持てるようになります。

何かの思いにパラノイアのようにとらわれたり、

同じ軌道上をぐるぐる回る、プログラミング通りに動くような思考パターンからも自由になれます。

アウシュビッツの最高責任者だった、アイヒマンの裁判のドキュメンタリーを見たことがあります。彼は、普通の、職務熱心な役人に見えますし、頭脳も明晰で、質問にテキパキ答えます。与えられた職務を完璧に遂行するということにかけては、とても優秀な人だったことがわかります。

ただ、自分が考えていること、またそれに則って行動しているときに、それに気づいていることだけができなかったのですね。だから結局、自分が何をしているかについての自覚が欠けていたのです。

思考は気づきを欠いていたまま、発達を遂げることもできます。マッドサイエンティスト的な発達になりますが。たとえば、稼働し続ける限り、何万年単位でしか処理できないような毒物を廃棄物として出し続けるような発電所を作ったりする知性も、その一種かもしれません。設定された目標の内部では、辻褄がとれていて、優秀で、目先の問題はテキパキ片付けていきます。でも、こうした全ての思考は結局何のために? といった問いを発することはない。つまり、どんなに素晴らしい知性でも、気づきを欠いていると、同じレベルでしか、機能しない。メタレベルに働くことができないのですね。こんなふうに、思考が自動運転して、与えられたレールを走るばかりになる背景には、いそがしさも、絡んでいると思います。つまり、立ち止まって考え直す暇がないと、一定の軌道上をぐるぐる回る思考の中に囚われやすくなります。

それでも、気づきの側から、自分の思考を見つめながら思考する習慣をつけると、

い。でも、自分の思考にいつも気づいている習慣をつけることで、忙しい中でも、自覚的に生きることができると思います。

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