私は『奇跡のコース』をある程度インテンシブにやったあと、ルパート・スパイラさんや、その師、フランシス・ルシールの非二元のティーチングにも、たくさん助けられました。とくにこの気づきの章の話は、そこで学んだことが、たくさん生かされています。
非二元はコースのように、丁寧にエゴの投影を洗って、丁寧にそれを手放すことはしません。
だから、頑固な思い癖や、なかなか手放せないトラウマなど、抱えている人は、そちらの方法をおすすめします(別著に詳しいです)。
反面、非二元のいいところとして、エゴを過大評価ことがあげられます。
要するに、エゴを、全て、単なる心の「癖」とみなすのです。
脆弱で、老い、朽ちていく身体と、自分を同一視することからくる恐れに基づく
さまざまな思い癖の総体をエゴだって考えるのです。
「癖」にすぎないものを、まるで独立した人格のように扱ってしまうので、話がややこしくなるんだ・・・っていうんですね。
「話がややこしくなる」一例として、「エゴに抵抗するのはエゴ」の悪循環にはまり込んでしまうお話し、すでにしましたね。ありのままの状態に不足を見て、より良い状態を模索しようとする心の癖そのものがエゴなのだとすれば、それを叩いて、より良い状態、神であれ、スピリットであれ・・・を求めようとしても、エゴを強化することにしかなりません。
ではどうすればいいか。まず、自分であれ、人であれ、エゴの「癖」が出ているなと思ったら、単に「癖がまた出てるな」と思うだけ。それ以上に深刻になったり、非難する必要はないことです。
誰かが、右手ではなくて、左手で、ドアを開ける癖があるからといって、その人の存在価値を疑ったり、この人はダメなやつだと思ったりはしませんよね。その人の本質は、別のところにあるってわかってますから。
そんな具合に、私は「いかにもエゴ」の思考が自分の中で始まっても、
あるいは目の前の人が、それを大声でわめきはじめても、「また癖が出たのね」と思うだけ。
仮に、その人の全人生(あるいは全ての前世?)を、生まれた時から今まで早回しで見ることができたら、こんな「癖」があるのも、無理もないって思うだろうなって、想像してみたりもします。
人も自分も、ジャッジしてはいけない・・・っていくら自分に言い聞かせても、難しかったりしますが、単なる癖だと思うことで、そこからごっそり、ジャッジメントが抜け落ちる、便利な方法だって思ってます。
そして、とりあえず、そのままにしておきます。
と同時に、気づきの側から、気づきの中で、それを眺めます。
具体的にどうするかというと、
私は不快だ と思う代わりに
私はこの不快な体験に「気づいている存在だ」
と思うだけ。
そしてこの「気づいている存在だ」というところに、意識を完全に移します。
そうしながら、力を抜いて、リラックスすると、この「気づいている存在」が空間になって
この「不快な体験」を包みこんでる感じがしてきます。
気づきが空間として感じられたら、とりあえずその中にこの体験を浮かべて、
フォーカスしないまなざしで、見つめるだけ。
やることといったら、本当にそれだけです。
そこからあらゆる軌道修正の力、傷ついた心を癒す力、必要のないことは忘れる力、そして、その場の状況で必要なことがあれば、感情的にならずに、また、個人的な嗜好や主義、ポリシーなどに引きずられずに、淡々とする力も湧いてくるからです。
そしてその力は、遅かれ早かれ、何らかの形で、周りの人にも伝わって、トラブルを緩和するような、いい影響を、全体に及ぼしていきます。
本当に、それ以外、何もする必要がない。いろいろやろうとするから、ややこしくなり、エゴのループから出れなくなるんだってことも、痛感しています。
よくあるのは、別の「癖」でこの「癖」を矯正しようとすることですよね。たとえば目の前でわめいている人に対して、自分が学んだ何らかのティーチングに基づいて、「この人はまだまだだ、・・・」などと思ったり、説教したりすることですね(笑)。
ひとえに「癖」といっても、身体に深く埋め込まれ、感情的な反応も伴うようなものも確かにあります。
そんなときは、「癖」にすぎないものを本人と混同して、「そんな人なのね」と決めつけたくなる誘惑も、ひとしお。
そこをあえて、「癖」と割り切り、波立つ心をただ気づきの側から見守り、その人と、そして私の、この共通の本性として、いつも変わらず完璧な姿を見届ける。
それを根気強く、気長に、そしてきめ細かに(例外なく!)、今日もやってるところです。