非二元のエッセンス

自分自身であること、ただそれだけから流れこむ究極の癒し

  • LINEで送る

世界という夢全体を夢見る意識、気づきとしての私をとらえることの難しさは、太陽が自分自身を知る難しさに似ています。

太陽は周りを明るく照らし続け、全てを見えるようにしています。太陽の周りには、自分が明るく照らしたせいで、見えるようになった星がたくさん見えます。

でもそんな太陽に、あなたは誰? とたずねるとどうでしょうか? 太陽から見えるものは、すべて、太陽ではないですよね。太陽が自分自身を知るには、照らし、見えるようにする働きを、それと知りつつ、行うしかないですね。

気づきとしての私たちが、私たち自身を知るのにも、似たところがあります。目に見え、形で捉えられるものすべて、つまりそれと気づけるあらゆる体験内容は、私たち自身ではありません。

太陽が明るく照らし、見えるようになった星はすべて、太陽ではない。それはあたりまえですよね。

でも、私たちはというと、私たちが照らし、気づいている体験内容と、自分を混同することがよくあります。

そのせいで、純粋な気づき(気づきの働きそのもの、太陽にとっての照らす働き)だけを抽出して、「それが自分」だと思うことが難しくなっています。

たとえば、何か不快な体験をすると、その不快さは私につきまとい、私自身まで惨めな存在のような気がしてきます。
「気づきとしての私は、不快さに気づいている」というより、
まさに「私は不快だ」私=不快って、感じられてしまうのですね。

この手の混同の背景には、身体の存在があります。
体験はしばしば、感情を引き起こしますが、
その感情から、とくに思考を外して、直接体験できることだけを残すと、わかることですが、
感情の奥には、身体感覚があります。

その身体感覚が、「私たちの意識(気づき)は身体の皮膚の境界の内部に閉じ込められている」という信念と出会うと、どうしても、「同じく、この身体の中に感じられる、この感覚こそ私」って思わせてしまうのですね。

とはいえ、体験内容と気づきの癒着状態からの抜け口は、見つかります。

私たちの意識(気づき)は、身体の皮膚の境界線の内部に閉じ込められているという信念を、手放せば、いいだけです。

実際、これから実験して、確認していくように、気づきは、身体の中に閉じ込められているものではありません。

気づきのフィールドは、私たちの内と外に、継ぎ目なく広がっている

というわけで、気づきの中で体験をとらえる実験を、もう少し、やってみましょう。
まずは、思考をめぐる気づきから。

目を瞑り、何でもいいので、思いついた思考を、ゆっくり、一語、一語の間に間を置きながら、
心の中で、唱えてみます。

初めは、中立的で、無難な思考がいいかもしれません。

たとえば、「今日は・・・・いい・・・・天気だな」など。

その時、言葉そのものではなく、これらの言葉が現れる空間に注目します。
たとえば、メールがパソコンのスクリーンに現れるように、
雲が空に現れるように、
これらの言葉もどこかに現れるはず。

その空間をじっくり感じるように、ゆっくり、あなたの思考を、言葉で唱えてみてください。

言葉と言葉の合間、「今日は・・・・いい・・・・天気だな」の「・・・」に何があるかも、注意してみてください。

それは、言葉がその中に現れる、言葉を取り巻く空間と同じものでしょうか? 

同じものだって感じられてきて、すべての言葉が、この空間にひたひとに浸されているように感じられてきたら、もう一つ確認して欲しいことがあります。

言葉は、その中から現れて、その中へ消えていくでしょうか?
それともどこか別のところからやってきて、別のところへ、去っていくでしょうか?

この空間から、すべての言葉が現れ、また消えていくように感じられてきたら、それは気づきの空間です。

もう一度、それを感じながら、両者の間を行ったり来たりして、確かめてみてください。

と同時に、問うてみてください。あなたは、ここに浮かぶ思考でしょうか? それとも、それが、そこから現れては消えていく空間でしょうか? 
思考は絶えず現れては消えていき、絶えず変化し続け、落ち着きがありません。
それに対して、この空間は、いつも不動のままです。

思考を自分自身だと思うと、しょっちゅう内容が入れ替わるので、実際、大変ですよね!

今度はリラックスしながら、この空間の中に、すーっと沈みこむように、身を浸して、安らいでみましょう。

何を考えるにせよ、こちらの気づきの空間の方に、なるだけ身を置きながら考えてみてください。
心がだんだん静かになり、思考に対して、ゆるやかで余裕のある関係が持てるようになります。何かの思いにとらわれ、思い詰めたり、振り回されなくなっていきます。

先今度は、身体感覚を気づきの中でとらえてみましょう。
服が肌に触れる感じ、足が椅子や床に触れる感じ、あるいは、凝りや違和感、何でもいいので、今感じていらっしゃる身体感覚に注意を向けてください。

それがありのままであることをゆるしながら、ジャッジメントなしに、ゆったりと感じてみてください。そうしながら、この身体感覚が、あなたである気づきの空間にすっぽりと包まれ、浸されていくのを感じてください。

この気づきの空間は、先ほど、身体感覚に気づいていたときに感じられた気づきの空間と同じものでしょうか? 違うものでしょうか? 

これらの二つの間を行ったり来たりして、ぜひ確かめてください。

両者の気づきの空間の間には、切れ目があるでしょうか? それとも、一つにつながっているでしょうか?

これまで注意を向けた思考も、身体感覚も、いわゆる私たちの「内」で感じられるものですよね。今度は、外界の側にある体験、聴覚、視覚といった知覚で、同じことをやってみましょう。

何でもいいので、今、聞こえる音に、注意を向けてみましょう。

まずは、単に音を聞いて、さまざまに反応しているのを自分と思う、普通の状態で音を聞いてみます。

その後、音に気づいている気づきの空間の側から、その中へと、音を迎え入れるように、音に気づいてみてください。音がありのままに、そこにあるのをゆるす感じです。音を気づきがすっぽりと包み、浸しています。

この気づきの空間は、先ほど、身体感覚や思考に気づいていたときに感じられた気づきの空間と同じものでしょうか
? 違うものでしょうか? 

これらの三つの間を行ったり来たりして、ぜひ確かめてください。

両者の気づきの空間の間には、切れ目があるでしょうか? それとも、一つにつながっているでしょうか? 皮膚の境界と思われるものを通り過ぎた時、気づきにも境界線があるように感じられましたか?

今、ここで直接体験されることだけに依拠してください。

音をめぐる気づきの空間がなかなか感じられない場合、そこにジャッジメントがある可能性があります。例えば騒音など、この音は嫌だと思いながら、聞いても、なかなか気づきの空間の中に浮かべることはできないと思います。

とはいえ、いまだに、その音に対して、好感反感、ジャッジメントを抱いて反応することから抜け切れない自分に気づいても大丈夫です。

反応する自分がそのままであることをゆるしながら、そんな自分に気づけばいいだけです。

ありのままの音に気づく気づきも、

音を聞いて、ジャッジしてしまっているあなたのありのままに気づく気づきも同じものです。

気づきと合流するのに、遅すぎることはありません。

とはいえ、最初は、騒音のような、ジャッジメントを外しにくいものではなく、
中立的な音を使われるのをおすすめします。

この実験を重ねるにつれ、音を包みながら、音に気づく空間を、「沈黙」として感じられるようになるかもしれません。日本庭園の鹿威しの音はその前後に、強く静けさや、沈黙を感じさせますが、それは、この気づきの充溢を意識にのぼらせているだけなのですね。

気づきとして、音を受け入れるように、つとめるにつれ、
普段聞こえる音でも、同質の沈黙を感じるようになります。

音がしない時に、そこにあらかじめ、気づきをみなぎらせてから、音を迎え入れると、音がこの沈黙(=気づきの充溢)から湧き上がり、鎮まるにつれ、この沈黙の中へと、再び消えていくように感じられます。

芭蕉の俳句、「古池や 蛙飛びこむ 水の音」も、同じ体験領域をめぐって出てきていることがわかります。

同じことを、視覚的体験でやるのも、楽しいかもしれません


これまで実験で確かめてこられた、思考や、身体感覚をめぐる気づきの感覚を、呼び起こしてみてください。

そうやって、気づきの空間に骨の髄まで浸されたところで、ゆっくり目を開いてみます。
あなたの目に入るものも、同じ気づきの空間に、ひたひたに、浸されて、見えませんか?

視覚的な体験の全体を、ありのままに、気づきの空間にひたひたに浸して、迎え入れている自分に、ただ気づいていてください。

気づきの中に、視覚的な体験の全体が浸されているのが感じられない場合、
やはり、そこにジャッジメントが介在している可能性があります。

今見えているものを、ありのままに受け入れることができず、
たとえば部屋が散らかっていて、嫌だなとジャッジしながら、それに反応してる感情や身体感覚がそこに見つかったら、
今度は、そんな自分自身が、ありのままであるのをゆるしながら、
そんな自分に気づいてみてください。

あなたのありのままをゆるしながら、それに気づいている気づきの空間が、次第に、あなたの視覚的な体験も、包みこむのを、ゆるしてください。

そして、あなたの視覚的体験と、それに対して、ジャッジメントや好き嫌いで反応するあなた、
その両方を、とらわれなく、そのまま受け入れる
大きな大きな存在になって、
体験の全体をすっぽり包みこむように、気づいてみます。

しだいに、空間全体が、静かな静かなやさしさで、浸されていくように感じられるかもしれません。そうなったら、良い兆候です。

思考、身体感覚、聴覚、視覚をめぐる気づきについて、一つ一つ検討していきましたが、
実際の体験は複雑で、そこには様々な思考や知覚が渾然一体になっています。

音楽のたしなみがある方は、音階練習や、リズム練習など、されたことあると思います。実際、曲を演奏する時には、そのあらゆる要素が渾然一体になっています。でも、音階練習やリズム練習をしたことがあるかないかで、演奏の仕上がりに差が出てきます。

今、紹介した実験は、音楽における音階練習やリズム練習にあたると思ってください。

この練習を重ねるにつれて、
そのうち、いつでも、その瞬間、瞬間の体験の総体を、同じたった一つの気づきの空間、あなた自身である気づきの空間の中に浮かべて眺めることが、できるようになると思います。

それに慣れるにつれ、世界観が、全くひっくり返るのを体験されると思います。

私たちの現行の文化、唯物論的な世界観の中では、まずは、物質でできた三次元の空間があり、その中にやはり物質でできた身体があり、その中に、意識(気づき)があるという信念が主流をなしています。

でも直接体験の中で、あらわになるのは、まず気づきの空間が広がっていて、その中に、さまざまな思考や知覚や身体感覚が、まるで星でも瞬くように瞬いていること。

これは、カンディンスキーの最初の抽象の水彩画ですが、これによく似ています。この絵の白い下地が、気づきの空間です。

この気づきの空間に浮かぶさまざまな思い、身体感覚、聴覚的、視覚的知覚を、
私たちの概念的な思考が、事後的に、グループに分けしたり、整理していき、
その結果、物質でできた三次元の空間があり、その中にやはり物質でできた身体があり・・・といった世界の中に私たちはいるように見えるというわけです。

それでも、絶えず、直接体験に立ち戻り、
自分の全体験がその中に、浮かび上がる、この下地、気づきのフィールドこそ、本当の「私」だと確認し続けることで、
どんな時にも、静かな安らぎが感じられるようになります。

自分自身であること、それだけから、癒しが流れこむ

それは、究極の癒しだと思っています。
普通癒しは、私たちの体験内容を操作して、変えて、好ましいものにしようとしますよね。
例えば、不快感を感じていたら、それを何とかして除去して、快くなろうとします。

でもこの癒しは、体験内容は、全然いじらず、逆に、全くそのままであるのをゆるすんです。
ただ、この体験内容が、その中に浮かんでいる下地、気づきの空間こそ、自分だと視点を変えるだけ。たとえば、「私はこの不快感ではなく、この不快感に気づいている存在だ」と、視点を変えるだけ。
すると、この下地、純粋な気づきな空間の本性である、安らぎと、一体感、愛と、美が、心を満たし始めます。

この癒しは、努力したり、特定の手続きを正しくやることで、やっと手に入るものではありません。だって、それはあなたなのですから。あなたがあなたであるために、何か努力がいるでしょうか? 逆に余計なことを一切やらないで、ありのままに徹し、力を抜いて、フォーカスをゆるめていくことで、得られます

不快さは、依然としてあるし、あっても、全く構わない、気にならない・・・そんな状態をめざすんです。ひたすら照らすことを本性とする太陽が、自分が照らすことになったものの一部が、醜く見えたりするのを苦にするでしょうか? ただただ、無差別に照らす喜びが続くばかりです。そうすることで、醜くみえるものも、次第に、明るく輝いてくるかもしれません。

結局、不快感がなくならないのだったら、同じじゃないかと思われるかもしれません。いえいえ、もっと根本的なところで、革命が起こっているんですよ。

というのも、あなたは、自分の幸せを、自分が体験することの如何に左右されながら、体験内容のいかんを苦にしながら、
だから体験内容が望ましいものになるように、いつもいつも、コントロールしながら、一生過ごしたいでしょうか?

それとも、雨の日も晴れの日も、全く変わることのない幸せ、
太陽にとって照らす働きがそうであるのと同じように、
自分自身の本性そのものなので、絶対に損なわれることも、なくなることもあり得ない幸せを
いつもいつも感じながら、生きていきたいでしょうか?

そんなふうに言うと、難しく感じられるかもしれませんが、
実際には呼吸のように、自然なプロセスです。

たとえば、私は毎日、ピアノの練習をする時間をとっているのですが、なかなか時間がとれなくて、夜遅くになることがあります。近所はないので、迷惑になったりすることはないのですが、ただ、その後、すぐに寝ようとしても、頭の中でさっきまで弾いていた音楽がぐるぐると響き続けてやまなくて、眠れなくて困ったなと思うことが時々ありました。

ただ、ある夜、気づいたのは、「困ったな」と思う自分が、どれほど、この体験に抵抗しているかってことですね(笑)。それで、気づきの空間として、この体験を迎えようと思いました。
リラックスして、フォーカスをゆるめて、ただ、頭の中で音がぐるぐる響き続けるのを、
ありのままにゆるすんです。

すると、だんだん、音がやさしくなり、綺麗な模様を描いて、くるくる舞う視覚的なイメージも湧いてきました。そして、その美しさに見惚れているうちに、いつの間にか眠りにおちていました。

(ここでご紹介したワークを組織的にやるルパートさんのヨガ・メディテーションの会、オンラインで1〜2ヶ月に1度、開催しています。ご興味のある方は、私までメールください makikohorita*gmail.com  *に@を入れてください)

  • LINEで送る