特別性の自己愛と、しっとり系の自己愛の違いを味わう実験
ここのところのブログ記事で、「しっとり系の自己愛」について、お話ししてきました。
これを確実に感じるための、道ならしのような実験を、今、考案中です。以下は、そのスケッチのようなものです。
くつろいだ状況のときには、その時々の体験で、見聞きし、感じていること一つ一つが、ただ、ありのままであることをゆるし、そこにどっしりと腰を下ろして、じっくり感じ、味わうだけでその中に入ることができると思います。
鳥が鳴いてる、木が風に揺れてる。コーヒーカップが、柔らかな日差しを浴び、テーブルに影を落としてる。普段より、もののディーティールがよく見えて、もの言いたげに、意味深く目にとびこんできます。そこに「特別に」美しいものはなく、ごくごく普通の、平凡な日常光景なのだけど、まるで静物画でもみているような、独特な美しさをたたえてる。
その状態で、自分に注目してみます。周りに溶けこみ、くつろぎ、安らいでる感じがしませんか?うっとりしながら、「私はここに、こうやっているのが、好き。こうしてるのが最高・・・」って思ってないでしょうか?
それは、「今、ここ」のありのままの状況に、どこか不足をみて、落ち着かなくなる前の、あなたの本来の姿な。
「今、ここ」に対するあらゆる抵抗と、そこにないものの探索が始まる前、あなたは、「今、ここ」のあらゆるものが、ありのままであることを、受け入れながら、その形を超えたゆたかさを、両手いっぱいに受け取っていました。
その後、忘れてしまっても、その事実には変わりはありません。
しっとり系の自己愛は、この初期状態を思い出しているだけなんですね。
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一体感がすぐに感じられない場合、あるいはこの状態、一瞬感じたけれど、逸れてしまったと思った方は、次の実験を試みてください
何でもいいのですが、目の前の体験に、まずはピーンと注意を集中させてみます。
たとえば目の前のコーヒーカップが、柔らかな日差しを浴び、テーブルに影を落としてる様子に、う~んと、注意を凝らしてみてください。
集中、英語でアテンションという言葉に、テンションという言葉が含まれているように、
対象との間にゴムをピーンと張り詰めているように、心と体にう~んと力が入って、緊張している様子を、まずは、しっかり感じてください。
これ以上集中して、力を入れ、緊張して見つめられなというところまできたら、今度は対象からゴムを外し、緊張を逆向きに、ゆっくりと、ゆるめていきます。
そして、注意をその反対側の端、あなたの注意がそこから出てきた、源泉へと、少しずつ、少しずつ、戻していきます。
集中してピーンと張り詰めていた意識が、少しずつ緩んでいく、「緊張→弛緩」への変化の手応えを失わないように、徐々に、ゆっくり戻っていけば、道を迷わず、この源泉へと、たどり着くことができます。
オートマチックに元に巻き戻る巻尺を、戻すような感じです。
ピーンと張り詰めて、伸びきって、緊張していた意識が、元来たところにもどるにつれ、ゆったり安らぎ、リラックスする感じが、心に広がる。ふっと息をつくこの気持ち良さが、道案内人です。
安らぎが増してきて、いよいよ、そこに近づいたと思ったら、目をつぶって、何であれ、そこで感じられることを、じっくり味わってみてください。
そこには何があるでしょう?
最初はただ、安らぐ感じがするだけかもしれません。次第に、静けさが、そして、
空っぽの、清々しい、自由な、どこまでも無限に広がる空のようなものが感じられるようになるかもしれません。
それは、何でしょう? 何をするものでしょう? あるいは、自分が何だと言っていると思いますか?
感じること、気づいていること、知っていることそのもので、何であれ、あなたが見たり聞いたり、感じたり、考えたりすること、つまりあなたの体験全体に浸透し、それを成り立たせています。
スピリットとか、いのちとか、何と呼んでも、全く構わないのですが、この本では、「気づき」と呼んでいます。対象と結びつく以前の純粋な気づきは、本来、形もなければ、定位置にあるわけでもない、次元を持たない存在です。ただ、あなたの今の状態によって、いろんな風に、感じられると思います。
どんなにかすかな、どんな感じであれ、まずはそれを信頼して、そこに沈潜して、味わってみてください。何より、休んでください。というのも、これほど安らげるところはないからです。
その後、静かに目を開いてみましょう。
実験のはじめに見つめていたものが、今は、どう見えますか?
あるいは他のものはどう感じられますか?
一つ面白いことに気づかれるかもしれません。実験のはじめに見つめていたもの、たとえばコップだけでなく、周りのあらゆるものとも、同じように、しっとりとした一体感が感じられる。
意識の源泉である純粋な気づきの中で、すべては一体に溶け合っているので、
そこに一旦触れると、あらゆるものと一つになれるんです。
もちろん目を開くと、様々なものが目に映ります。でも、同じ一体化の記憶、風合いを背負ってる。純粋な気づきの中で、自分がすべてと一体だった記憶、「私は全て」だった記憶が、強烈な愛の高まりとして感じられることもあります。これが、しっとり系の自己愛の母体です。
この実験を繰り返し、体験を呼び起こし、深めるたびに、いつでも、実体験として蘇らせることができるわけですから、「記憶」というのも、変ですね。
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注意の対象から、注意の源泉へと、意識を普段とは逆向きに、
緊張が休まる方向へと遡行したところに見つかる、純粋な気づき。
そこから、自分が体験するあらゆるものが現れるというのは、信じがたいかもしれません。
でも、私たち、毎日のように夜、夢を見ていますよね。夢の只中では、全て実在するもののように感じられます。でも、夢が覚めると、すべては私の意識から立ち現れたことがわかる。
昼間に見る、この現実という夢に関しても、同じことが言えると考えるとすれば、どうでしょう?
つまり、朝起きてから体験する現実も、もう一つ高次の現実から眺めると、一つの夢だとすると、どうでしょう?
今、実験で、あなたが感じられた純粋な気づきは、この現実という夢の全体を夢見る意識なのです。
そういうふうに考えると、しっとり系の自己愛にとって、なぜ、あらゆるものが、一体化の対象なのかも、わかります。
自分が出てくる夢を見たこと、ありますか?
ほとんどの夢に、自分が主人公として、出てきますよね。
夢の中のあなたは、一生懸命、自分を守ろうとします。
いろんなものを手に入れて、自分を特別にすることで、心理的にも守ろうとするかもしれない。つまり、特別性の自己愛満々かもしれませんね(笑)
特別性の自己愛は、夢の中の一登場人物としての私が、自分に対して持つ感情なのです。
夢の主人公としての私の視点から見ると、
この夢の中には敵も味方もいれば、好きなものも、嫌いなものもあります。欲しくて追い求めているものもあれば、怖くて逃げ回ったり、それに対して防衛しているものもあるかもしれません。そうやって、特別性の自己愛を確立してるわけですね。
でも、朝になって夢から覚めると、どうでしょう?
そのすべてが、「私」から出てきたんだってことがわかります。
ただ、この「私」は夢の中にいた夢の主人公としての私ではなく、
夢全体を夢見る意識としての「私」です。
たとえば、「あんな怖い魔物すら、私の中から出てきたんだ!」と驚くこともあるでしょう。
「夢の一登場人物としてのあなた」だけでなく、
好きなもの、嫌いなものひっくるめた、夢に出てくるあらゆるものが、「夢を夢見る意識としての大きなあなた」にとっては、自分の一部、だったんです!
この大きなあなたにとっては、夢の中に出てくるすべてが、実際、自分から出てきた、自分の一部です! しっとり系の自己愛は、この大きな私の記憶からくるものです。