非二元のエッセンス

「今」だけが実在することを腑に落とす

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「今」が唯一、本当に実在する時で、そこにすべてがある。というのは、みんな言ってること、聞き飽きたよ。という人もいるかもしれません。

ただ、この手のことって、頭で理解するのと、本当に、それを実感して、そこでわかったことを、人生全てにあてはめていくのとでは、雲泥の差です。

そういうわけで、このことを実感するための実験や、そこでわかったことを、生活全体に落とし込むための新しい習慣の提案を、ときどきさせていただいています。

以下はその一つです。「今」だけが本当に実在することを、実感するための実験をしてみましょう。イギリスの非二元のティーチャー、ルパート・スパイラさんに習ったワークを、自己流にアレンジさせてもらったものです。

「今」、「未来」、「過去」について、思考してみて、その思考対象が実在するかを、確かめる実験です。

目をつぶってみてください。今、ここにあるものについての思いを、何でもいいので取り上げてみてください。

たとえば、 木が風にざわめいている音がするな。風が強いんだな・・・とか。
身体感覚でもいいです。ちょっと頭が重いな、とか、背中が凝ってるな・・・・

なるだけ、未来や過去に思考が逸れないようにしてください。

例えば、同じように風が強かった過去の日の思い出とか、このまま、ますます風が強くなると、庭のあの木、大丈夫だろうかとか・・・
そんなふうに、過去や未来に思考がさまよいはじめたら、それに気づいたところで、今の音の直接の体験に戻ってください。

厳密に言えば、「今、ここ」の体験そのものを、思考対象にすることはできません。
過去についての思考を参照しないと、思考そのものが、成り立たないからです。
「今、ここ」のぎりぎり近くまで、思考を寄り添わせて、その後、そこから、その思考が対象としている「今、ここ」の体験の中へと、ジャンプして飛びこむことは、できます!

というわけで、思考の焦点が、今の体験に合い始めたな・・・と思ったら、
その後、この思考が指しているものに、心の中で、触れてみてください。

たとえば、音だったら、音のしている方に注意を向けて、その質感を、静かに、じっくり味わってみてください。どんな感じがしますか?

身体感覚の場合は、重かったり、凝っていたりする身体の箇所に、
心をよせて、その感じををじっくり味わってみましょう。どんな感じがしますか?

いい・悪いといったジャッジメントもなるだけ外して、その感じを、ありのままに、味わってみましょう。

今度は目を開けてみましょう。何でもいいので、目にとまったものについて考えてみてください。
このカップ、ちょっと茶渋がついているな・・・でも何でもいいです。

その後、この思考の対象をじっくりみてみましょう。
いつもは気づきもしなかった細部がどんどん見えてくると、うまくいってる証拠です。このカップ、半円形かと思ってたけど、微妙にくぼんでるところがあるな・・・とか、

そんな具合に、普段より細部が浮き立って見えてきたら、ジャッジメントや先入観がかなり外れて、ありのままに見えてきた証拠ですね。

今度は、心の手で、その対象に、内側から触れてみてください。どんな感じがしますか?

これまで「今」をめぐる思考の対象、いくつか、心の手で、直に触れてきました。

それについて、ただ、思考していた時と、
その思考が対象としているものに、心の手でじかに触れながら、じっくりそれを味わった時とは、
全く違う体験が得られませんでしたか? だとしたら、どう違ったでしょう?
思考だけしているときと、その対象の中へと飛びこんだときの
体験の質感の違いを、しっかり覚えておいてください。

もう一つ確かめていただきたいことがあります。心の手でじかに触れた対象は、
視覚的だったり、聴覚的だったり、身体感覚の一部だったりさまざまでした。
でも、その対象に心の手で直に触れた時、そこで感じられる質感に、どこか共通点はみられませんでしたか? 五感のあらゆる体験に共通している、対象に心で直に触れた時のこの同じ質感を、「気づき」という言葉で、後で、詳しくお話しすることになると思います。

これまで、「今」について考える思考を取り上げて、その思考の対象に、心の手でじかに触れたりしてきました。

今度は、「未来」について考えてみましょう。さっきの実験をしていたときに、心が「今」から逸れて、未来にさまよい出た方は、それをそのままとりあげてもいいです。

とくになければ、何でもいいです。
たとえば、「私にはこんなことしてる時間は、本当はないんだ。あれもしなきゃ、これもしなきゃ、大変なことになる・・・」などでもいいし。その「大変なこと」について、具体的に、考えてみましょう。

その後で、この思考が対象にしているもの、たとえば、「大変なことになる」に、心の手でじかにふれてみましょう? 
そこに何かありますか? 空っぽではないでしょうか? 虚無の中を、思考だけが、一人歩きしているだけではないでしょうか?

未来についての思考なので、今、ここで直接体験できることの中に、
思考対象が見つからないのは、あたりまえですよね。
言葉で言えば、そういうことになりますが、それについて頭でわかっているのと、実際に、こうやって確かめてみるとは、雲泥の差です。

とくに、
「今」をめぐる思考のように、
思考が、ちゃんと思考対象に着地できる場合と、
「未来」をめぐる思考のように、
思考の一人歩きだけがある場合の
この二つの体験の質を比べてみてください。

「今」をめぐる思考のように、実在する思考対象の
あたたかい、確かな手応えの中に安らぐことができないって、
結構、落ち着かないことではないでしょうか?

とはいえ、「未来」についての思考も、
「もし、こういうことになったら、どうしよう!」というように、
そこに深い不安が伴っている場合、
たとえば胸がざわざわするような身体感覚が、何か、感じられるかもしれません。

そんな時は、特に念入りに、
この感情のもとになってる思考は対象を持たないこと、
少なくとも「今」直接体験される対象は一切持たないことを、
心を探って、確かめてみてください。

今度は「過去」の思考で、同じことをやってみましょう。何でもいいです。「あの時、あんなことさえしなければ・・・」といったことでもいいです。十分にそれについて思いをめぐらせることができたら、この思考の対象に、心の手で触れてみてください。そこに何かあるでしょうか?また空をつかむことになったのではないでしょうか?

ただ、この思考に伴う感情、たとえば、後悔や悲しみ、怒りなどが強烈にある場合、
胸の痛みやお腹の圧迫などの身体感覚が、そこにあるのに気づかれるかもしれません。
もう過ぎ去ったこと。思考対象は、今、ここに直接体験されることの中には、もちろん、ありません。

ただ、音は止んだ後も、その反響、木霊はしばらく響き渡ったりしますよね。それとちょうど同じように、対象は存在しないのに、対象が、もの(この場合は私たちの身体)に残した名残ばかりは残っているのですね。

過去の思考に伴う感情が出てきているのに気づいたら、抑圧せずに、出してあげてください。
感情が強烈に高まってきたら、ただ、この感情のもとになっている思考は、
対象を持たないものだったってことを、思い出してください。

そうしながら、この感情の担い手を、心の中を探って、探してみるのもいいかもしれません。「この感情、誰の感情だろう?」って自問自答しながら・・・

この感情の担い手も、
「今」直接体験されることの中には、いませんよね。

つまり、この感情ったら、担い手も、対象もないのに、
いつまでも鳴り止まない木霊のように響き渡ってるだけなんですね!

そう思うと、気楽ではないでしょうか?

過去や未来についての思考が、担い手も、対象も存在しないのに、妙にリアルに感じられるのはなぜか。
今、確かめてもらった「木霊」のような身体感覚が、そこにあるからです。
たとえば、怖い時は身体を縮ませますよね。その後、リラックスして、この緊張を解放させられれば、いいのですが、
立て続けに物事が続いたり、
そこに恥の感情などが働いて、抑圧されたりすると、
処理されないまま、身体に埋め込まれてしまうのです。

そして、似たようなシチュエーションの過去や、あり得る未来についての思考を見つけては、対象不在で、空っぽのはずのそれらの思考の中に入りこんで、中身のある、リアルなものにみせる働きをするのです。


この手の身体感覚については、そのうち、また詳しくお話しすることになると思います。

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