非二元のエッセンス

ありのままを受け入れることでありのままから自由になるパラドックス! 

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心を雲で覆ったように暗く陰らせるあらゆる体験からの出口は、
それを避けよう、否定しようと抵抗する代わりに、
逆に、ただ、そうなんだ、そうなんだ、そのままでいいよ・・・と思いながら、ありのままであるのを受け入れることの中にある。

それは、ものすごく面白いパラドックスだと思います。
つまり、「今、ここ」のありのままを、完全に受け入れると、
逆にそこから心理的に全然影響を受けなくなる。自由になれることです。

もちろん、ここで、「そのままでいい」と言っているのは、あなたが自分自身や自分を取り巻く状況についての思い、感情について言っています。たとえば、火事になりそうだったら、すぐに火を消して下さい!ただそうした状態を引き起こしたことについて、自己嫌悪や惨めな気持ちが湧いてくる、そうした気持ちが、そのまま、そこにあることを、ゆるすんですね。そういう意味で「そのままでいい」わけです。

そんなふうに、そのときどきの状況に反応して、抱くあらゆる感情に対して、それがそこにあるのを、完全にゆるすと、

逆に、心を体験にがっちりと結び付け、
それに反応して感情的になったり、こだわったり、矯正したいと思ってしまうように
ぎゅっと執着させてきたホックが、
「そのまままでいいよ」というこの合言葉と一緒に、ぱっと外れて、
心がふわっと広がり宙に舞い上がる感じです。

今、ここの体験のありのまま、
自分が聞いている音、見ているものの印象、考えていること、感じていること・・・・その細部にいたるまで、「そのままでいいよ」と、優しく受け入れる。
すると、その度に、体験と私を、べったり癒着させてきたホックが外れて、心がどんどん自由になり、大空に広がっていくようです。この無重力感、軽やかさには、病みつきになります。

まるで飛行機が離陸する瞬間のように、意識が、一つ上の次元に浮かび上がる感じです。
飛行機と違うのは、宙に浮かび上がりはしたけれど、その後も、地上から至近距離のままにとどまることですね。

すべてが、これまでより、広い視野で、俯瞰的に、ますますクリアに見ることができるし、
そこに対して、必要な働きかけをすることもできます。

とはいえ、いる場所は、ほんの少し上空なので、体験から、おびやかされることは、一切ない。安心感があります。つまり、そこで繰り広げられているドラマに巻き込まれて、感情的に反応したり、思い詰めたり、やっきになったりと、心理的に影響を受けることは、なくなります。

地上は地震で揺れていて、大変なことになっていても、それはこちらには伝わってこないのに似ています。

といっても、自分だけは無頓着、自分だけは安心・・・といった突き放したような感覚とも違いますよね。逆に、地上で、ドラマに巻き込まれているときより、愛情深くなっています。
自分に向かって攻撃してくる人でさえ、「可愛いな」という思いで受け止めるような感覚です。

なぜそんなことができるかというと、そもそも今、私をほんのちょっと上空にもちあげてくれている機動力、自由になるための翼を私に与えてくれているもの。それは何でも無条件受容する愛からできているからです。

このエネルギーに身を任せていると、同じエネルギーが至るところにあるのが、見えるからです。

たとえば、それぞれ、人は生い立ちがあり、これまでくぐってきた体験があり、その中で、さまざまに条件づけられながら、性格形成されてきました。でもその分厚い条件づけの奥には、愛がある。あるいは、無条件の愛の中で、心底安心したいという思いがある・・・それが透けて見えるからです。

中にはずいぶんひねくれた、攻撃的な形で現れているものもありますが、それでも、その人の条件付け中で、精一杯のことをやってる。それを言葉にすると、「可愛いな」ということになるわけです。

この「ほんの少し上空」にある安らぎの場から、
どんなに不器用で、ひねくた条件付けで覆われていようと、
そこから愛が透けて見えることを見届けること。

それって、何にもしていないようで、実は、とても多くのことをやっているように思われること、あります。
それを「見届ける」ことで、そこにエネルギーを与えて、
それが表に輝き出るサポートをするのですね!

本人に気づかれる必要は全然ありません!
緊張した場がゆるんで、笑顔が輝いたりすることで、それが功を奏したこと、わかります。

話を元に戻しましょう。とにかく、「すべてがそのままであることをゆるす」ことで、「そのままから、影響を受けなくなる」このパラドックスの場、この離陸の瞬間から、人も自分も癒す全ての力が流れこんできます。

そこにしっかり踏みとどまりながら、
「今ここ」に対する抵抗、欠如の信念の奥にあるあらゆる不快感を、しっかり感じてください。

このパラドックスの場を見つけた瞬間、私は人生の全ての問題がおかげで、すべて解決するって、思いました! それほどパワフルな場です。
ただ、いろんなニュアンスがそこに含まれているので、言葉にするのは難しいです。

物事を、シリアスにとらず、、ユーモラスに受け止めることも、
そうやって「ほんの少し上空」にいることの副産物として、よくみられます。

つまり「全てはこのままでいい」と、無条件の肯定する気持ちと、「とはいえ、それがどうしたというの?」という距離感が混ざり合ってる感じです。

ただ、「それがどうしたというの?」というと、これまた、突き放して聞こえますが、でも、そこにあるのは、先ほどもお話しした通り、愛ばかりです。愛といっても、全てに平等に向けられていて、相手がどんな形、ありさまをしているかには、無関心の、とらわれのない愛です。空間が、その空間の中にあるあらゆるものを、包みこむ愛です。

あるいは、どんなに辛い時も、そこにそれなりの美しさ、輝きがあって、
それを発見した瞬間にも似ています。

悲しみや怒りや苦しみを表現しながら、ぞっとするほど美しい曲がたくさんありますよね。
その時その時の、あらゆるの感情には、それがどんなにおぞましいものであれ、
宝石のような輝きが秘められていて、
ただ、発見されるのを待っている気がします。
そのためには、それを全面的に、まずは受け入れて、味わわなければなりません。

というのも、この発見は、今、お話ししているパラドックスの場でのみ、起こからです。

この状態に至るために、私はよく芸術の力を借ります。

芸術には、地獄のただ中にも天国を、不完全性の中に完全性を、それなりの美しさを、
うんと特殊なものの中に、普遍的なものを透かし見させてくれるとびっきりの機能があります。

それだけではありません。

この苦しみを、私は、みんなと一緒に分かち合ってる
という一種の共同体感覚ももたらしてくれます。

ブレーネさんは、帰属についての本の中で、
初期、ブルーグラスミュージックの中に繰り返し現れる「孤独な叫び」について、
それはもともと、戦争から戻って戻ってきた兵士が、故郷を目にしてあげた叫びを描写したものとしてはじまったそうですが、やがて、そんな体験をしたことなどない人も含め、無数の人たちの心を揺さぶるものになり、
みんなの自身の心の叫びと、共鳴していった話をしています。

音楽のほか、詩でも絵でもいいのですが、
本当にそれに感動するとき、そこで感じる
「これを作った人、これまでそれに心動かされたあらゆる人と、今自分は、同じ痛みをともにしている」というつながりの感覚、一体感は、直接的なもので、
みんなと一体の場に突如、移し入れられた感じがします。

それこそ、本当の私たちのもう一つ重要な特性である、愛にほかなりません!

どんな苦痛な体験も、そのただ中に、
そこに内在する美しさと、
「これを感じているのは自分だけではない!」という一体性を感じる時、
私たちはもう半分以上、癒されてます!

芸術家とは、個人の私的で特殊な苦しみや悲しみを、人類全体と分かちあえる
普遍性の領域へと高める力を持つ人たちだって言えるかもしれません。

このパラドックスの場に身を置けるようになると、それもできるようになるのだと思います。ここから眺めると、あらゆるものに、「それなりの美しさ」が、
あらゆる人と、分かち合うことができる普遍性が、
見えてくるからです。

というわけで、優れた芸術作品には、
闇のただ中に光を見つけるための、太い道筋が引かれています。

これを使わない手はありません。

感情の嵐が吹き荒れているときは、
その気分に一番マッチする音楽を聴いて、うんと涙を流したりしてます。
そうこうするうちに、どんな感情からも、内側から美しさが輝いてくる気がしてきます。

私は、音楽を使うことが多いのですが、
詩でも、絵画作品でも、何でもいいと思います。
既存の芸術作品で、しっくりするものが見つからなかったら、
自分で作るのもいいかもしれません。
誰に見せるわけでもないので、支離滅裂でも大丈夫。
それがどんなに殺伐としたものであれ、情けないものであれ、今ここで感じられる思いの描写からはじまって、そこに美しさが感じられるまで、ペンや筆を動かしたり、楽器をいじっていればいいのですから。

そうやって、不完全なものに完全さを、地獄に見えるもののただ中に天国を感じる力が身につくにつれ、どんな瞬間も、愛おしく感じられるようになります。
否定したり、抵抗して、余すことなく味あわないのは、もったいない。
とさえ思うようになります。

だからといって、とんでもないことが起こって、くじけそうになることもあります!
あるいは、「望んでいる状況」と「ありのままの状況」の不快なズレをもやもやと感じることは、あります。

ただ、ピンチの度合いが強いほど、好奇心がかき立てられるのも感じます。
珍味を堪能するように、少しも漏らさず、味わい尽くしたいとも思うし、
そこから、どんなふうに、このパラドックスの場に身をおいて、癒しが体験できるだろうって、またわくわくしてしまいます。

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