怒りや悲しみや、どうどうめぐりの思考に囚われた時は、心を見つめて、セルフヒーリングすることを、私、ずっとおすすめしてきました。
去年、私が特に奇跡のコース関連で書いていたブログでは、セルフヒーリングの仕方は、
その思いを引き起こしたと思われる出来事の中に、
自分が投影してる分離のトラウマ、罪悪感を丁寧に炙り出していく方法、ご紹介していました。
詳細は、『奇跡のコースによせて3 心をゆるめ、安らぎの源泉に身を浸す』という私の電子ブックを見ていただくとして、ここではかいつまんで説明すると、ざっとこういうことになります。
まずは、知覚されるストーリーの中での原因、「これが悪い!」は、一旦置いておきます。
そしてひたすら、自分の中で、
どんな感じがするか(感情)
なぜこんな感じがするんだろう(思考)
そんなふうに感じたり、思うことで、自分は一体、何が正しいと証明しようとしているんだろう(信念)
というのを、心を見つめながら、炙り出していくんですね。
でもそれが、本当に自分が望んでることだろうか? 私は本当は何を望んでいるんだろう?
たとえば、小さいことにも、怒鳴り散らさずにはいられないほど、怒りっぽくなっている場合、
知覚されるストーリーの中では、あの人が私にこんな不当なことをしたから・・・と、いくらでも人や出来事のせいにできます。でもそれを叩いていっても、被害妄想的になっていたり、過剰反応する癖は治らないどころか、どんどんエスカレートする可能性、ありますよね。
一旦、騙されたと思って、完全にそれが、自作自演の投影劇だってことを、仮説として認め(信じる必要はないのです)、
とりあえず、自分の心だけを、先ほどの手順で、感情→思考→信念→欲求・・・と
見つめていきます。
信念のあたりまで進むと、
居丈高で、強がる外見の下に、実は、無力感が隠れていて、
自分はこれほど、無力で、脆弱な存在なので、心に分厚い防塁を築いて、
ネズミ1匹に大砲を使うほどの大袈裟な防衛をしているのに気づかされたりするというわけです。
そんな自分が、本当に求めているのは何か、欲求を問い質していくと、やっぱり
「心底、安心したい」「本当の強さが欲しい」という思いがあることがわかります。
それを、これも、騙されたと思って、試していただきたいのは、
外的状況の変化に求めるのではなくて、
自分の内部だけに求める決意をします。
そして、本当の自分はすでに、それを持ってる。そのことを、分からせて欲しい、受け取らせて欲しいと、
本当の自分に向かって祈るのですね。
祈りの本質は、
身体の中に閉じ込められ、みんなから分離した、エゴと自分を同一視することから、
全てと一つにつながった、もっと大きな私こそ、自分だって思えるように、
視点をシフトさせることにあります。
すると、求めているものが、全て、すでに与えら得ているのに気づかされるというわけです。
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ただ、最近の、とくに非二元関係のブログでは、
これよりずっとシンプルなセルフヒーリングの方法、ご紹介させていただいています。
分離した、ちっちゃな私、エゴからくる
思いが沸き起こってきたら、ただ、それを、気づきの中に浮かべて、眺めてください
というふうに。
一貫性がないではないの? と言われても仕方がないかもしれません(笑)
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私が、この道の途上で見えてきたのは、
その人がどの段階にいるかで、効果的なセルフ・ヒーリングの方法は、違ってくることです。
最初は、丁寧に、思いの背後にある思考や信念、トラウマの記憶などを洗い出していくのは、とてもいいと思います。本当に一つの信念を問いただし、手放せたら、同じ信念から発するあらゆる悩みが、悩みとして感じられなくなるわけですから。
そうやって、根っこまで遡って、癒さなければ、何度も何度も同じパターンの問題を繰り返したかもしれない・・・その時間が、大幅に節約されます。というわけで、効率がいいわけです。
ただ、それを繰り返すうちに、だんだん、「分離した自己、エゴとしての私」が、どんどんリアリティを失っていきます。
外に出て、人とコミュニケーションをとるために、「服を着て合わないわけにはいかないな」と思って、ちょっと身にまとう、「服」くらいにしか、感じられなくなってきます。
私の場合、このプロセスに拍車をかけたのは、
これはどう見てもエゴから来ているという思いに囚われてる自分に気づくたびに、
「これを思っているのは誰だろう?」って、思いの出所を、心の中で、遡って探すワークを、徹底してやったことでした。
すると、そこはいつも、空っぽで、誰もいなくて、ただ光り輝く空間があるだけなことを、いつも確かめることになりました。
(人によって感じ方、異なるかもしれませんが、直接、体験できることだけを確かめる時、そこには、大きな私、スピリットがそこにあるだけだってことです)。
「担い手がいないのに、なぜ、思いだけあるのかな?」
「担い手がいる、つまりエゴが存在するって信じてた時の思い癖が残ってるだけなんだ!」ってこともわかります。癖をとるだけだって考えたら、気が楽ですよね。
そうこうするうちに、「エゴは実在しない」ことが、理論として、頭で理解するだけでなく、肌身で感じられるようになっていきます。
心の中に、本当に実在するのは、ただただ、空っぽで、どこまでもどこまでも広がる空があるだけ。これを確認するほど、すがすがしい、解放的なことはありません!
本当に存在する、この「空」の側から、
エゴの思いをやさしく包みこんで、
そこに吹く風を、いっぱいはらませ、染みこませ、
チューニングしていきます。
癖といっても、ストーリーと結びついて、投影対象ができれば、感情として吹き出してくる数多の身体感覚となって、身体にいっぱい、貯蔵されているので、きついことも、確かに、あります!
でも、それを、いたわりながら、一つ一つ、根気強く、解放して手放していけば、次第に楽になっていきます。
思い自体は激しくても、その担い手は存在しないことがわかってる以上、どんな激しい感情も、今日の天気のようなものです。英語で言えば主語が非人称のitの、非個人的なもの、やがて通過していく、自然現象のようなものだと思えばいいのです。
だから、とてもシンプルなセルフヒーリング法です。
その時に溶けた感じがしなくても、気にしないで、ただ気づきのやさしさでい続けるようにしています。
私は、ただ、感情を包む、気づきの「空」である続けるだけ。包まれる感情の側に私はいない。そこだけ徹底させるんです(もし、それがうまくいかなくて、感情の側に「私」の感覚をさらわれそうだったら、このブログの前半で紹介した、段階を追って進む方法を、試してみてください)。そして、この「空」の清々しい解放感と、気づきのやさしさを、感情にじわじわと染み込ませていく。
シンプルな分、数で勝負って感じかな?
あらゆる感情をチェックして、「あっ、これは、分離した自己からきてる」と思うと、逃さず、癒してます。
「分離した自己からきてる」ことは、感情から、ストーリーや、個人性を外すと、その下から不快な身体感覚が現れるので、すぐに分かります。
だから、1日に何度も、ほとんど無意識のうちにやってる感じです。
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この気づきの「空」から、
同じところをぐるぐる、堂々巡りするばかりのエゴの思考をながめると、
壊れたスピーカーのよう。
人の制御なしに、ただ条件付けられ、プログラムされたことを、
忠実に、何度も繰り返しています。
それに対して、哀れみさえ湧いてきます。
「もう頑張る必要はないのよ。役目は終わったんだから」と、いたわり、抱きしめてあげたい気持ちになります。気づきの中で眺めることは、つまりそういうことですね。
でも、その中に入って、それを分解して、ここに、こんな信念がある・・・などと見ていくのは、なんだか、狭い暗いところに、入っていくようで、気がすすみません。
せっかくエゴからリアリティが失われたのに、
逆に、また、エゴをリアルにしてしまうような気がするからです。
「エゴは実在しない」ことが、本当に腑に落ちたあとは、
たとえ、エゴを取り消すのが目的であっても、エゴの中に、深く入っていく必要はないのではないかな? というのが、今の時点で、私が気づいたことです。
たとえば、あなたが、「これはどうみてもエゴの思い」と思える思考が湧いた時に、
馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまうことがよくあるとすれば、
すでにその段階に来ていると思うのです!
そうやって笑えるようになったのに、その「笑い」の中身を、一生懸命分析したりする必要はないと思います。
そういう方には、シンプルなバージョンのセルフヒーリングをおすすめしたいです。
といっても、私もまだまだ道の途上、今私がいる地点で気づいたことをシェアさせていただいただけです。