センセーション、身体感覚は、分離した自己の最後の砦で、それが、実在しないことが重々わかった後も、居座り続けるその名残です。分離した自己にとって、ショッキングな状況があったとき、頭では、「大丈夫だ」ってわかっていても、やっぱりショックに感じてしまうのは、この「名残」が条件反射させているからなんですね。
おそれや悲しみ、怒りなど、エモーショナルな感情の癒しは、ルパートさん流にやると、そこからあらゆるストーリー、ラベルづけ、記憶を外し、生まれたての赤ちゃんのような視点で、直接体験できることだけを残していきます。
コース流にやれば、この感情の「原因」だと思っていたこと(困った状況や人間関係など)が、実は自分の心の中の罪悪感を、外に投影した「結果」に過ぎないことに気づき、本当の「原因」である、投影元、自分の心の中の映写室に戻ります。
でも、どちらのやり方でこうした感情と取り組む場合も、結局、最後に残るのは、胸のざわつき、頭の重苦しさ、お腹の圧迫感といった、身体感覚なんですね!
というわけで、実践を続けるほど、最後は、この身体感覚だけが問題なんだってことが、いやというほどわかります。
だからといって、「これを除去しよう」と思うのも、抵抗になってしまうので、うまくいかないとも言いました。
ではいったいどうすればいいの! って言われそうですが、
目的を、不快感を除去するためではなく、あくまで、ただ、気づきとしてあること。やさしい、いたわりと、気づかい、理解に満ちた気づきのフィールドとしてあることにおくことだと思います。
そしてそこにどんな「とんでもない」体験、身体感覚などが現れても、「とんでもない」と感じる前に、「自分の愛とやさしさでひたひたに浸せる、また新たな対象が、現れたぞ!」って、喜べるようになれると、ベストですね!
それが本当にできれば、この身体感覚が、実際に「消える」かどうかは、もう、どうでもよくなるはずです。
そんな感じで、このビデオのメディテーションも、していただければ、きっといい体験ができると思います!
身体感覚を一掃するというより、身体感覚に、愛と理解を浸透させるために、そこに気づきの息吹の風を通していくわけです!