非二元のエッセンス

悟りは引き算〜「脱ぐ」ことから?

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ルパートさんの新しいメディテーションビデオ、「身体感覚から純粋な気づきへ」(リンクはここ)の字幕つけ、最近終了しました。

ある警察官がいて、毎日制服を着て、武装して、職務を果たしている。
でも、1日2回、朝、家を出る前と、夕方、家に戻ったらすぐ、裸になって
シャワーを浴びる・・・

警察官の姿は私たちの分離した自己、エゴのたとえですね。

集合意識に発する条件付けや、役割演技でできているという点で、「制服」を着ていますし、

分離することで、弱々しく、孤立無援に感じられる自分を、いつも防備していなければならないという点で、警官のようにいつも「武装」しています。


裸になってシャワーを浴びるというのは、そうしたエゴの殻すべてを一旦脱ぎ捨てて、

気づきだけでできた本来の姿に戻る実践。瞑想の比喩ですね。

幸福、悟りというのは、服を脱ぐようなもの
いつもいつも、24時間、一緒にいる、あなたの本性を自覚しながら生きること
服を上に着込むことで、自分の裸の身体の感覚を忘れることがあるように、
日々の体験の内容にすっかりとらわれてしまうことで、自分の本性を忘れてしまうことは、確かにある。

でも、だからといって、この本性は損なわれることも失われることもない。
いくら服を着ても、武装しても、その下にあるのは、同じ身体なのと同じように・・・

つまり、悟りというのは足し算ではなくて、引き算なんだってことを、シンプルながら、鮮やかなイメージで教えてくれる比喩ですね。

悟りは、足し算だって思うと、
悟りはどこかはるかかなた高みにある特別な意識の状態で、
そのためには何か特別のことをしなきゃいけない。修行したり、いろんなことをしなきゃいけないって思ってしまいます。
究極の方法や、究極の先生が、どこかにいると思って、探し回ることになります。

これ全部、悟りを、それ自体、新たに身に纏う、素晴らしい服、究極の服、それさえ手に入れれば、あらゆる願いがかなう魔法の服だって思うことに他ならないわけです。

でも、本当は、その服も含めて、全て脱いで脱いで、脱ぎまくること、必要なのはそれだけなんですね!

「今の私はまだまだ!」という「服」

そんな「服」の中には、とても微妙で、薄〜いものものあります。

スピリチュアルな実践を正しく続けていると、
特にこれという理由もないのに、幸福を感じることが多くなります。
「服」の着脱が上手になってくるからです。

中には、たまたま、いろんな条件がそろったせいで、
至福の境地に達することもあります。

それ自体素晴らしいのですが、
その後、ちょっとつまづいて、疲れや、ストレスを感じ始めると、
その前に感じた幸福な状態と、どうしても比較してしまって、
今ここの、ありのままの自分の状態を断罪し始めます。
「今は調子が悪い」「こんなんじゃだめだ!」というふうに。
強い光を知るほど、ごく普通の状態も闇として感じられてくるからというのもありますし、
そうやって、今ここのありのままの自分の状態に対して「ダメだ」「不調だ」というレッテル貼りをして、ジャッジすること自体が、エゴの働きということもあり、
もがけばもがくほど、深みに落ちていく、
悪循環の罠にはまってしまうことすら、あります!

似たようなバージョンとして、
「こんな作業をしている限り、スピリチュアルにはなれない」と、
生計を立てるためにしている仕事や、必要な日々の仕事にレッテル貼りしたり、
「こんな人と一緒にいると、スピリチュアルにはなれない」と、
目の前にいる人を、気づかぬうちにジャッジしていたりすることもあります。

そうなってくると、「調子が悪い!」と思った時に、必ず登場する、
いつもお決まりの身体感覚も出てきます。
人によって違うかと思うのですが、私はいつも頭にぼうっと霧がかかったようになり、
目の奥に疲れを感じ始めます。この身体感覚も「服」の一つです。

では、具体的に、どうやって「服」を脱ぐの? と思われるかもしれません。

簡単に実験してみましょう。

心の「服」を脱ぐ実験

今のあなたが、体験していることを、ざっと自覚してみてください。
例えば私の場合、

窓から風に揺れる木が見える
目の前にはパソコンがある
つけているヘッドフォンが頭を圧迫している
そこから綺麗な音楽が流れている。
頭がぼーっとしている。

それぞれの体験は、視覚的だったり、触覚的だったり、聴覚的だったりさまざまです。
それらの知覚の発生源だと思われる場所も、野外だったり、屋内だったり、至近距離だったりとさまざまです。
そこで仮に、体験に対してジャッジメントをしたとき、
ポジティブ、たとえば心地よく感じられるものもあれば(木が見えること、綺麗な音楽が流れていること)、
ネガティブ、不快に感じられること(ヘッドフォンで頭が圧迫されている、頭がぼーっとしている)もあります。そういう意味でもさまざまです。

でもそこで、今度は、それらの様々な知覚に自分が「気づいて」いることに注目してください。

窓から風に揺れる木が見えるのに、私は気づいている
目の前にはパソコンがあるのに、私は気づいている。
つけてるヘッドフォンが頭をちょっと圧迫してるのに、私は気づいている。
そこから綺麗な音楽が流れているのに、私は気づいている。
頭がぼーっとしているのに、私は気づいている。

今度は、ここで太字にした「私は気づいている」という意識に注目してください。
これらは、同じもののように感じられますか? 違うものとして感じられますか? 

だんだん同じように感じられてきたら、そこへ深く、深く沈潜してみてください。
目の前のパソコンや窓の外の木を見る時、私の注意は、その場所に向かいました。

でもそうした体験に「気づいている」ことに気づいた時、私はどこでそれを確かめたでしょう?

必要があれば、

「私は気づいているかな?」「うん、気づいてる」

「ではどこでそれを確かめたんだ?」と自問自答を繰り返しながら、その確かめた場所に何度も戻ってみてください。

その場所のありかがわかってきたら、そこにぐっと沈み込みながら、そんな自分に気づいていてください。

一言で言えば、
「気づきに気づく」
わけです。

それは
目が目を見る
太陽が太陽を照らす
のに似ています。

目は、自分自身を見ることはできないし、太陽は自分自身を照らすことはできない

目が目を見るには、自分以外のあらゆるものを、見ながら、
ああ、私は見てるんだな・・・と、自分が見る活動に自覚的になるしかありません
太陽の場合も同様で、ただただすべてのものを照らしながら、
ああ、私は照らしているんだな・・・と、自分の照らす活動を自覚的になるしかありません

それとちょうど同じように、私たちも
ああ、私はいろんなものに気づいているんだな・・・と思いながら、
その気づく働きに気づいていることができるだけです。

そこで何か客体に気づくことがあったら、それ自体、気づく働きではありませんよね。
目に見えたもの、それ自体は、目の見る働きではないように。
太陽に照らされたもの、それ自体は、太陽の照らす働きではないように。

気づきに気づいてくださいというと、最初は、最初はピーンと緊張されるかもしれません。

緊張するということは、そこに何か「客体」を探してる証拠です。
「純粋な気づきというのは、こんなものだろう」というイメージ(それ自体客体です!)があらかじめあって、それとの誤差などをチェックしてるのかもしれないし、
「これでいいのかしら?間違っていないかしら?」と思われているのかもしれません。

正解は、そんなふうに気にしたり、チェックする活動すべて、やめていいんだよ、リタイアして、休んでいいんだよ・・・ってすべてをうっちゃっておくところにあります!

だって、太陽にとって照らすことが本性であり、目にとって見ることが本性であるように、自分の本性を果たしてるだけなのですから。ただ、「私」であればいいだけ。何もする必要はないからです。「存在」であればいいだけ。どこに緊張する必要があるでしょう! 

客体のゼロ値というのは、本来とても、安らげることなんです。
あらゆるものを、うっちゃっておいて、流れるままに流れさせていいんだ・・・って自分に許可をあたえることなのですから。

ただ、気づきに気づきながら、
体験内容、それが素晴らしい眺めであれ、やかましやの家族であれ、頭痛であれ、
その上を流れるままに流れさせてください。

すると、何をしているときも、
何を体験しているときも、

その下にはいつも、何ともいえない安らぎが横たわっているのに気づきます。

というのも、「気づきに気づく」、伏流水の安らぎに浸かりながら、様々な体験が流れるままに、来ては去っていくのを眺めるうちに、

最初はちょろちょろ、心の奥底を微かに流れているように感じられたこの伏流水も、その水嵩を増していき、ついには、全体験がその中にすっぽりと包み込まれ、その中にぽっかり浮かび上がるように、現れているのがわかるからです。

窓からの眺めや、やかましやの家族や、頭痛は、依然としてそこにある。でもそれが、気づきの伏流水のやさしい光にすっぽり覆われて、思い出の中の光景のように、なつかしく、微かに点滅しながら見え隠れするようなものになっていきます。

『身体感覚から純粋な気づきへ』という、今、お話ししたルパートさんのビデオの中に、「ほとんどの人にあっては、体験の方が、私たちの存在よりも、明るく輝き出ています。しかし、悟りにあっては、私たちの存在の方が、私たちの体験よりも、明るく輝き出ます」という言葉がありますが、

これこそ、まさにその瞬間ですね。存在の光が、体験を貫いて、輝き出る瞬間です! どんな真っ暗なフィルムも、そこに当てる光の強度を増すと、透明に透けて輝き出すように!

そしてしまいには、この光にすっかり溶けていき・・・すべて、この光からできていたことがわかるというわけです。

体験の全ては、気づきからできている。だから、素材に戻せば、本質的には、みんな、優しい・・・それに気づくのは、安らぎそのものです。

体験の内容を、頑張ってコントロールして変える必要もない。必要なのは、その体験に気づいている、気づきの光、存在の光をそこにいっぱいに浸し、それを貫いて、輝き出させるだけでいい。

このことに気づくのも、安らぎそのものです。

何をしているときも、何を体験している時も、そんなふうに、
同時にこの安らぎの伏流に浸かっていると、
のんびり、飄々と、ユーモラスにしていられます。
体験の細部の細部まで、ありのままであることをゆるせる、愛に満たされていられるようになります。

それが、裸の身体の感触です!

一人静かになれる時間に、じっくり今のような実験をしたり、瞑想して、
客体性のゼロ値の中で、気づきを、自分自身だけに気づいている純粋な状態で安らわせるのが、
ビデオのたとえ話でいえば、「警官がシャワーを浴びる」瞬間です。

ルパートさんのいうヴェーダンダの道は、そんな裸の状態の意識を探求するものです。

これに対して、日中、あらゆる体験の只中にいながら、同時にこの気づきの「伏流水」の安らぎも忘れずに、それを感じ続けているのは

警官が、制服を着て、職務を果たしながら、裸の感触を失わないでいることにあたります。

そうこうするうちに、どんな体験、「制服」「職務」も、実はすべてその下を流れる「伏流水」の安らぎや愛でできていたことがわかるかもしれません。そのとき、私たちは「タントラの道」を歩いていることになります。

 周りの人やもの、あなたの身体もほっと一息

気づきのこの伏流水に浸されているのは、
あなた自身だけでなく、関わる全ての人、ものを安らわせます。
安らぎが周りに放射され、伝染するってこともあります。

でももっと本質的なのは、
「私を幸せにしてくれ! そのために〜であってくれ! 私の期待を満たしてくれないと、承知しないぞ!」といった攻撃的なメッセージを携えて、周りの人やものと、関わらなくて済むようになるからです。

だって、幸福の源泉が別のところにあることに、気づいたわけですから。

何より、あなたの身体を安らかにします。
頭がぼーっとしていても、歳をとって体が不自由になろうと、大丈夫。私の幸福の源泉は、それを除去したところではなくて、その只中、その奥にあって、どこにもいかず、いつもそこにあることを知ってるから!

いつもベストなコンディションでいたい
「だから頑張って!」と、滋養強壮剤やビタミン剤を飲んだり、薬物や特別な食べ物を摂る代わりに、
身体が、ただありのままであるのを許すだけで、身体も、ほっと一息つけるというわけです。

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