非二元のエッセンス

身体の受容が、身体の空性を露わにする

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今週末の8月2日に、身体感覚の解放をテーマにしたルパートさんのヨガ・メディテーションを、解説交え、オンラインでみんなでやる会を計画しています。

その前に、そもそも、彼は身体をどうしようとしているのか、
目標はどのあたりにあるのかを、はっきりさせておきたいと思いました。

私たち、一人一人、切り離された、分離した身体、持っていますよね。
そんなこともあって、身体は、分離した自己、エゴの拠点になりがち。
閉じて、ぎゅっと凝縮しながら、内にはエゴのおそれを沢山秘めながら、外向きは、人と違う特別な私の砦として働いてくれています。

でも、それだけが身体の用途ではありません。

しなやかに、柔らかく、開かれて
どこまでも無限大に広がる気づきとしての本当の私の表現媒体になることもできます。

たとえば、うれしくて、うれしくて、自然に小躍りするうちに、それがダンスになり、
一目見ただけで、その喜びが伝染して、見ている人も、うれしくなってくる。そんな人がいるとします。

その人が今、全身で表現している喜びは、みんなで共有され得る、たった一つの、
限界を知らず、どこまでも分かち合われていく喜びだって言えます。

その人の身体は、もちろん、皮膚の境界まで。
でも、それは、このたった一つの無限大のよろこびを表現して、みんなと分かち合う媒体として、この無限性に対して、それを共に分かち合う全ての人に対して、
どこまでもオープンに開かれていきます。
よろこびそのものを表現する媒体として、それ自体、どんどん透明になっていきます。

ヨガメディテーションも、そんな開かれた身体になるのを、目指すものです。
生きとし生けるものすべてに共有される気づきを全身で表現できるようになるために。

そうやって、気づきに対して、どこまでも、透明に開き切った時、
身体そのものも、この無限の気づきが見る夢の一部だったことがわかります。

非二元のティーチングの中には、この結論を先取りして、
「身体は存在しない」と言うところから入るものもあります。
私も、そんなふうに、頭で理解して、何かわかった気になってたこと、ありました!

でも、身体を否定しても、身体が透明度を増して輝きながら、気づきの中、愛の中に消えていくこの体験は得られません。

逆に、身体をいたわり、愛し、ジャッジメントやラベル抜きに、ありのままでいさせてあげること(否定するなんてもってのほか!)で、初めて得られる体験だって、今は、思ってます。

身体は究極的には存在しないと言える。
でもそれは、あくまで、身体をジャッジメントを知らない、愛そのもの、気づきで浸して、
やさしく、大切に扱ってはじめて、見えてくる事実。
その辺の微妙なバランス、当日は、伝えられたらと思います。

要するに、身体には、ぎゅっと凝縮して、閉じて、抑圧されたエゴの感情をかくまう性質と、

生きとし生けるすべてのものと共有する気づきの無限性に向かって透明に開かれ、
そのよろこび、安らぎ、愛を、ダンスするときのように、表現する媒体としての性質があるわけです。

後者の開かれた性質を引き出すために、
前者のぎゅっと凝縮した部分、「自分は一人ぼっちな、無力な存在だ」というおそれが詰めこまれた部分を、開いて、中にある感情を解放していく必要があります。

でも、乱暴に、あなたは閉じてる。内側に抑圧されたエゴの感情を隠している。それは良くない、開きなさい と言ってもうまくいきません。

そこまであからさまでなくても、
たとえば、何か特別のメソッドで修行・鍛錬すれば、開けると頑張っても、うまくいきません。

まずは、そうやって閉じてるありのままの身体を、無条件に愛し、受容する気づきに浸してあげる必要があります。
いつも隠れてばかりいるシャイな隣人。でも、お友達になりたいなって思ってる、そんな相手に対するように。

天岩戸に篭った天照大神は、「出てこい」と言っても出てこなくて、どんどん奥へ引っこんでいくばかり。
でも、しそうに宴会などやってると、つられて出てきますよね。それに似たところがあります。力づくでは、うまくいかない。強いても、出てきてはくれません。喜びや、愛だけが効き目を発する感じです。

あるいは、むずがる子供に似ているかも。いくら諭しても、つっけんどんで、心を開いてくれないけれど、そのままでいいのよって、受け入れると、わあっと泣きながら、胸に飛びこんでくる。
無条件に受容されている、愛されている、だから大丈夫だって、安心することで、出てきてくるのですね。

たとえばこのヨガメディテーションも、不快な身体感覚を「除去しよう」として、
ただ機械的に、そこに呼吸を通しても、うまくいかないと思います。

身体感覚は「除去される」ものではないです。だってそれ自身、気づき、愛でできているのですから。

天岩戸から出てきたアマテラスは、太陽を輝かせますが、それと同じように、幻想の束縛が解けた後の、身体感覚の姿も、そう壮麗なもの。「除去する」なんて、めっそうもないことです。

それ自身、たっぷりの愛でできていたことをあらわにしながら、
気づきの海の中に溶けていくだけです。

今回の瞑想の会で使うヨガメディテーションのビデオはここ

ピエール・ボナール『浴室の裸婦と子犬』
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