非二元のエッセンス

欠如の信念に気づいたら動く前に見つめる習慣のすすめ 〜とはいえ、禁欲しなきゃいけないというわけではない !

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欠如の信念に気づいたら、動く前に見つめる習慣


最近のブログで、

何をやるときも、そこに欠如の信念がないか、チェックするようにおすすめして、そこに実際、欠如の信念が見つかったら、それが命ずることをすぐ行動に移すのをやめて、その代わりに、この信念を見つめ、その正体を露わにすることをおすすめしてきました。

慣れてくると、呼吸のように、自然にできるようになります。
「何かを、しなきゃ」と思うたびに、
吸う息のように、ちょっと緊張して、その思いの背後にある気持ちを感じます。

特に何にも感じない時や、逆に、高揚したいい気持ちを感じる時は、安心して、やろうと思っていたことに、とりかかります。

そして、もしそこに欠如の信念からくる、寒々とした、締めつけるような感じが見つかったら、そのまま大切にじーっと味わってから、
吐く息とともに、力を緩め思考をゆるめ、そこから、直接体験の中にはない、
そこに恣意的にかぶせられているだけの、感情や思考が出てくる時は出てくるにまかせながら、「私は何も知らない」まっさら状態になり、リラックスしながら、それを気づいている気づきの空間に、残る身体感覚すべてをまるごとゆだねていくといいです。

そんなふうに、私は、毎日、何度も気持ちのチェックをしています。
たとえば、ヨガのエクセサイスをしようとか、楽器の練習をしようとか、英語の勉強をしようとか、散歩に出かけようとか、食事の支度をしようとか、お菓子を焼こうとか思った瞬間に、そこにある気持ちをまずは感じてみるんです。

そして、そこに、
たとえば、ありのままの自分ではダメで、もっともっと努力しないとダメなんだとか、これくらいやらないと、痩せられない、人並みとはいえない、愛されない、人を喜ばせられない・・・などなど、少しでも欠如の信念のかけらがそこに見つかったら、
それが癒されるまで、やらないことにしています。
もちろん、危急のことでなければですが。

というのも、そうした気持ちをかかえたままではじめても、楽しくなしい、能力を伸び伸びと、発揮することもできないからです。

特に、クリエィティブにはなれません。クリエィティビティを発揮するには、自由に冒険しても、大丈夫って思えるくらいの、安心感がいりますから! この安心感は、欠如の信念が癒され、愛され満たされて、はじめて生まれるものです。

たとえば、こうして文章を書きながらも、その動機に、例えば「認められたい」といった欠如感が隠れていないか、チェックしています。少しでもその気配があったら、それを吸う息と一緒にギュッと感じては、吐く息と共にゆだねることにしています。

私たちの今の文化は圧倒的に、欠如の信念を機動力に動いてます。時間が足らない、お金が足らない・・・から始まって、不足ばかり、問題ばかりを見て、それを何とかしようと日々忙しくしてる。こちらの動機で動かされているからです。

だから、それがだんだん癒されてくると、一時的、過渡的に、
「何を目指して、私、これから生きていけばいいの?」と思う時期、あるかもしれません。

そんなことがあったら、思い出してください、何かいいことがあって、上機嫌の時に、思わず、通りですれちがった見知らぬ人にまで微笑みかけたことはないでしょうか? 
これは欠如を満たすための行動ではないですよね。その真逆。自分の中から溢れるものの分かち合いです! 

あるいは、何かそれ自体をやることが楽しくて楽しくてしかたがないので、やったことはないですか? 仕事をお金のためにというより、それが面白いのでやってるって思ったことはないですか?

この感覚は残るし、ますます高まっていきます。

そんなふうに、いつも生きていきたいと思いませんか? 

禁欲しなきゃいけないというわけでもない!

何だか退屈で手持ちぶたさ、空虚感が出たり、不安が増してきたので、特にお腹も空いていないけれど、スィーツを買いに出かけたくなった。体重が気になるので、本当はだめなのだけど、でも、ちょっとくらいはいいか・・・

欠如の信念が裏に隠れている可能性、ありありですね。
で、これを見つめて、ストーリーや感情を出るにまかせ、気づきの海に浮かぶ身体感覚だけ残り、だんだん気持ちが和んできた。

そうやって癒された後、よく起こるのは、健忘症です。「あれ? 私何がしたかったんだっけ?」スィーツを買いに出かけたかったのを忘れてる。

欠如の信念からの癒しは、だいたい、「気づいてみると、最近そういうことなくなったな」と言う形をとります。私の場合は、特に必要はないのだけど、何となく出かけるような外出が、めっきり減ったし、特に必要はない買い物も、ほとんどなくなりました。一時ひどかったカフェ中毒もなくなったし、コロナの外出自粛が始まっても、生活ほとんど変わらなかったほどです。全体的に、お金を使うことがなくなりました。

必要なものも、とくに緊急でない場合は、のんびり構えて「現れるまで待つ」ほどになりました。
新しい家に越した後、ダイニングテーブルがなかったのですが、店に行っても、カタログを見ても、何となく「これだ!」というものがないので、何ヶ月も、古い勉強机を、パートナーと2人で食卓代わりに使っていました。すると案の定、いい家具職人さんとの出会いがありました。

話を戻しましょう。スィーツを買いに出かけようとしたところ、欠如の信念を見つめて、癒された話ですね。その後、健忘症で、何をしたかったか忘れるほかにも、いろんなケースが考えられます。

依然として、同じことがしたいかもしれません。

とはいえ、結局、同じことをすることになっても、欠如の信念に駆られてするときと、
癒されて、満たされた気持ちからするときは、全然質が異なります!

罪悪感を感じながら、不安をまぎらわすために、口にするときは、
本当の意味で、味わったり、楽しんだりしてませんよね。

でも心満たされて食べるときには、一瞬、一瞬、愛おしみながら、味わいながら、あるいは感謝しながら食べることができるようになります。食べることが、自分に対する贈り物になり、祝祭になります。

スイーツを食べるという全く同じ行為も、
欠如の信念に促されている場合と、
充溢感の素直な表現、生に対する感謝や愛や祝福の表現としてなされるときがあります。

欠如の信念が消えても、依然としてスィーツが食べたい場合は、
この手の祝祭の儀式、感謝や愛の表現がしたいのですね。

どっちが背景になっているかは、そのときに、「どう感じるか」を問いただせば、
簡単に見分けられます。

つまり、これまで欠如の信念に促されてやっていたことを、全てやめなきゃいけない
お酒もスィーツも、ショッピングも、止める必要があると言ってるわけではないのですね。
欠如の信念なしで、楽しみましょう、つまり本当の意味で楽しみましょうと言っているだけなんです。

私は、生活全体を自覚的にするのが好きですが、
これをしなきゃいけない、あれをしなきゃいけないと、形の上でルールを決めることはしないようにしています。

形としては同じ行為が、背後にある動機で、全然違う意味合いを持つ。
ということは、正しさは形の中にはないってことです。
これをすれば、スピリチュアルなんてものはない。
ただ、何をするにせよ、これが正しいからでも、義務感や道義心からでもなく、
幸せの充溢から、よろこんで、なすことはできますよね。
それこそ、正しさの、モラルの源泉にいることだって思ってます。

幸せの充溢を背負い、愛の中にあればあるほど、
型通りの正しさには無頓着になります、次の行動は予測不可能。
つまり自由。
でも、そこでなされることは、全て正しくなる!
そこに自己肯定感の本当の源泉もあると思うのです。

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